〈第1報告〉
敗戦直後に新しい学制ができるが、戦後の混乱も重なって、長欠不就学問題が顕著になった。高知県では福祉教員を配置して、それにもっぱらあたらせるということが行われた。福祉教員が配置された地域は、一部障害児教育の重点校に配置されているが、それを除く大半は、同和地区の子どもが通っている小・中学校の校区に配置された。高知の戦後の同和教育は、福祉教員が担った福祉教育から始まった。
福祉教員は、授業を持たずに、家庭を訪ねて説得することに専念していた。学校と外部の境界に立つ存在(ゲートキーパー)としてとらえられる。
当時の教育委員会は公選制のものであり、今のものとはまったく質が異なる。第17回の県議会答弁で、不就学問題は親の義務教育に対する認識の不徹底と児童の自覚の不足に帰着するとされ、同和地区にこの問題が顕著だと述べられている。こうした認識は、後の福祉教員の主たる業務が家庭訪問であることに反映されている。
長岡村の鳶ヶ池中学校に、1948年に長欠対策教員として2名の教員が配置された。そのうちの1人が福岡弘幸さん(1915-2006)だった。戦前から青年学校の教員だったが、なぜ長欠対策教員になったかというと、地区の融和事業家として著名な溝渕信義の力が大きかった。部落の中の裕福な家の出で、戦後は高知大学農学部の助教授になる人である。向学心のある部落の若者を家に引き取って、学校に通わせて、教師にさせていった。「同和問題は教育で解決する」ということばは、生活手段の乏しい地区で育った若者に安定した経済生活を直接的にもたらす「教育職」を指すのではないか。
1970年に同和教育主任が設置された後、徐々にその職務が同和教育主任へと移行し、70年代末までには用語としても消滅する。同和教育主任と福祉教員が二重にいる時期があった。校内の同和教育は同和教育主任が、福祉教員は、子ども会・青年学級・婦人学級の担当として機能していたと聞いた。高知新聞の報道では、教員が「門外」に出て狭義の職分を超えた援助行為に及んでいることがわかる。
高知市内での特徴は、同和地区の子どもだけではなく、水商売をしている家庭の子どもが放置されているという状況が混在している中で、『きょうも机にあの子がいない』の実践記録があることだ。
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