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2004.11.16
部会・研究会活動 <身分制研究会>
 
第úL期国際身分制研究会報告書

国際身分制研究会編
 (A4版・167頁・実費頒価・2003年6月)

ガンディーと被差別カースト

加藤昌彦

1.ガンディーの多側面

 マハトマ・ガンディーは非常に多面にわたる活動をした人物ですので、今日は被差別カーストとの関係に限って報告したいと思います。

 ガンディーの多面的な活動については色々と論じられていますが、差別撤廃という視点ではあまり知られていないのではないかと思います。アジア・アフリカの独立運動の中で非暴力という手段で独立を果たした国はインドしかありません。パキスタンとの分裂はありましたが、それにしてもこの巨大な面積をもつ国を連邦国として独立させた原動力には、やはりガンディーの非暴力主義が大きな役割を果たしたと思います。

 一昨年の「歴史で見る世界──インド独立への模索」(1999年1月19日、NHK教育)では、長崎暢子先生がガンディー運動の特徴を3つ挙げておられます。まず非暴力主義、そして大衆が運動の担い手であるということ、そして近代に対する価値転換、つまり反近代を目指したこと、この3つをその特徴として挙げておられました。

 ガンディーは政治家である以前に、何よりも彼は宗教者であったと思います。彼の自叙伝が「真理の実験」というサブタイトルがついているところからも、そのことが分かると思います。彼は物を持たないという、「無所有」であることを生きる指針にしております。また、ブラフマチャリア(「犯さない」)、つまり男性が女性を性的奴隷としないということを信条にしていて、37歳のときから夫人との性的な関係を断っています。それから、ガンディーは被差別カースト、つまりハリジャンの生まれではなくて、「バイシャ」(商人階層)なんですが、おかしな言い方に聞えるかもしれませんが、ハリジャンになることを自ら目指しております。具体的に言えば、「ドービー」と呼ばれる洗濯カーストからも差別されている「バンギー」という清掃労働者たちの立場に立とうとしています。

 自らの価値を置くそのものになるという、重い実践をしています。それから山折哲雄先生はガンディーは「母」になろうとしたとNHKで述べておられました。またよく知られていませんが、インド独立後、ガンディーは、自ら率いるインド国民会議派を解散して、社会事業をやろうと提案しています。後に国民会議派が軍隊をもつようになるんですが、これについてガンディーは徹底的に批判しています。こうした中で、国民会議派の主流派とガンディーに従うガンディーアンの間に亀裂が深まっていきました。

 また、ガンディーは、あらゆる宗教間の協力を呼びかけております。彼の考えは、神はいろいろなところに遍在しているもので、時にそれがキリストという形をとることもあり、アッラーの神をとることもあり、ヒンズーの神々の姿をとることもあると考えていました。しかし、根本的にはすべての宗教の神は同じ一つの神であるというものでした。ですから、彼の「アシュラム」と呼ばれる道場ではキリスト教の聖歌も歌いますし、イスラム教やヒンズー教、仏教などのお祈りもしています。彼の言葉に「真理は神である」という言葉がありますが、彼はまさに宗教者であったわけです。

 それから、付け加えておけば、インド自体がベジタリアンの国ですが、ガンディーもまたベジタリアンです。動物の生命についても関心が高く、人間と動物の魂の重さに上下は無いと考えていました。象徴的には、牝牛を大切にしておりました。ガンディーはまた自然保護運動についても熱心でした。長崎暢子先生が、シューマッハという人がガンディーは「自然保護運動の祖」であると言っていたと書いておられます。

 ボランティア活動にも熱心で、看病が趣味といっても言いぐらいの人でした。彼は自叙伝で、看病への傾倒は、その後広汎なかたちをとることになり、しばしば本業を忘れるまでになった、と自ら言っております。彼はいろいろな戦争に参加していますが、それは看病のためです。社会事業家としても、自らの親戚に孤児院を経営させたり、ハリジャンの学校を作ったりと、たくさんの事業を実践しています。それから、彼は世界連邦主義者でもありました。1942年、国民会議派が「クイット・インディア」という、インドからイギリスは出て行け、という運動を決定した会合で、世界連邦を支持するという決議も出しております。

