調査研究

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2008.09.11
部会・研究会活動 < 近代日本とマイノリティ>
 
近代日本とマイノリティ 報告
2008年05月10

1.<社会>と教壇のはざまに立つ教員

倉石一郎(東京外国語大学)

2.北野実と生江町経済更生会

廣岡浄進(大阪大学大学院)

〈第1報告〉

 敗戦直後に新しい学制ができるが、戦後の混乱も重なって、長欠不就学問題が顕著になった。高知県では福祉教員を配置して、それにもっぱらあたらせるということが行われた。福祉教員が配置された地域は、一部障害児教育の重点校に配置されているが、それを除く大半は、同和地区の子どもが通っている小・中学校の校区に配置された。高知の戦後の同和教育は、福祉教員が担った福祉教育から始まった。

 福祉教員は、授業を持たずに、家庭を訪ねて説得することに専念していた。学校と外部の境界に立つ存在(ゲートキーパー)としてとらえられる。

 当時の教育委員会は公選制のものであり、今のものとはまったく質が異なる。第17回の県議会答弁で、不就学問題は親の義務教育に対する認識の不徹底と児童の自覚の不足に帰着するとされ、同和地区にこの問題が顕著だと述べられている。こうした認識は、後の福祉教員の主たる業務が家庭訪問であることに反映されている。

 長岡村の鳶ヶ池中学校に、1948年に長欠対策教員として2名の教員が配置された。そのうちの1人が福岡弘幸さん(1915-2006)だった。戦前から青年学校の教員だったが、なぜ長欠対策教員になったかというと、地区の融和事業家として著名な溝渕信義の力が大きかった。部落の中の裕福な家の出で、戦後は高知大学農学部の助教授になる人である。向学心のある部落の若者を家に引き取って、学校に通わせて、教師にさせていった。「同和問題は教育で解決する」ということばは、生活手段の乏しい地区で育った若者に安定した経済生活を直接的にもたらす「教育職」を指すのではないか。

 1970年に同和教育主任が設置された後、徐々にその職務が同和教育主任へと移行し、70年代末までには用語としても消滅する。同和教育主任と福祉教員が二重にいる時期があった。校内の同和教育は同和教育主任が、福祉教員は、子ども会・青年学級・婦人学級の担当として機能していたと聞いた。高知新聞の報道では、教員が「門外」に出て狭義の職分を超えた援助行為に及んでいることがわかる。

 高知市内での特徴は、同和地区の子どもだけではなく、水商売をしている家庭の子どもが放置されているという状況が混在している中で、『きょうも机にあの子がいない』の実践記録があることだ。

〈第2報告〉

 水平運動の事例として、大阪の北野実を取り上げるにあたり、生江町経済更生会に注目した。水平社の戦時体制協力においては、転向ととらえるのか、水融合体なのか、議論となっている一方で、明らかにされていることは少ない。1941年に水平社はなくなるが、大阪の動向をめぐっていくつか議論がある。軸になるのは元来ボル派の松田喜一であり、活動の軸にするのは経済更生会である。生活防衛の役割を果たしたという評価もある一方で、成果は限定的で、戦争協力になったという評価もある。

 生江地区の歴史をふり返ると、もともと、東成郡城北村荒生(なぎ)と呼ばれており、後に東成区生江町、旭区生江町となった。水平社については城北水平社と城北革新水平社が結成されており、1926年に統一される。1930年に大阪府水平社が全水大阪府連になったので、全水大阪府連城北支部となる。

 北野自身が書いているものは多くはない。1920年代に何をしていのかははっきりしない。1930年代に府連に関わるようになるが、大会記録などを見てもよくわからない。1935年には府連大会において冠婚葬祭における封建的悪習打破を主張しているが、大会記録が残っているのが35年までである。1936年には、全国水平社青年部城北支部を作っているが、単発的な記録であり、組織を作ったことはわかるが、どう展開したのかはわからない。その後、北野を含む大阪の水平運動は融和団体へと進出して行く。

 経済更生会については『融和時報』を見ると、北区と旭区でできた後、浪速でできる。『融和時報大阪公道会版』に生江町経済更生会が掲載されている。1937年に日中戦争が開戦、皮革の統制が厳しくなる。地場産業である靴の直しのための配給がまわってこなくなり、生活擁護のために革を購入する運動を行っている。生江町経済更生会会則を見ると、地元の融和団体である公徳会事務所を事務所としている。会員は公徳会員であるが、ただし日本人のみであって、朝鮮人は排除している。大阪市社会部『本市に於ける不良住宅地区調査』から、職業別に見ると、職業は競合しない。日本人は履物洋傘等修繕業、朝鮮人は人夫・手伝いとなっている。

 北野の立場は生活刷新の実行である。松田喜一との関係は、部落厚生公民運動をめぐって距離がうまれていたように思われる。部落厚生公民運動は、右からの全水解消運動だという評価もあるが、朝田善之助、北原泰作なども参加している。

戦後、北野実は市同促の理事になっている。

(文責:内田龍史)