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2004.11.16
部会・研究会活動 <身分制研究会>
 
第úL期国際身分制研究会報告書

国際身分制研究会編
 (A4版・167頁・実費頒価・2003年6月)

「全国水平社創立宣言」の思想的源流

宮橋國臣

1.西光万吉の思想形成を中心として

水平社揺籃の地の概観

  私は水平社発祥地の歴史に関して地元の聞き取りや史資料を活用した西光万吉の研究を進めてきました。それを踏まえて「水平社宣言」を起草した西光の思想形成について報告をしたいと思います。

  先ず、西光は自らの半生を記した『略歴と感想』(1947年)の中で、米騒動に関してたぎる感想を書いています。「全国的な米騒動も私の心に大きな衝動を与えた。なぜ、各地の部落民がことに烈しく乱暴したか、また、いかに政府がそれを冷酷無情に弾圧処刑したか」。西光は米騒動の衝撃を戦後もなお引きずっていたのです。部落民に対する苛酷な弾圧を訴えているのですが、西光は自分の村の米騒動と和歌山県橋本市岸上村での二人の極刑が特に記憶に残っていたからではないかと思います。柏原部落には岸上村との通婚関係から縁者が大勢住んでいます。ですから、西光の耳に自然に入ったと思われます。ともかく、西光の心に深く焼き付いた事件であったと思われます。

  「解放令」から半世紀の間に、柏原部落が主体となった学校統合闘争が惹起します。期間は1891年の4月から1899年にかけてですが、掖上村では西村元十郎初代村長が一村に二校、つまり部落学校の再設置案を村会で通過させたことに始まります。村長は「人種ノ異同」を唱え、部落大衆を本校の校区から排除しようと画策したのに対し、檀家総代の坂本清三郎(阪本清一郎の父)らが中心となって役場へ乗り込み、また村長の屋敷を取り囲んで糾弾します。翌年には11ヶ月間の同盟休校を打ち、最後に竹槍で対峙したのです。その結果、村長と盟約を結び、四年生のみ本校通学が許可となったのです。その後も、一村二校の体制が続きますが、実質的な一村一校をめざして闘争は継続します。この過程で、所謂柏原の三青年が誕生しているのです。西光も成長過程でこの空気を吸い、影響を受けたものと思われます。

  もう一人、西光らに影響を与えた人物として巽数馬がいます。『朝野新聞』(1890年10月1日)によって、遊学中の数馬が沼津事件に連座し下獄します。そして数年間は獄中生活を余儀なくされます。出所後には漸く医師国家試験に合格して帰郷します。帰郷後、近郷近在では温厚篤実な開業医として知られ。後に舟木医師差別事件の報告者にもなっています。

西光の生い立ち

  西光は掖上尋常小学校、御所高等小学校、畝傍中学校(現畝傍高校)へ入学しています。しかし、その中学校でも差別をうけて登校拒否を起こし、図書館などで終日文学書を読みふけったりしています。文学青年であったのですが、やがて京都の平安中学校へ転校します。そこでも奈良県出身の体育教師から嫌がらせを受けます。西光はその教師の差別言動に憤って、密かに「アイクチ」を用意しますが、実行には移せませんでした。しかし、その反省が高じて、第一回目の自殺願望を起こしたのです。寺も嫌になり、画家志望に傾いていったのです。京都市岡崎に現存する関西美術院の寺松先生の元で絵の修行を始めています。今もその美術学校は岡崎にあるのですが、卒業者名簿に西光の名は載っていません。個人的に学んだのか、皆と一緒に学べなかったのかもしれません。

  その後、上京して、太平洋画会研究所の中村不折の元で修行します。関西から離れれば差別から逃れられると思ったのです。ところが、その下宿屋で古参の下宿人から出自の詮索を直接受けたのです。結局、東京も駄目だということを身にしみて感じたのです。それでも西光は悪夢の東京生活を続けます。出自を厳秘に西光は真面目に勉強し、画商にも好意的に接せられたようです。また、西光は日本美術院で修行し、革新的な二科会や岸田劉生の草土社にも参加したようです。しかし、周囲の間接的な差別的言動にも傷心し、一時は画家としての筆をおったようです。

  化学の勉強で上京した阪本は西光と下宿を共にします。西光は屹立する差別の壁を克服しようと上野図書館に通い、文学、哲学、宗教等を独学します。その過程でアナキズムにも触れたようです。阪本や木村京太郎の聞き取りによると、バクーニン、クロポトキン、ドストエフスキー等(『カラマーゾフの兄弟』等)も読んでいます。トルストイの影響も受けたことでしょう。水平社結成までの8年間くらいは、東京と故郷を往来したのです。