 さて、これから差別撤廃という観点では、どう評価できるかという本題に入っていきます。さきほど言ったNHKの番組でも述べられてなかったですし、それ以外にもほとんど指摘されることはないんですが、私にはどう見ても、ガンディーは差別撤廃を終始重要視していたと思われるのです。『ガンジー自叙伝・真理の実験』を訳された池田運先生は、「ガンディーさんの仕事は、インドの独立達成以外にも数多くあります。経済自立、ヒンズー教徒イスラム教徒の融和、手織木綿の普及、農村振興、教育改革など数え上げればきりがありませんが、中でも最も重視されたのは不可触制度の廃止でした」と述べられておりますが、これが正しい評価だと思います。

2.ガンディーと被差別カースト

<1>ガンディーの信仰との関係

 「ガンディーと西光万吉(上)」(関西外国語大学研究論集65号、1997年2月)という私の文で、書きましたが不十分なところは、そちらを参照して頂きたいのですが、まず、ガンディーの生涯の中で「不可触民制」差別との闘いが、いかなる位置を示していたかについて述べます。

 第一に、ガンディーは生涯に計18回の社会的な断食を行っていますが、その中で「不可触民制」撤廃に関する断食は、回に及んでいまして、一番多いものです。例えば、そのうち最も長い断食は1933年5月の21日間に及ぶもので、「不可触民制は大悪である」という「自己内部の召命によって行」なっています。

 第二に、ガンディーの著作の中で、不可触民制に関する文章の比重がどれだけあるかを調べられた古瀬恒介先生によれば、「『ガンディー全集』の『事項索引』を引くと‡€不可触民制‡∞€ハリジャン‡≠フ項目の記載は8ページに及んでいる」とのことです。第2位の「ヒンドゥー教」が1ページ半なので圧倒的に首位を占めています。

 第三に、基金活動の中での位置付けですが、同じく古瀬先生は「ガンディーのばあい、寄付は主としてハリジャン救済のために行われた」と述べておられます。以上のように、ガンディーにとって、「不可触民制」撤廃の位置が重要な位置を占めていたことがわかると思います。

 それから、ガンディーの宗教観と不可触民制撤廃の関係ですが、ガンディーは次のように述べています。「不可触民制の撤廃。それは『全世界に対する愛と奉仕を意味する』」、あるいは、「不可触民制の排除は、全人類に対する愛と奉仕を意味し、アヒンサーに結びつく。不可触民制の排除は、人間と人間の間の壁を打破し、絶対存在のさまざまな現れとしての個々の存在観の壁を打破する」。

 ガンディーは、「すべての生命は唯一の普遍的な根源から生じているという信仰」を持っておりました。ですから、個々の生命に上下があるという考えはそれに反することだったわけです。

 1924年にガンディーは次のように述べています。

 私は、神は高く強い創造物よりも、神の創造物の中で最も低いものの中でよく見出されることを知っているので、これら底辺にいる創造物に近づくように努力している。このことは彼らへの奉仕なくしてはできない。したがって、私の情熱は、抑圧された階級への奉仕に向けられているのである。そして、政治の世界に入ることなしにこの奉仕をすることはできないので、政治の世界に身を置いているのである。

 こうした考えはキリストや親鸞の考えと通底するかもしれませんが、神は一番呻吟している人々の中によく見出される。彼らに奉仕することで、神にまみえることができるという考え方で、この奉仕のためにガンディーは、止むを得ず、政治の世界に身をおいているという考えです。

