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2004.11.16
部会・研究会活動 <身分制研究会>
 
第úL期国際身分制研究会報告書

国際身分制研究会編
 (A4版・167頁・実費頒価・2003年6月)

ジプシー
-シンティ・ロマ抑圧の軌跡-

小川 悟

  今回の発表は『ジプシー ― シンティ・ロマの抑圧の軌跡 ―』(関西大学出版部、2001年)に基づいておりますが、まず予めお断りしておかねばならないのは、この本の情報は今日、ただ今の情報ではないということです。まさに古典的な歴史的なことを繰り返し書いた本です。今回、ロマについて国際身分制研究会で発表してくれないかというお話があって、改めて考えたことなのですが、ロマの問題を身分制と絡めて考えたことはありませんでした。ですから、これは明らかに新しい視点だなぁと思っています。

  もともとロマと呼ばれる少数民族集団に身分という認識があっただろうか、ということをまず考えました。彼らがインドの北の方に住んでいた頃の状況はよく分かっておりません。それは伝承説話でしかわからない。王様がいたことは事実で、だから階層化された身分があったのだろうと思うのですが、それがどういったものであったかは全く分からない。要するに文字を持たない民族ですから、書いたものがない。だから伝承説話に頼らざるを得ないわけです。

  ただ、リュディガー・フォッセンという研究者の本を読んでおりますと、ロマがイスラム教徒に追われて国を出てからの移動経路がわかります。この移動経路や規模はつい最近まで、といっても20年までですが、わからなかったのですが、それがわかるようになってきたわけです。ロマは何回にも分けて漸次、国を出て行ったようです。フォッセンによれば、ロマは一家眷属を非常に大事にする。同じロマでもよそ者は仲間に入れないという排他的な面があります。

  金子マーティンさんが本を出しまして、強制収容所のシンティに関する、あるシンテッツァ(シンティの女性のこと)の聞き取りなのですが、その中で彼女が言うには私たちはロマとは違う。私はシンティだ。シンティは誇り高い、と言うんです。もともとは同じロマです。これはいささか危険な考え方ですね。金子マーティンさんはその点については何も言及していない。言いにくかったのでしょう。

  ドイツ・シンティ・ロマ中央評議会と言いますが、つまりシンティとロマによって構成されている団体です。確かに現実にシンティと呼ばれる集団はドイツに住みまして500年以上経過しています。生半可なドイツ人の歴史より古い。ロマは戦前にもいたのでしょうが、大多数は第二次大戦後になってドイツに来た人が多いんです。したがって歴史的背景は確かに違うわけです。しかも、ドイツ政府がある研究者に委託したかなり前の調査で、シンティとロマの日常生活などについてアンケートをとっているんですが、例えばシンティの子どもに、君は大きくなったら何になりたいかと質問すると、僕は学者になりたいとか、あるいは政治家や弁護士とか、志の高いことを言うわけです。この点からも分かるように、シンティは社会的な意味で非常に向上心が強いわけです。シンティにどこの人ですかと尋ねると、私はドイツ人です、但し私はシンティですと答えます。必ずこの二つを言うわけです。顔を見ただけでは、ドイツ人と同じ顔をしているから分かりません。年寄りは少し分かるが、若い者は分からない。それで教育程度も高いです。つまり、市民社会の中に溶け込んで暮らしていますから、生活の仕方も全くドイツ人と変わりません。ですから、そこから来る優越感のようなものがあって、それがこの女性に、私はシンティであってロマではないと言わせたのだと思います。

  実は13世紀に溯るのですが、ロマ集団の中にはその頃からそれぞれにメンタリティの違う集団がいたようです。そしてお互いに確執があった。自分の家族、その家族に連なるところの親戚・縁戚関係が一つの集団を作って西へ行く。また別の集団が西へ行く。そのようにロマはやって来たわけです。小さい規模で10人から20人、大きな規模の集団だと100人単位ぐらいでやって来るわけです。こうした集団を当時13世紀のドイツの役所では皆記録していたんです。

  リュディガー・フォッセンの研究の中で、最もよく知られている経路を申しますと、ギリシャへまず定住しています。漂泊の旅をしながらある集団がギリシャで定住している。それで、僕自身は直接は知らないのですが、多くの研究者がその人たちの生活の遺跡がギリシャに未だにあると言うんです。

