調査研究

各種部会・研究会の活動内容や部落問題・人権問題に関する最新の調査データ、研究論文などを紹介します。

Home調査・研究プロジェクト・報告書一覧 国際身分制研究会研究会 > 学習会報告
部会・研究会活動 <国際身分制研究会研究会>
 
国際身分制研究会研究会・学習会報告
2000年11月23日

穢れと規範:インドの不可触民を中心として

(報告)小谷汪之(東京都立大学人文学部教授)

------------------------------------------------------------------------

はじめに

 この報告では、文献史学によって、インドにおける多義的な穢れの観念を分析的に処理し、それを様々な文化的文脈に分類することによって、賤民差別の文化的文脈をなす穢れ意識のあり方を明らかにしたいと思っている。とくに、マヌ法典を中心に、インドの不可触民に対して歴史的に、どのような穢れ意識が存在し、変化してきたのかを明らかにしたい。

 インドにおいて、文献が生まれるのは、14〜15世紀にかけてのことだと考えられている。しかし、紀元前5・6世紀の言葉が現代も使われていることから、古代と現代の結びつきが強いことがいえる。したがって、ある程度まで古い時代を見通しておかないと、誤った判断をしかねない。

úJ 卑賤観と穢れ意識

 インド古代における卑賤と穢れについて考えてみたり、中国古代や日本古代における良賤制という場合の賤は、良人に対する賤ということである。そのため、本来は穢れの意識とは無関係といえる。しかし、不可触民を賤民という場合には、穢れの意識を伴うと考えられる。このため、言葉の使い方が大きな問題になる。

 私自身は、不可触民を穢れ意識を伴う賤民といってしまうと、どうもしっくりしてない。インド古来において、明らかに賤しいという意味が含まれた差別は、たぶん、なかったであろう。古代インドでは、「高い生まれのもの」をウッチャ(ucca)、「低い生まれのもの」をニーチャ(nica)といった。また、当時の家柄を述べる場合にも、これらの言葉が使われました。そこには高い生まれのものと低い生まれのものという区別があるだけで、高貴と卑賤という意味は含まれていなかったと思う。

 当時の賤にあたる言葉は、「最低の生まれのもの」を表すアンティヤジャ(Antyaja)と「第五の階層」を表すパンチャマ(Pancama)がある。しかし、インド古代における身分制的上下関係には高貴・卑賤という考えはなかったと考えられる。

 それに対して、穢れ、不浄という言葉だが、インド古代の言葉でいうと、アシャーチャ(asauca)という言葉が、不浄を表す。この言葉は、当時のインド社会においても使用は避けられていたようである。

 こういった言葉の意味から判断すると、穢れ意識と身分差別の問題は根源的には関係がないと思われる。しかし、インド社会において、本来は無関係であったはずの、ある種の低いもの・卑しきものが、穢らわしきものであるという考えに変化したのは、かなり早かったと思う。

 こうした穢れの最も初期の観念が、マヌ法典に書かれている触穢の考えに表されている。つまり、穢れは伝染するので、その穢れに触れたものは沐浴をして体を清めなければならないということである。ここで、チャンダーラは、死穢・産穢と同じく穢れていると考えられていた。

 次に、不可触民概念の成立についてみていく。不可触民とはアスプリシア(asprsya)といわれた。この考えが生まれるのは、マヌ法典以降といわれている。紀元後3・4世紀になっても、あらゆる賤民が不可触民ではなく、いわゆる、不可触民という概念が確立するのは、インド中世の紀元後8〜11世紀頃と考えられる。

úK 罪と穢れ:インド中世における清めの多義性

 私の研究している地域の言語はマラーティ語圏である。その中で、賤民を表す言葉は賤しきもの:アンティージャ(Antyaja)もしくは、シュードラ以外のもの:アティ・シュードラ(Ati―Sudra)という。しかし、これらの言葉を「穢らわしき者」と言う意味でとらえるのはおかしいと思う。

 罪を清める方法と、穢れを清める方法とは、全く違うからである。そのため、罪と穢れとは別のものであるといえる。

 最初に、罪について考えてみる。罪とはマラーティ語ではドーシャ(dosa)と呼ばれ、インド中世社会において、罪とは、国家や社会共同体によって処罰されるcrimeであるとともに、清めて洗い落とすsinでもあり、二重の意味を持っている。罪を犯したものはプラーヤシュチッタ(prayascitta)という儀式によって、罪を除去しないと共同社会やもとの地位に戻れない。

 次に、穢れについてみてみよう。穢れはスータカ(sutaka)と呼ばれている。この語源は、お産を意味し、もとは死穢ではなく産穢を意味したと思われる。しかし、古代のインドにおいても、すでに産穢だけでなく、死穢も意味したと思われる。清めの方法は、親族の場合は、物忌みをする。他人の場合は、沐浴をして穢れを清める。そのため、罪の際に行うプラーヤシュチッタの儀式とは全く異なり、罪と穢れは別の範疇に属することが分かるのである。

úL 中世インドにおける規範意識と穢れ意識

 以上のようなことを前提にして、ここでは、中世インドと近代インドにおける不可触民差別は、穢れという意識に支えられていたのか、あるいは、規範の意識に支えられていたのか、ということについて考えていきたい。

 前近代社会における賤民差別とは、ある種の穢れ意識と同時に、差別すべき人間であるから、社会秩序を守るためには差別しなければならない、とする規範的行為として現れてきている。このため、両面の意識がここには存在していると考えられる。したがって、この両者が絡み合っているのが、穢れ視を伴う賤民差別であると考えられる。

úM イギリス植民地支配下における浄―不浄意識の発達

 これに対して、イギリス植民地支配下のインドでは、規範は近代的法律や裁判制度へと移行していく。これにともない、不可触民に対する差別を支える意識としては、穢れの意識の方が強調されたと私は考える。したがって、浄―不浄意識というものが強く意識され始めるのは、19世紀以降のことであると思う。

 おわりに、浄―不浄について考えてみたい。近代マラーティ語においてそれは、ソーワラ(sovala)とオーワラ(ovala)と表わされ、この語源は、サンスクリット語のサーマンガラ(samangala)とアーマンガラ(amangala)である。前者は吉祥が在るということが本来の意味で、後者は吉祥が無いという意味が本来の意味である。この意味が、ソーワラ、オーワラになり、浄―不浄の意味へ転化する。しかし、この言葉は、中世マラーティ語の史料には出て来ないので、それを追求していけば、イギリス植民地支配下における浄―不浄意識の発達によって、不可触民とは触ってはならない穢れた存在であるとする意識が一般化したものと考えられる、という真相が明らかになるのではないかと考えている。(友永雄吾)