 インドの最下層者、然り、もし私にその力があるなら、世界の最下層の深い悲しみと一体にならなければならないとするならば、私の保護下にある小さき者の罪と一体になりたい。そして、謙虚さをもってそうすることによって、私はいつの日か、神──真理──に直接まみえたい。

 神にまみえたいというこの思いが彼を動かしている根源的な欲求であったと思います。そうした気持ちから、彼は自ら「不可触民」になっていこうとします。

 わたしは生まれは「可触民(カースト・ヒンドゥー)」ですが、自ら好んで「不可触民」になったということです。しかも、わたしは、不可触民のなかでも上層階級(といいますのは、恥ずかしながら、不可触民のなかにもカーストや階級があると言われております)になろうと努めてきたのではありません。わたしの願望は、できるだけ「不可触民」のなかでも最下層の、すなわち「見るも穢らわしい」「近寄るのも穢らわしい」とされている階級の者になり、彼らと一体化することです。わたしはどこにいても、つねにわたしの心の目の前に彼らの姿を思い浮かべます。なぜなら、彼らこそは、ほんとうに深く「苦き杯」を飲み干してきたからです。

 ガンディーのものの見方は、人間に上下を設ける考え方は間違っているという見方であり、宗教観対立も同じ見方のもとに見ていました。

 ガンディーがインドを独立させたいと思っていたことは間違いありませんが、近代的で暴力的なインドは望んでいませんでした。ルイス・フィッシャーというアメリカのジャーナリストが『ガンディー』(紀伊国屋書店、1968年)という名著を書いておりますが、彼のインタヴューに対して、ガンディーは「私は社会革命家です。暴力は不平等に、非暴力は平等に培われます」と答えています。私自身もまた、差別は暴力から生まれ、暴力によって維持されると考えていますが、このガンディーの言葉は大変意味のある言葉だと思っています。

<2>初期の運動での努力

 ガンディーは小さな頃から、不可触民制をおなしなものだと考えていました。母親が「私たち兄弟が賤民(バリアー)に触れた、と言って沐浴させようとする」のを笑っております。また南アフリカでのインド人の権利運動の中でも、「カーストと宗教を忘れること」と述べています。彼は南アフリカではクーリー弁護士と呼ばれていて、インド人季節労働者の代弁者でした。この季節労働者の大部分は、「飢餓寸前のところから連れ出された不可触民」でした。

 彼は何よりも自ら実践する人でした。彼の家にはダリット出身の書記が住んでいましたが、ガンディー夫妻は彼のものも含めて自分たちの便器を運び出す仕事をしていました。便器に触るということは、現在のインドにおいても、非常に忌避されることですが、それをガンディーは100年前に実践していました。また、南アフリカで白人の理容師に散髪を断られて以降、自ら散髪を実践しています。それから洗濯も自分でやっておりますし、出産・育児についても本を読んで勉強して関わっています。このように、ガンディーは現在の日本の男性でも課題になっていることを、当時から実践したわけで、この点でも特異な人だったと思います。1866年にボンベイで、腺ペストが流行したときにも、彼は防疫対策委員会に加わって、「不可触民」の居住地区の調査の必要性を説き、自ら調査に赴いております。

 1915年に南アフリカから帰国したガンディーは、アフマダバード近くにアーシュラムを建設しました。そこにダリット出身の家族が入所を希望し、当然ですが、ガンディーはそれを許可しています。ただ、これがアーシュラムの内部や近隣で問題になりました。このとき、ガンディーは自らの政治生命を絶たれることが予想されても自分の主張を変えていません。同年、国民会議派のカルカッタ大会に参加したガンディーは、高い階層出身の多い国民会議派の指導者たちの中で、「会議のあいだ中、せっせと便所の掃除をし、会議派の書記の事務を手伝い、彼らの小間使い」をしていますが、そうした時代から彼はカースト制撤廃の努力をしていたわけですから、大変な努力だったと思います。