  それで彼らは西へ、バルカン半島へやって来たわけですが、とりわけ今日お話するところのルーマニアへ多くの人がやって来て、定住するわけです。ところが、ルーマニアは極めて差別的に彼等を取扱っています。ルーマニアでは、ロマは皆奴隷でしたから。ルーマニアには1835年まで奴隷制度のあった国で、その年まで奴隷を売り買いしています。ですが、どういうわけかルーマニアに多くが住んでいるわけです。

  1856年に奴隷制度が廃止された瞬間に、ロマは洪水の如く西へまた出て行きますが、それまではじっとそこにいたわけです。僕はルーマニア人がどういう人たちのなのかということはよく知らないのですが、もしかしたらロマがあまり圧迫を感じないようなメンタリティを持っていたのかもしれません。が、ともかく、ルーマニアにロマがやってくるのは13世紀ぐらいとされております。これについて最初に研究したのが、有名なマルティン・ブロックというドイツの学者なのです。当時若きブロックが、ロマのテントに入って一緒に暮らし、ロマの言葉や生活習慣を覚えていくわけです。なかなかそうした学者というのは少ないです。だからブロックの研究は大変重要なのです。

  さきほど、ロマの集団同士が仲が悪いという話をしましたが、それを最初に指摘したのがブロックなのです。例えば、別々のグループの成員が一緒の器で酒を飲むということは絶対にありません。それから結婚をすると制裁を受けますからしません。どうしてそうなったのかが分からない。言葉も同じなのですが。

  ブロックがルーマニアに参りまして調べた結果、13世紀頃から色々な記録が残されていることが分かります。ただブロックはおそらく6世紀ぐらいから彼らがいたのではないかと推測しております。興味深いのは、史料として残されている中で、1385年にウングロウラキアという地域の城主が、40人のロマとその居住地を、ティスマナの修道院に寄付しているんです。それから1388年には、ヴァラキア国のミルチェアという選定侯が、修道院が新しく建築された時に、300人のロマとそれが住めるだけの土地を寄贈しております。

  ルーマニアが建国されたのは新しいです。それ以前はヴァラキアとモルダヴィアが最初です。ルーマニアという国はバルカン半島では珍しく非常に多くの外国人が出入りした国であります。そこで、モンゴル、タタール、クマーンという人々が主流を占めております。で、興味深いことが一つあります。ドイツでロマを差別する場合、彼らはタタールだと言って差別するわけです。タタール人は色が非常に黒くて、ある文書では非常に狂暴だと書いている。実際に凶暴かどうか、ドイツ人は何も知らないですよ。ただ、そういう風に言われていて、ロマをタタールと言っていたわけです。その当時のドイツ人の無知さ加減を露呈しているわけですが。

  それで、これらの人々の中でルーマニア、つまりヴァラキアとモルダウへ最初にやってきたのは、実はロマだということが、ブロックの研究で明らかになっています。彼らはギリシャからルーマニアにやってきた。

  ロマは職業がないというのが一般的な人々の捉え方なのです。またベルリンとギーセンの大学に古くからチガノロギーと言ってジプシー学という講座がありますが、そこでは、チゴイナー(ドイツ語でジプシーのこと)は漂泊本能に従って漂白の旅をしている。しかし、最近では漂白しなくなった。漂白しないチゴイナーはもはやチゴイナーでないとおかしなことを言っているんです。もちろん、これに対して、ロマニローゼが激しく非難しています。

  未だにそういう考えがあるのですが、しかしそれは間違いです。13世紀にギリシャからルーマニアに移住してきた集団は皆職業人なんです。当時の彼らの主な職業は、今日でもそうですが、行商です。彼等がインドのパンジャーブから追われる前から行商、運送業に携わっていたようです。彼らの主たる生業は鍛冶屋や鋳掛屋であって、日常生活に必須不可欠な職業なのです。

  おそらく、それまではヴァラキアもモルダヴィアも住みよい場所だったのだと思いますが、1354年にトルコ人がボスボラス海峡を渡ってやって来て、制圧されるわけです。例えばヴァラキアはオスマントルコに高額の年貢を納める義務を負います。結局それは人民にしわ寄せがいくわけですよね。そうすると最終的に農民は身体で払う、農奴、つまり奴隷になる他ないわけです。そしてロマも奴隷になるわけです。

