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2年前に書いた、『人間イエス』(講談社現代新書、1997年)の中に、「被差別民衆」という項目を入れ、その視点からイエスを捉えかえそうと試みた。
今日お話しするイエスは既成の宗教の枠から解放して、様々な運動体の中に取り入れていく方向こそが望まれるのではないかと思う。
福音書は様々な癒し物語、奇跡物語の中にでてくる被差別民衆とどのようにイエスが交わってきたかというところに、イエスの本来的な生き方が存在しているのではないかと思う。いわばイエスは被差別民衆に治療・医療・社会福祉活動を展開し、周辺にはボランティア集団が形成されて活動を共に展開している。
被差別民衆は穢れた人間とされていて、差別・隔離されている共通項をもっている。彼/彼女らの方からイエスとの出会いを求めて、近寄ってきた物語は多く、イエスの方も、「穢れ」とタブーを見事に破り、触れ、共に食事をしたということである。
偉大な宗教家はそうだと思うが、「すべての人に平等をもたらす」ということは言っていない。基本的には被差別民衆といわれた人々が救われなければならない。イエスは満たされている人たちよりも、解放を必要としている人たちに「神の国」を福音として伝え、実践していったということがいえる。
貧困と飢餓に追い込まれた被差別民衆から見なければ、読み切れないイエスの言葉は非常に多い。だからこそ、今の人間にもエネルギーをもって読まれるのだと思う。
イエスの荊の冠を部落解放旗とした組織は、もっとイエスのことを知っておくべきだと思う。そういう姿勢をもってこそ、運動ももっと発展するのではないかと思う。