調査研究

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2010.01.18
部会・研究会活動 < 近代日本とマイノリティ>
 
近代日本とマイノリティ 報告
2009年11月29

1.中国人強制連行の記憶静岡県西伊豆町仁科鉱山を事例に

渡邉明彦(三島学園三島高等学校)

2.近代日本から中国への視座内藤湖南の時代区分論をてがかりに

山田智(渋谷教育学園幕張中学・高等学校)


第一報告

本研究は、静岡県西伊豆町仁科鉱山で働いていた、強制連行によってつれてこられた中国人に対して、地元住民がどのようとらえていたのか、そのとらえ方がどう変化していったのかを検討することを通じて、中国人強制連行に対する日本国民の側の記憶の一端を明らかにしたい。

具体的には、・西伊豆町で1976年より行われている慰霊祭での検討、・地元住民、関係者への聞き取り、・各種刊行物に登場する強制連行に対する住民の意識を検討する。仁科鉱山は、戦線鉱業仁科鉱山として仁科村白川に存在した。1943年11月に明ばん石採掘のために戦線鉱業が設立され、1945年3月に古川鉱業に経営移譲されたが、敗戦後すぐ閉鎖された。鉱山労働関係者は最盛期には約3000人おり、日本人だけでなく、もとから在住した朝鮮人、強制連行による朝鮮人が2000人ほど、強制連行による中国人が200人弱、政治犯等の囚人が約100人働いていた。

仁科鉱山における中国人強制連行による死亡率は52%であり、全国135カ所の強制連行の中で最も割合が高い。戦線鉱業の従業員を対象とした聞き取りによる中国人強制連行の記憶は、中国人は「捕虜」であり、日本人社員によって虐待され、人間扱いされていなかったというものである。戦後、1953年には、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会が結成され、静岡県でも遺骨の調査収集、慰霊送還事業が開始された。1954年からは仁科鉱山でも遺骨が発掘され、慰霊祭が行われた。

その後、白川を含む西伊豆町では「西伊豆町中国人殉難者の集い」が1976年から開催されており、強制連行された中国人に対して暖かく接した地元住民像が記憶されている。

第二報告

ヴォルテール、ヘーゲル、ランケなど、「ソト」から中国を把握する視覚を見ると、中国を「後進」または「停滞」と見るものが多い。これらは近代帝国主義による中国侵略の論理となったものである。

それとは正反対に、「與那覇論文」(與那覇潤「中国化論序説日本近現代史への一解釈」『愛知県立大学文学部論集日本文化学科編』11号、2009)は近代化を中国化ととらえる刺激的な論考であり、「歴史の終わった中国」と日本人はどう向きあうのかを考えることにもなる。近代日本における中国史学をふりかえると、帝国大学史学科が設置され、西洋史、国史、東洋史が設置された。西洋史は日本が学ぶところ、東洋史は日本が指導するところであり、西ヨーロッパに入らない経済的に発展が遅れている地域と見なされていた。

中国の王朝交代システム「易姓革命」については、王朝の荒興廃を繰り返すだけで、近代化が進む日本と対比して中国の停滞性が説明されていた。「與那覇論文」が依拠する内藤湖南の時代区分論は、唐以前と宋以降で中国の王朝を二分するという新しい説であった。上古(漢末まで)を中国文化の形成と周辺諸国への拡散、中世(唐末まで)を貴族制社会の成立(貴族共和)と崩壊、近世(宋以降)を君主独裁と平民主義と見るものである。宋代以降の中国社会は、君主独裁制が確立し、「専制」の発展とそのための官僚機構が整備され、科挙による民主主義的な側面が見られた。

これらは内藤湖南が、当時の袁世凱の反動を批判し、辛亥革命の必然性を予言したことなど、内藤湖南なりの中国との向き合い方から生まれてきた発想だったと言える。日本人が中国を対象とするということは、他者を見つめるということであり、日本人が「中国の歴史」に向きあうことは、現在の中国社会が抱える経済発展の格差、「少数民族」問題などの矛盾を日本人が見つめるということでもある。そこでは、矛盾に満ちた中国の現状を「固定」する歴史観の妥当性も問われなくてはならない。

(文責内田龍史)