 1916年の国民会議派の大会で藍季節労働者のラージクマール・シュクルラという人が、藍季節労働者の搾取された状況を訴えています。彼はおそらく不可触民だろうと思いますが、この訴えに対して、ガンディーは共鳴し運動を展開しています。つまり、ガンディーはダリットの代理人として、様々な運動を行っています。

 1920年にナーグプルで開催された大会で、「不可触民制の撤廃」が決議されました。これはガンディーと、ガンディーの影響下にあった「中の下の階級の庶民代表たちの熱意のおかげ」だったわけです。ガンディーはインド全土を何度も行脚しておりますが、ある集会所では、ダリットが別に仕切られているのを見て、ダリットの側に座り、人々を彼に従わせています。

 ガンディーは演説の際に、左手を挙げて5本の指を開いた。右手の指2本で左手の指を1本つかんで振りながら、「これは不可触民の平等」と言った。演説が聞こえなかった人たちは、後で聞こえた人たちから説明を受けるのであった。次に2番目の指、「これは糸紡ぎ」。3番目は謹厳、すなわち、酒とアヘンの禁止。4番目はヒンドゥー教徒とイスラム教徒との友好。最後は女性の平等。拳を握って体におしあてると、それは非暴力だった。5つの徳は非暴力を通して各人の身体を、そして当然、インドを解放することになる。

 民族の独立運動の闘士として、これほど差別問題に深く関わった人はいないのではないか、と思います。というよりも差別撤廃運動の闘士として独立運動にかかわったという方がガンディーにとっては正確かも知れません。フィッシャーは「彼はどこへ行っても不可触民の家に泊まり、率先して模範を示した」と言っています。ガンディーが1932年にデリーに造ったアーシュラムはダリットの村に作られていますし、1936年のワルダーに建てたアーシュラムもそうです。

 彼は生涯何度も逮捕されていますが、1930年に「塩の行進」(第2回反英非協力闘争)で逮捕された際には、刑務所の中からアーシュラムの戒律を手紙で送っております。その真理・アヒンサーの基本理念である11カ条の戒律の中には、不可触民制の排除を「どんなことがあっても、なすべきことを遂行する誓い」として明記しております。

<3>ガンディーのカースト観と実践との混乱

 何度も申し上げている通り、ガンディーは人と人の間に上下を設けることを強く非難してきましたが、ただ、カースト観は保守的です。さきにガンディーは反近代的な価値観をもっていたと言いましたが、この反近代という意味は、イギリスがインドにもたらした近代化、鉄道などの機械化により伝統的な産業がだめになり、インド人が失業し苦しんでいる状況への反対であります。近代が社会にもたらす混乱・災難に対する根源的な反対です。この点も差別撤廃への大きな実践とともに、深いプロテストとして、環境問題・技術爆発による大混乱の最中にある現代社会への衝撃として、100年も前に提起したことは、強く銘記されねばならないことと思います。ガンディーは、イギリス的な近代社会と、伝統的で共同体的なインドの分業社会を対置し、後者を肯定的に見ていたわけです。そうするとこの分業社会は、カースト制度の一側面ですから、ここから、カーストを擁護するようになったと思われます。

 1950年にガンディーは次のように語っています。

 もし階級が何らかの社会的価値を保つことに役立つならば、カーストもそれ以上にということではなくとも、同程度に社会的価値を保つことに役立つであろう。カースト制度の美点は、それが富の所有の際に基づいていないということである。(中略)カーストは家庭の原理の拡大にほかならない。両方とも血と遺伝によって支配されている。西洋の科学者たちは、遺伝は幻想であって、環境がすべてであることを証明しようと忙しい。多くの国の確かな経験は、これらの科学者たちの結論と反対である。しかし、彼らの環境説を認めるとしても、階級よりもカーストを通して、われわれは環境を保ち、発展させることができる。