  法律的には農奴にされた農民と農奴にされたロマは一緒だったんですが、実際上の生活は全く違っていました。僕が思いますのは、それまではおそらく農民がロマを差別することはなかったのだと思うんです。同じような奴隷の境涯に置かれたために、農民がロマを迫害するようになったんだと思います。だから、同じところには住みたくないということなる。

  ルーマニアの言葉でロブというのは、奴隷のことを言いますが、その当時、ロブというとロマのことだったんです。だから農民は奴隷だけれども、ロマとは違うんだということですね。悲しいことに、こうして人種的にも文化的にもロマは差別の対象になってしまった。

  ただし、なぜロマが奴隷になったのか分かる記録は何も残されていません。これは僕が考えているのですが、おそらく当時きわめて多くのロマがルーマニアにいたために、すぐれた労働力とみなされたんだと思います。

  ブロックは、ルーマニアでこそ、本来のロマ語が聞けると言っております。彼が学位論文を書いた1923年の頃のロマたちはローマネス(ロマ語)で意志を疎通し、自分たちの文化を維持していた。ところがその中で、近代社会に文明化されていく人たちもいて、だんだんとローマネスからも離れていくわけです。そして文明化されたロマとされていないロマの間で非常な確執が起きるわけです。

  それでモルダウ公国法典によりますと、農奴と自由民との婚姻は違法であるとあります。農奴が結婚するときは領主の許可がいる。ロマは生れながら農奴である。つまり、領主の所有物である。それで、領主の所有でないロマは、王子、つまり領主の子どもの所有物である。彼らは自由に売り買いされました。驚くべきことですが、この制度が1856年まで続いたわけです。おそらく類推ですが、ロマが差別された理由は、このモルダウ公国法典にあるのではないかと思っています。

  ドイツでは、年代記の中で、1417年にドイツのヒルデスハイムという町に初めてロマがやってくることが分かります。ただ、ここでは、人々は彼らの事を、タターレンだと言っています。これを見ますと、苛酷な法律を作って身動きが取れないようにしているようですが、1400年代ですから、統一された法律はありません。各侯国、あるいは各地域によって扱いは違います。あるところでは居住地や食物与え、またあるところでは場合によっては暴力に訴えてでも追い出せというところもある。法律に関してはロマに関するものは400ぐらいあります。ただ、ドイツでは奴隷制がない。制度としてロマを抑圧しようということはまだ考えてなかったみたいです。

  ともかく、ルーマニアに話を戻せば、1856年、農奴制が廃止される。それまではロマは奴隷だったわけですが、ただ奴隷だからといって誰でも自由に所有できたわけじゃない。おそらく国家的統制があったんだと思うんです。国家所有の奴隷と、大地主あるいは貴族、僧院所有の奴隷があった。モルダウ侯国法典によると次のように分類されるわけです。

  チガーニ・ドムネスティ、これはドイツ語のチゴイナーです。これは国家ないし王子によって所有されている主人持ちのロマです。チガーニ・ボイエルレスティは、大地主が所有しているロマ。チガーニ・マナスティレスティは、僧院が所有しているロマ。この三つに分類されるわけです。

  これは実際にルーマニアでロマが奴隷にされていたことを裏書きする事実なのですが、1845年のドイツのマンハイムの新聞に、ブカレストである大金持ち男性が死んだ。それで彼が所有していた200人のロマを売却したいという記事が載っているのです。これらのロマの職業は錠前師、金細工師、靴職人、楽師、農夫です。それぞれ特色のある職業を持っているわけです。200人は5つの家族で構成されていたそうです。

  ロマは売買の対象ですから、国は一人一人に税金をかけていました。それからロマ自身の商売にも課税をしていました。金細工していたロマは1年に12フランケンという税金を納めねばなりませんでした。熊に曲芸をさせる熊使いのロマも同様に12フランケン。無茶苦茶なことです。また、奴隷ですから移動の自由はないんですが、税金を払うと国内だけですが旅行できたようです。単位が違うので困るんですが、ロシアのお金で10ルーブルだそうです。まあ、ルーマニアでのロマの奴隷制度は以上のようなものです。

