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国際身分制研究会研究会・学習会報告
1998年01月25日
キリシタン禁制と部落差別

(報告)柳父 章(桃山学院大学文学部教授)

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身分差別とケガレ差別

報告者は比較文化論を専門にしている立場から、差別の源は異文化差別にもとめられるのではないかと考えている。

そこで「身分差別」の発生は、ある文化が異文化と出会いそれが、権力・権威による異文化抑圧(または排除)の必要をもたらして厳しく閉ざされた体制としての身分差別がつくられるのではないかと考えている。これは権力・権威による意識的な差別といえる。

もう一方の「ケガレ差別」は厳しく閉ざされた体制が、その「境界」を育て、ここに境界人(マージナル・マン)の出現をもたらしてケガレ意識による差別をうみだす。これは権力・権威が意識的につくったのではなく「構造」がつくった差別といえる。

あらゆる集団や体制はその境界を持ち、多少なりとこの意味のケガレ意識を育てるが、とくにそれが強度な場合に「ケガレ差別」になると考える。


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キリシタン禁制

日本史上、外来文化との大きな出会いは4回あった。古代の中国、朝鮮文化。中世末近世におけるキリシタン文化。幕末明治における西洋文化。昭和の敗戦におけるアメリカ文化の4回である。このうち3回は到来した異文化を受け入れたが、キリシタン文化だけは拒絶した。

受け入れた外来文化は以後日本文化に大きな影響を与えたことは広く認められているが、拒絶した場合は、異文化との出会いの影響が過小評価されているのではないだろうか。このような視点からキリシタン文化に関する日本史上の出来事を再検討する必要がある。

秀吉の最初の宣教師追放令の動機 キリスト教文化そのものへの脅威を直感したこと(キリシタンの娘たちの拒絶 フロイス『日本史』)

島原の乱の性格 農民一揆説が通説だが、キリシタン一揆として捉えたい。

キリシタン禁制の解釈 禁制は、幕府権力が心底脅威を感じた結果であり、後世の日本文化全体に大きな影響を残した。禁制は幕府体制強化のためであってキリシタンは口実すぎなかった、という通説に反対する。

権力強化のためなら、宗教的権威の協力を求める必要はなかっただろう。

以上の視点から、特にキリシタン禁制の解釈について考えてみたい。


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宗門改めの画期的意義

宗門人別帳は百姓、町人などを網羅する世界でも珍しい戸籍制度で強度に閉じた社会体制が形成された。これは権力が宗教の権威を強く求めたためで、それは対キリシタン論争に仏僧を動員したことにも表れている。民衆の内面まで支配するには、カースト制のように宗教的権威が必要だったためである。ただし、日本では権力が権威を取り込んでしまった。

鎖国は対外的境界の形成だが、宗門改めは対内的に決定的な境界をつくった。

「五人組」「訴人」は民衆相互監視システムを人々の心の中に境界をつくり、心中の境界がさらに外界に投影されるようになる。「転び」は生命は助けるが、類族六代を監視し続ける。これは内の人間に外の異文化がとりついたという「内と外の境界」の想定をもたらす。

「宗門改めは転び者の門徒帳からはじまり」<片岡>「穢多という言葉は宗門改め以後幕府の公式用語となり定着し」<脇田><藤本>「穢多の村は、平人の村への従属が強制され、これは権力の指図ではなく平人村の恣意によっていた」<藤本>ことから、すなわち、穢多とは宗門改めのつくった境界における両義的存在であり、境界人として出現し、そう位置づけられ、それをやがて権力が取り入れたと考えられる。

多くの日本史研究者は17世紀半ば頃部落差別の体制が強化されたと言い、あるいは今日にも及ぶ部落の起源がこの頃であると言っている。それはキリシタン禁制が完成した時期とほぼ一致する。

キリシタンと一向一揆とを比較すると、共通点は、一神教と阿弥陀信仰はともに反権力的・平等主義的な傾向を持っており、宗教家のもとに在郷武士や多くの下層民、被差別民が参加して権力側からの徹底的弾圧、大量虐殺を受けたことなどがある。

図式的に表すと、「一向一揆 → 太閤検地とキリシタン弾圧 → 宗門改め」「太閤検地 → かわたの記載と宗門改め → 穢多の記載」の照応が言える。相違点としては「外来宗教対伝統宗教」、「転びか死か対必ずしも皆殺しでなく勅命講話のような伝統に吸収する解決法」が言える。すなわち、一向一揆のダイナミズムとキリシタン弾圧・禁制の場合とは、民衆の動きも権力の反応もかなりよく似てはいる。しかし上記の相違点からキリシタン禁制は決定的な文化的「境界」をつくるように働いたのではないかと考えられる。