 翌年にも「ヒンドゥー教はカースト間の会食と通婚を思いとどまらせるのに最も力を注ぐものである。(中略)通婚と会食の禁止は魂の急速な進化に肝要である」と述べています。ネルーは、このようなガンディーの言葉に直面して、最も熱心に不可触賤民制の反対しているガンディーが、このようなカースト観を持っているのか全然分からないと感想を漏らしております。

 先ほど申し上げたように、ガンディーは反近代という視点から、上下のないカースト制度、単なる分業を考えていたのだろうと思いますが、しかし、これはガンディー最大の自己矛盾だと思います。ガンディーは近代文明の自由競争の中に、変転極まりない不安定な職業、そして失業、エゴイズムなどの悪の栄えを見てきて、それに対置されるものとして、ヴァルナの世界に安定した平等分配の共同体を夢想していたのだろうと思われます。

 1937年に、ガンディーは世襲的職業についてアメリカの聖職者に次のように言っています。「私が街路掃除人であったならば、なぜ私の息子は街路掃除人であってはいけないのでしょうか?」「そうです、なぜなら街路掃除人の仕事は聖職者の仕事に劣るものであるとは考えないからです。(中略)私の言わんとしていることは、街路掃除人として生まれた人は、街路掃除人として生計をたてなければならず、その上で、何でも好きなことをすればよいということです。なぜなら街路掃除人は弁護士や大統領と同様に報酬に値する仕事であるからです。」暗殺される前年にも、ガンディーは「我々は、先祖から受け継いだ道が清らかなものである限り、それに満足すべきである。もし私の父が商人であって、私が兵士の資質をもっていたなら、私は報酬なしに国に奉仕してもよいかもしれないが、商売によって生計を立てることに満足しなればならない」と述べています。こういった点が、ガンディーに見られる奇妙なヴァルナ観で、非常に屈折したところです。

 しかし、不可触民制については、同一人物からの意見とは考えられないことを言っています。

 不可触民制度というのは、特定の身分や家族に生まれたという理由で、その人たちに触れると穢れるという意味です。アーコー(17世紀のグジャラートの宗教詩人)の言葉を借りると、このような制度は社会の癌です。(中略)この制度がヒンドゥー教の主要な要素でないばかりか、ヒンドゥー教に災いをなすものであり、それと闘うことがすべてのヒンドゥー教徒に課せられた義務であるという、わたしたちの信念を世に言明することです。それゆえに、不可触民制度を罪悪であると考えるヒンドゥー教徒は、不可触民と呼ばれる人たちと兄弟の交わりをし、愛と奉仕の精神をもって往来し、そのような行為によって自らが浄化されることを肝に銘じ、彼らの不満を取り除き、長年の奴隷的境遇に起因する無知をはじめとする悪弊を克服すべく、たゆまず助力し、さらに他のヒンドゥー教徒にもこれにならうように奨励し、もって、せめてもの罪の償いに服すべきです。

 また、「不可触民は神の子なのであり、わたしたちは悪魔の子である。なぜなら彼らが額に汗し、手を真っ黒にして働いている間も、わたしたちはその人々を迫害して喜んできたからだ。わたしたちは、彼らに対する罪を心から悔い改めることによって神の子になれるのだ」(1997年5月25日NHK「家族の肖像<2>ガンジーの灯火を掲げて」)という言い方もしております。

 ガンディーは、いろいろな差別問題に対して、人を責めるよりも、まず自らが加害者であることを自覚し、自ら改めていこうとする強い信念をもった実践者だったと思います。現代においても深い意味をもっていると思いますが加害者自身の思想変革という意味でも差別撤廃の途上で1946年に「私は結婚を望む男女に、セヴァークラーム・アシュラムでは、どちらか一方がハリジャンでなければ結婚できないことをお伝えします」と宣言しています。それ以前から彼は異カースト間の結婚でない限り、結婚式への出席を断っていました。また同年に、ガンディーは「階級もカーストもないインドをつくろうと努力しているのだと語り、インドのカーストは一つだけになり、ブラーフマンがハリジャンと結婚する日の来るのを熱望していた」というのです。こうした点を見ると、何が何だか分からなくなると思いますが、一つ言えることは、このようにガンディーの中で実践と観念が乖離していたということですし、またそれだけ、インドのカースト制度が如何に強く人びとをとらえてきたかという、一つの証左にもなると思います。

