〈第一報告〉
千本地区においては、1950年代半ば以降、都市計画道路の敷設に伴って、住環境の整備が進められてきた。しかしながら、戸建てを希望する層が地区外住宅へと流出し、困難を抱える層が地区内に滞留するという現象により、地区内の活気が失われていき、住民同士の付き合いも希薄になっていく。そこで新たな運動の必要性が議論され、住宅の建て替えを契機として、町内再生を目指した取り組みが展開された。
1993年にはふるさと共生自治運営委員会(略称「じうん」)が結成され、基本構想・基本計画を地元案として策定し、1997年より、具体的な建替基本計画を作成する取り組みが進められた。この計画は、通常の建替えのプロセスとは異なり、住民の声を集約した住民本位の策定プロセスを経たものである。具体的には、2年半15回に及ぶワークショップを通じて、住民・プランナー・行政が一体となって作り上げていった。その結果、2002年1月に、「らくし21」(楽只市営住宅第21棟)が完成した。
公営住宅ながらも、路地裏をイメージして、住民の共有スペースを設置し、廊下を広く取るなど、工夫が施されている。また、ワークショップを契機に住民同士のコミュニケーションが深まり、コミュニティの再生が図られつつある。
〈第二報告〉
中城地区は、大阪の部落としては規模が小さく、従前の同和対策事業は必ずしも地区の実情とは適合していなかった。このような限界性から、1997年に教育運動の改革をすすめていった。改革の理念としては、「市民」としてのものさしから運動を改革すること、そして「校区」を基盤として、一般地区の住民と悩みを共有し、協働の広がりを図ること、であった。
とりわけ、同和教育推進校のイメージを肯定的なものに変えていくために、校区の保護者らと討論会を開催し、可能な限り学校現場の取組みについての理解を深めることに務めた。さらに、教育行政の限界を保護者の助力で補い、いっそう充実した教育を可能にしていく。共に助け合う「共助」の視点が現れてくるのである。他方、保護者自身も、さまざまな取り組みに参画することを通じて、自己実現が図られていくのだ。
具体的な取り組みとしては、自らのできることで学校を支援する「サポータークラブ」を結成した。また、個々の行事協力のみならず、様々な自主活動(パトロール隊、園芸班、「MINT通信」編集、ホームページ開設など)が広がっていく。学校のみならず、既存の教育関連組織(PTA、青少年健全育成協議会など)との合同運動を、「学びあうまち三島」との合言葉のもと、展開していった。
さらには、池田小事件に関わって、緊急シンポジウムを開催し、「安全を守る」ことと、精神障害者を含めた、「隣の人に思いを馳せる」こととを、いかにつなげていくかを討議した。
一連の取り組みを通じて、住民参加と地区内外の豊かな関係が育まれつつある。今後の課題としては、このような取組みに部落民としてのアイデンティティを位置付け、「部落があること」が財産となるようなまちづくりをめざすべきだろう。