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国際身分制研究会研究会・学習会報告
2001年2月4日

近世の身分制研究をめぐって

(報告)脇田 修  (大阪大学名誉教授)

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研究の発展

 この報告では、これまで私自身がどのような関心に基づき研究に取り組んできたのかということを話していきたい。

 身分制研究が水平社運動とともに実際に始まるのが、太平洋戦争以前のことである。しかし、現在の水準に近い研究が始まるのは1970年代以降である。その理由の1つとしてあげられるのが、資料集の刊行が非常に重要であったと思う。

 当時、私は、それまでの部落史の研究が、日本史の社会構造論の研究とあまり上手く対応していないように思った。そういった観点から『身分的所有』という最初の論文を発表した。こういった観点から私の研究が始まったといえる。

 また、黒田俊雄さんが身分論についての問題提起をすると、林屋辰三郎先生の散所論が批判され、状況が一変していく。その中で、差別のさまざまな状況を含めて、周縁的身分論として身分差別を捉え直すことを吉田伸之さんとともに考えた。

 もう一方で、世界史的な立場で差別問題を捉えようとも考えた。これは、部落差別はアジア的特質の差別である、という捉えかたに私自身どうも納得がいかなかったからである。

 もちろん、日本とヨーロッパの刑吏に対する差別はたいへん異なった様相を持っている。しかし、このような状況を含めながら、世界史的な視点から身分差別を捉え直すことが必要である。

 その後の研究の流れは、生活・芸能・習俗・意識の問題へと移っていった。私もこの視点から『河原巻物』を研究した。この研究を進めていくうちに私は『河原巻物』の面白さに魅了された。その集大成が『河原巻物の世界』(東大出版会)である。しかし、この分野の研究には、まだまだ問題が山積みされている。

身分論について

 つぎに、身分論だが、黒田先生は、権門・領主・共同体の考察から、身分成立の契機と序列を問題にされた。しかし、このような身分が現れる契機という問題に対して、色々な分野でもう一度考え直してもいいのではないか、という問題提起がある。

 もう1つとして、林屋先生の散所論が崩れたことである。「散所」とは本所に対する散所であり、例えば、本宅に対して、別荘があればそれがこの散所にある。必ずしも、「散所」とは最初から、差別的な意味を含んではいないということを、妻の晴子が証明し、非人論の展開により、部落史の1つの筋道が提起された。そして非人というものを含めて部落史を議論し直すことになった。しかし、非人と穢多という身分がどのように意味付けられているのかという議論は今日のようには進められていなかった。中世は、このような流れで問題提起が進んでいったと考えられる。

 近世の部落の成立について、どのように筋道を建てるかということで、私は身分的所有論を考え始めた。なぜそのようなことを考えたかというと、近世の所有の問題は、役の問題に結びついていたからで、近世社会論の立場から部落の問題を考えようとした。

 土地の身分的所有について言えば、武士・領主・百姓・町人身分では明らかに土地関係において所有の体系が違う。領主は領有、百姓は所持、町人は用益という言い方をする。身分に伴って所有の形態が異なるということから考え、いったい部落はどういう位置付けをされるのかということを考察したが、困難な研究であったために上手くいかなかった。

 もう1つの役の体系だが、武士の場合は軍役が基本になり、同時に百姓には百姓役、町人には町人役が課せられている。特に町人には地代を免除されている場合が多いが、賦役をかけられていることが一般的で、それにより領主によって把握されていた。

 部落の場合、斃牛馬の処理権の問題をどのように位置付けるかということがたいへん困難な問題だった。

 権力の編成と各身分が持つ集団性がどのように絡み合っているかということが私の関心にあり、その立場で研究を続けてきた。

近世身分制をめぐって


 近世社会には、身分そのものを構築した独特の封建社会が存在したといえる。また、兵農・商農分離によって、武士は全て城下町、百姓は農村、また、商工業者、特に商人は城下町へ集められた。私は、このことから、近世の身分制が構成される経過を問題にした。