<4>1932年のアンベードガルとの関係による、深めた努力

 次に、ガンディーとアンベードガルとの関係ついて見たいと思います。ご承知のように、アンベードガルは、被差別カーストの大指導者ですし、インド国憲法の草案を作った人でもあります。

 1930年代に、イギリス政府が統治制度を改めて、憲法を作るときに選挙制度を作ろうということになり、どういった選挙制度にするかが大きな関心事となりました。ガンディーは全ての分離選挙を、国を割るものだという理由で反対していました。被差別カースト分離選挙制度が持ち上がったときも、同様の理由から、断食によって反対します。ガンディーは本当に死ぬ気で反対したと思いますが、このときアンベードガルは苦渋に立たされました。もしガンディーが断食を続行して死んだならば、悪者になることは目に見えていたわけです。

 実際どうなったかと言いますと、ガンディーが断食を始めますと、インド全土で被差別カーストを入れなかった寺院が、彼を死なせてはならないということで、門戸を開きます。また井戸や道も被差別カーストに開放します。これは非常に大きな出来事だと思います。結果的に被差別カーストは当初より2倍の議席を獲得します。そして、分離選挙はなくなりました。

 1932年9月30日にガンディーの影響下で反不可触民連盟が作られますが、これが1933年にはハリジャン奉仕者団(ハリジャン・セヴァック・サング)と名を改めて展開し、現在も存在しております。これにはアンベードガルも最初は参加しようとしますが、ガンディーはハリジャンは債務者ではなく債権者である、ハリジャン奉仕者団は、債務者の組織であると言っています。つまり、自分たち差別してきた者が、その罪を償うための組織であると主張します。アメリカの黒人解放運動や日本の部落解放運動は被差別者による運動ですが、このハリジャン奉仕者団は、ガンディーの努力によって、被差別者でない人たちが主体となって組織された団体です。それが今日でも運動を展開しているという点は、非常に興味深いことだと思います。

 それから、1933年に、ガンディーはハリジャン・ツアーを行なっています。これについてはあまり知られていません。インドの中央部、ワルダーという所にガンディーのアーシュラムがあります。1933年11月7日、ここからハリジャン・ツアーがスタートして、7ヵ月にわたってインド全土をまわります。1935年、ムルク・ラジ・アナンドが書いた"Untouchable"という本があります。現在では山際素男さん訳の『不可触民バクハの一日』(三一書房、1984年)がある本です。30数カ国語に訳されている有名な本ですが、その中に、デリー近くの駅ブランデシャールにおけるハリジャン・ツアーの模様が書かれています。ガンディーのハリジャン・ツアーがどういったものであったかを垣間見ることが出来ますので是非お読みください。

 ハリジャン・ツアーは、ヴァラナシで1934年8月2日に終えておりますが、ガンディーは行く先々で「不可触民制」の打破を演説し、基金を募っております。また、被差別カースト地区を訪問したり、同じように厳しい状況に置かれているプランテーション労働者やハンセン病者のところも訪れています。このツアー途中の1934年1月にビハールで大地震が起こっていますが、このときもガンディーは救援活動を行っています。ともかく、このハリジャン・ツアーは、9ヶ月にわたるインド全土の大キャンペーンツアーだったわけで、特筆すべきことだと思います。当時のインドで最も、そして空前の影響力をもった指導者が、そのためにのみ全国キャンペーンをしたことは歴史的は事柄でありました。

