今回、小川悟先生にロマについて身分制という視点で論じて頂いた。興味ある方は小川悟著『ジプシー シンティ・ロマの抑圧の軌跡』(関西大学出版部、2001年)をお読みいただきければと思う。
ロマの問題を身分制と絡めて考えた場合、まずルーマニアの奴隷制の話がその好例となる。文字伝承を持たないためはっきりしないことが多いロマの歴史だが、その移動経路のおおよそは分かっている。まず彼らはインドの北方のパンジャブからムスリムに追われ、漸次、規模の大小は様々あるが、ともかく親族集団ごとに西へ移動し、まずギリシャへ定住した。
多くの民族が出入りしたルーマニアの前身であるワラキアとモルドヴァという国には、このギリシャを経てやって来た。ドイツの学者マルティン・ブロックは、6世紀頃には既にロマがルーマニアに定住したと推測しているが、少なくとも1300年代にロマが定住していたことは史料から明らかである。
おそらく、最初はロマにとって住みよい土地であっただろうワラキアやモルドヴァは、1354年、オスマントルコに制圧され、重税を課される。当然しわ寄せは人民に及び、農奴制が生まれ、ロマも奴隷とされた。1385年には40人のロマが、バラキア国には300人のロマがその居住地とともに、領主から僧院・修道院に寄贈されている。
モルドヴァ公国法典によると、農奴と自由民との婚姻は違法であるとある。農奴が結婚するときは領主の許可がいる。ロマは生れながら農奴である。つまり、領主の所有物である。彼らは自由に売買された。ロマは、国家所有、大地主・貴族所有、僧院所有の農奴となった。類推だが、ロマが差別された理由は、このモルドヴァ公国法典にあるのではないかと思っている。
ロマは売買の対象であるから、国は一人ひとりに税金を課した。またロマ自身の商売にも課税していた。ロマには職業がないという風説があるが全くの偏見で、13世紀にギリシャからルーマニアに移住してきた集団は皆職業人である。今日も当時からもそうだが、彼らの主な職業は行商。彼等がインドのパンジャブから追われる前から行商、運送業に携わっていたようである。彼らの主たる生業は鍛冶屋や鋳掛屋であって、日常生活に必須不可欠な職業である。
こうしたルーマニアの農奴制は、1856年まで続いた。1845年のドイツのマンハイムの新聞の記事では、ブカレストの大金持ち男性が死んだ際に、彼が所有していた200人のロマが売り出されている。この記事では5つの家族から構成される200人のロマの職業が錠前師、金細工、靴職人、楽師、農夫だということが分かる。
正確には身分とは言えないだろうが、身分制という視点でロマをみる場合、もう一つ重要なのが、多くのドイツの領主が、ロマを傭兵として雇ったという事実である。30年戦争の時に多くのロマが傭兵として雇われていた。ロマは武器を作る技術に長けていたからである。
ドイツの領主は一家眷属単位でロマを雇い入れる。そうして武器を作る人々と戦闘集団を作った。ロマは部隊長になることで軍隊の中で一種のステータスを得る。非常に興味深いのは、当時、ロマは月給の良い領主に鞍替えできたということだ。それも前に仕えていた領主の許可を得た上で鞍替えできた。領主自身が金銭的に苦しくなると認められるわけだ。ロマも君主に忠義という考え方はない。
このようにロマの戦闘部隊は確かにあった。ところが、ロマが実際に武器を取って闘ったというのは1700年代に一例あるだけだ。30年戦争の際にも、部隊は構成しているが、ある文献で戦わなかったようだ。
漂泊民であるロマを、定住者側は様々な偏見の目で見ているが、彼らはこのように優れた技術者集団でもあった。 (山本崇史)