 つぎに、太閤検地を行い、居住地の把握をする。太閤検地帳にのせることができる人は、基本的には百姓で、それ以外の職人は肩書きを付けた形で残るということになる。ただ、兵農・商農分離をしているので、ほとんど農村地区には商工業者が残っていない。この身分以外に、「かわた」の肩書きが現れている。この後に、人掃い令・人別帳が作られ、身分だけでなしに家の家族構成までも把握された。これが近世封建制の特徴であり、このことが、部落成立に大きな影響を与えたと私は考えている。

 これまで述べてきたように、身分が成立する経過をどのように考察するかが1つの問題である。しかし、今日においても、この問題は発展していない。

 ただ、私がこの問題に取り組みだした当時は、太閤検地論争という問題が生じていた。これは、太閤検地が非常に、小農自立政策的な意味合いが強く、家内奴隷の自立を促進するという説であった。私はこの説に反対だが、私の反対意見に対する反論はない。

 日本の徳川幕藩体制下の封建制度は、非常に変わったものであった。というのは、本来、封建領主は、在地性を持っているにもかかわらず、全員城下町へ集められた。そこで、大名との間に主従関係を構築する。このように考えると、ヨーロッパにおける封建制度とはかなり異なると思われる。無論、ヨーロッパでも封建制度が進行するに従って、大都市に、領主が集まるようになるが、やはり、在地に本領地を残すということが普通の在り方であった。しかし、日本では本領地が無くなったという点で、非常に集権的な構造を生み出したという点で特色をもっている。また、それでいて、殿様から何百石の俸禄をもらって封建的な主従関係ができているということは、内容自体はたいへん変則的ではあるが、実際には本質的な封建制を持っている。この封建制のことを私は、『異相の封建制』と名づけた。

 以上述べてきたように、近世についても、これからいろいろな理解が必要になる。

部落成立について

 中世の被差別民として、穢多・河原者・きよめ・非人などが色々な状況下ででてくる。これらの被差別民がどのように、近世になって変化したかということが1つの問題である。ここで、なぜ、中世でよく使われていた「きよめ」という言葉が、近世になりほとんど使われなくなったのかという問題がある。

 中世において、「きよめ」という言葉は穢れを清めるという意味を持つ身分呼称であった。しかし、近世になりその意識が非常に薄れていったと考えられる。そして、「かわた」というような身分的意味合いの近い呼称で表されるようになった。武士の世界になると、穢れ意識が希薄化していったと思う。なぜなら、合戦などを通して、日常的に血の穢れに触れており、その穢れをいちいち清めることが無くなったからで、その結果として、近世初期の被差別民は身分的意味合いのある「かわた」になったのではないかと思う。

 穢多という呼称は17世紀後半頃に、領主側の把握によって一般的に広がっていった。身分呼称の変化と、その当時の社会的に置かれた状況とが、いろいろな形で反映しているのではないかというのが私の考えである。従って、きよめ・かわた・穢多という身分呼称の変化も、これからもう少し議論を進めなければならない。

差別の問題

 近世の差別問題のなかで、私がいちばん興味を持っていたのは斃牛馬の処理権と役負担の問題だった。この役負担は一般的に、行刑役と警察役があった。この問題を身分に伴う役負担として把握できないかと考えた。この問題のなかで困ったことは、斃牛馬の処理をする役をどのように位置付けたらよいかであった。

 もう1つには、斃牛馬の処理権を持つ座が、近世になって、中世における座をどのように編成し直したのかである。それで、部落と楽座政策というテーマで研究をしたが、正直のところ、成功しなかった。

 全体的な近世の身分制の中で、どのような形で部落問題を位置付けるかということが私の研究にたいする関心の中心だった。

 むすびとして、私は今日まで、中世・近世・近代の構造変化と再生を突き詰め、現代の展望を見出そうと研究してきた。しかし、この研究が成功したかどうかはこれからの問題で、特にこの問題を解決にするためには近代についての研究が不可欠である。

 私が生きてきた近代・現代についての論文を書き、その中でも部落問題に関することを書き残したい。 (友永雄吾)