3.ガンディー主義者のその後

 それから、ガンディー主義者がその後、どういった運動をしているか、ということも重要なことだと思います。

 先にも述べましたハリジャン・セヴァック・サングですが、ここは初期から被差別カーストの子どもたちのために様々な学校施設を作る運動を継続しています。独立後は、インド政府援助金を貰っているようです。私は1999年、デリーに行ったときにハリジャン・セヴァック・サングの本部に行きましたが、少し活気を失っているような印象を受けました。1968年の段階で、このハリジャン・セヴァック・サングが運営している学校がこの年、175校、生徒数が8500人、7200の集会を行い、また合同茶話会を3458回行っていたり、大学寄宿舎を124持ち、8700人が寄宿させています。それで、ここには被差別カースト以外の人も入っておりますが、これは共に生活することで運動する者を生み出そうと考えているからのようです。その他、寺院・井戸・食堂・散髪屋などの反不可触民制の運動を展開しております。

 それから、現在私が注目していますのは、1970年に出来たスラブ・インターナショナルという組織です。ガンディーが一番注目したのは清掃労働者でしたが、この組織は、便所の改善、道路清掃のための改善策などを研究する団体で、全インドで経営され、その資金が被差別カーストのために活かされているようです。現在、職員が3万5000人です。

 それから、小作人を主とし、暴力的に地主と対決するカースト間戦争を行っているものもありますし、アンベードガルの系統をひくインド共和党の人々や、アメリカのダリット・パンサーの影響受けた団体もあります。

 1950年代には、ガンディーの高弟の一人ヴィノヴァ・バーヴェという人が、ブーダン運動を展開しています。たくさん土地を大地主から寄進してもらって、それを被差別カーストに分配する運動です。それからこのブーダン運動に関わった人に社会党書記長も歴任し、戦後インド政治の中で特筆すべき人物であるナラヤナンというインドでは非常に有名な方がいました。最近では、ガンディー主義者がインドの核実験に対して反対運動をしております。

 ですから、現在もガンディー主義者が被差別カーストの解放運動を、差別してきた者の責任として続けていることが指摘できます。

4.部落解放運動とガンディー

 ガンディーと部落解放運動の関係はあまりないというのが一般的な印象だと思います。日本の中でガンディー主義者を自称する政治運動家や政党はないに等しいと思いますが、しかし非暴力主義者としても有名な賀川豊彦は、熱心にガンディーと接触を試みております。戦前にはインドにガンディーを訪れ、ガンディーから徹底的に軍国主義と死をもって抗え、という言葉をもらっています。また戦後、朝日新聞社が『ガンディー伝』を出しました時に、その中には、松岡駒吉、高良とみの名前も見えております。あるいは1962年に結成された日本のキリスト者部落対策協議会の初代会長である西村関一(衆議院議員・社会党)が、ガンディーの非暴力主義に非常に共鳴を持っておられました。

 しかし、いずれによせ、ガンディーの影響は大きな流れとはなっていません。部落解放運動でも全国水平社の第3回大会で、牢獄に捕らわれていたガンディーが出獄した際、祝電を打とうという提案が出されております。しかし、これは様々な混乱がありましたので、却下されています。阪本精一郎も雑誌『水平』の二巻だったと思いますが、そこにマハトマ・ガンディーの運動について書いております。その他、栗須七郎や米田富がかすかにガンディーについて触れていますが、一番彼について注目していたのは、やはり西光万吉です。

 彼がいつからガンディーについて関心を持つようになったかは、よく分かりませんが、全国水平社の草案を書くときには、おそらくガンディーについて知っていただろうと思います。1942年には「神に聞く政治運動」という論文でガンディーついて書いています。戦後ははっきりとガンディーの非暴力主義を固守しつづけました。インド行きを祈願していました。戦後の第7回部落解放全国大会では、ガンディーに代わってインドの差別問題の解決を切望する「ネルー首相に送る」という案を実現させたりしています。しかし、こうした西光万吉やその周辺以外に、部落解放運動とガンディーの関係は、管見の限りではありますが、見られないと思います。以上です。