第二報告
ヴォルテール、ヘーゲル、ランケなど、「ソト」から中国を把握する視覚を見ると、中国を「後進」または「停滞」と見るものが多い。これらは近代帝国主義による中国侵略の論理となったものである。
それとは正反対に、「與那覇論文」(與那覇潤「中国化論序説日本近現代史への一解釈」『愛知県立大学文学部論集日本文化学科編』11号、2009)は近代化を中国化ととらえる刺激的な論考であり、「歴史の終わった中国」と日本人はどう向きあうのかを考えることにもなる。近代日本における中国史学をふりかえると、帝国大学史学科が設置され、西洋史、国史、東洋史が設置された。西洋史は日本が学ぶところ、東洋史は日本が指導するところであり、西ヨーロッパに入らない経済的に発展が遅れている地域と見なされていた。
中国の王朝交代システム「易姓革命」については、王朝の荒興廃を繰り返すだけで、近代化が進む日本と対比して中国の停滞性が説明されていた。「與那覇論文」が依拠する内藤湖南の時代区分論は、唐以前と宋以降で中国の王朝を二分するという新しい説であった。上古(漢末まで)を中国文化の形成と周辺諸国への拡散、中世(唐末まで)を貴族制社会の成立(貴族共和)と崩壊、近世(宋以降)を君主独裁と平民主義と見るものである。宋代以降の中国社会は、君主独裁制が確立し、「専制」の発展とそのための官僚機構が整備され、科挙による民主主義的な側面が見られた。
これらは内藤湖南が、当時の袁世凱の反動を批判し、辛亥革命の必然性を予言したことなど、内藤湖南なりの中国との向き合い方から生まれてきた発想だったと言える。日本人が中国を対象とするということは、他者を見つめるということであり、日本人が「中国の歴史」に向きあうことは、現在の中国社会が抱える経済発展の格差、「少数民族」問題などの矛盾を日本人が見つめるということでもある。そこでは、矛盾に満ちた中国の現状を「固定」する歴史観の妥当性も問われなくてはならない。
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