  次にハンガリーの話をします。はっきりしたことは言えませんが、どうやらハンガリーにはルーマニアのような厳然たる奴隷制度はなかったようです。ハンガリーでは、とりわけマリーア・テレージアの時代ですが、ロマを労働力として利用していたようです。マリーア・テレージアは、ロマを新市民として扱うという布告を出します。ただ具体的にどのようなことをしたのかは知られていなかったわけですが、今回この本で20条の法令を紹介しておきました。これを読んでみますと、徹底的にロマが抑圧されていたことが分かります。それで、その中の10条では、「地方の監督官庁は、チゴイナーのあらゆる行動と欠点に注意を払うよう要請されていた。しかし、特に屍肉を食っていないかどうかと言うことに注意を払うよう要請されていた。もしかかることが発見された場合は、当該チゴイナーは、直ちに罰せられねばならなかった。繰り返し動物の屍肉を食らう者は、四週間の間乾燥したパンと水だけで牢獄で過ごさねばならなかった。そして釈放される際には、杖打ちか鞭打ちを受けねばならなかった。」

  屍肉を食べるという表現ですが、これはロマに対する刑罰をうたう条項には必ず出てくる表現なんです。ところが、彼等が屍肉を食べたかどうかは実証がないわけです。それから、ロマは子盗りである、という表現もよく聞きます。間違いだったわけですが、つい5、6年前にもドイツで報道されました。こういったことは昔から言われるわけです。

  おそらく、これらはデマゴギーだと思います。中世以来、死んだ動物の肉をどう処理するかは規定があったはずですから、ロマが、屍肉を食うというわけにはいかなかったと思います。またそんな食習慣はなかった。リュディガー・フォッセンが、ロマに対する偏見を記した資料を集めまして、その一つ一つに反論を加えています。彼は、それらは皆何も実証がないし、事実もないと丹念に反証しています。

  身分、とりわけ奴隷という身分について語るには、ルーマニアの例が一番特徴的だったので、今回話させていただきました。ただ、ついでにスイスについて申しますと、プロ・ユヴェントゥーテという組織があります。ロマの子どもを否応なしに連れてきて施設に入れて、親と面会さえできない状態にして、そこで市民として教育するというものでした。ロマであることを忘れさせる。赤ちゃんのときから市民教育すればロマはロマでなくなるという考え方です。これと同じことをスイスのプロ・ユヴェントゥーテがやっていたわけです。

  それでこのプロ・ユヴェントゥーテという組織は、今でもあります。ロマの子どもをさらってきて、施設に入れて、教育をする。あるジャーナリストがこの組織について長い期間かけて調べたんですが、だいたい40年間の間に700人の子どもを誘拐しています。君の親はもう死んだとか嘘を言って親には会わさない。これは明らかにマリーア・テレージアのアイデアを採用していると私は考えています。この組織はもともとペスタロッチの影響を受けてできた教育施設なのですが、このように過激な組織になってしまったわけです。

  それで身分という視点でロマをみる場合、もう一つ重要なのが、ロマを傭兵として使ったことです。30年戦争の時に多くのロマが傭兵として雇われていました。ロマは武器を作る技術に長けておりました。多くのドイツの領主がロマを召抱えるわけです。ルーマニアでもやっていましたが。ドイツの領主は一家眷属単位でロマを雇い入れる。そうして武器を作る人々と戦闘集団を作った。ロマは部隊長になることで軍隊の中で一種のステータスを得るわけです。中世社会でロマが俺はロマだと肩をそびえさせていたのは、実はこの傭兵としてなんです。非常におもしろいのは、当時、ロマは月給の良い領主に鞍替えできたようです。それも前に仕えていた領主の許可を得てです。お金がかかるわけですから、領主自身が財政的に苦しくなると認めるのですね。ロマも君に忠義という考え方はありませんし。僕の類推ですが、ロマの戦闘部隊は確かにあったんですが、ただ、ロマが実際に武器を取って闘ったというのは1700年代に一例あるだけです。30年戦争の際は、部隊は構成しているのですけども、僕の読んだ文献によれば戦わなかったようです。つまり、戦いたくなかった。攻めてくるのもロマなら守るのロマ、戦になりませんよ。だから戦場をうろついているだけのことです。僕はロマが好戦的な民族とは思えないのですね。

 とりとめのない話しになりました。今日はこの辺でおきます。ありがとうございました。