  帰郷後の西光は日本も駄目だと思うようになり、ゴーギャンのように南洋を目指して「黒潮会」を発起します。当時は『黒潮』という雑誌もありましたが、それにはアナキズム色はありません。しかし、アナキズム的な意味を込めて「黒」を用いたと思われますが、西欧での「黒」は死を意味するようです。「黒潮会」と書いて「コクチョウカイ」と読んだのです。気候のいいセレベス島(実際は猛暑)を目指したのです。奈良女子大の聞き取り調査によると、大正4、5年くらいに出来たのではないか、と記されています。結局、資金調達ができず、頓挫します。セレベス島行きの計画は1919年ですので、米騒動の時にできた武者小路実篤の「新しき村」の海外版ではなかったか、と思われます。なぜ、セレベスであったのかといえば、日本人の来ないオランダの統治領だったからだと思われます。セレベスで香料(丁子)栽培を計画したようで、「黒潮会」は西光によるアナキズム的ユートピア運動の最初の試みであった、と思われます。

  その後、西光は雲水生活に入ろうと思い、誓願寺の三浦大我に相談にいきます。それで京都の一燈園を紹介して貰います。現在は移転して山科駅の近くにあります。そこでピュリタン的な西光は男女間のスキャンダルな関係を耳にするのです。ここも嫌になり、三日ほどで帰郷します。帰郷後には宮崎県にある「新しき村」へ行こうと思い立ちます。なおも、無所有の創造的生活を渇望していたからでしょう。ところが、旅立つ直前に、賀川豊彦が消費組合運動を開始したということが知らされ、三青年は賀川の自宅のある神戸へ向かいます。

燕会と西光

  1920年の戦後恐慌を乗り切るために、民力涵養運動に呼応して、阪本が燕会を発起します。阪本が発起人になって会員を勧誘のために、村の中間層を廻ったのです。その中で、西光は消費組合の後援者になったのです。西光が販売所の職員を二名雇用するわけですが、商品の猫ばば問題が起こり、また事務長と事務員の恋愛問題が発生します。責任感の強い西光は頭を悩ませます。大我が記している「不正」、「不義」、「欺瞞」という言葉が西光の脳裏から離れなかったのです。ここで、二回目の自殺願望を懐きます。当時の西光の精神状態は、三浦が社外記者となった『中外日報』に掲載の「最高相の文化」のなかで活写されています。それはニーチェの厭世思想に基づく「絶対避妊論」ですが、生まれてくるのが一番悪い、死こそが最高相の文化だと言っているのです。これはニーチェの『悲劇の誕生』にでてまいりますが、元は『ギリシア精神の様相』(岩波文庫)に載っています。このように、西光は二度目の自殺願望の淵にたたずんだのです。

青年層の昂揚

  西光は社会主義同盟に入り、社会主義の洗礼を受けます。三青年は1921年の春に「青年同志会」を作っていますが、これがやがて水平社へと発展します。同年は青年団活動の高揚期を迎え、県内各地で雄弁大会や地元では金剛登山等と活発な年でした。西光らも雄弁大会に姿を見せるようになります。国家主義的色彩の濃い演題が居並ぶ中、駒井喜作の演題「輝ける生」は異彩を放っています。この内容は不明ですが、当時の「生」からは幾つかの思想が想起されます。一つは、大正初年に大杉栄らの創刊した『近代思想』の主題となった「生の拡充」論つまり自我であり、個人主義です。これは大正デモクラシーの基調にもなっています。二つ目には1921年に西欧芸術運動が盛んに紹介されますが、特にドイツの「表現主義」の影響が考えられます。これは主観的意思の表現を基調としたものですが、こうした思想が駒井の演題から読みとることが出来ると思います。なお、当時の駒井は山田サカエと恋愛関係にあったので、歓喜の中にいたのですが、自殺願望の西光とは全く対照的な情況にあったのです。

  ともかく、西光らの青年同志会は雄弁大会に社会主義思想を持ち込もうとします。例えば、西光は「水平社が出来る前には、あちこちで青年雄弁会や、討論会のようなことがいろいろ催されていたので、わたし共はその中へ社会主義的なものを持ち込むようなことばかりやっておったのですが、そうしたことから部落内部の連絡があったわけです」と言っております。社会主義同盟員として、このような活動をしていたのです。

  西光は高田の雄弁大会で、米田富(米田富一郎)に出会います。この記事は『大阪朝日大和版』の1921年10月20日に載っています。この演壇で、米田は外来思想擁護論を展開しますが、彼の主張を支援したのが会衆の一人西光だったのです。当時は青年団活動の昂揚は水平社結成の追い風となったと思われます。当然、西光は諧謔精神旺盛な米田富を仲間に入れよう、と考えます。

  翌月には「南葛雄弁大会」が開かれました。演題を列挙しますと、「自治団と青年」「青年は天下のもの」「青年奮起の機は熟せり」「青年思想に就いて」「大正維新の青年の覚悟」「二つに一つ」「吾人の行くべき道」「燃ゆる薔薇」「当然の反抗」「所感」「青年の意気」「斜面観」「青年と貯蓄思想」「静冷の気に汝等の熱湯を冷やせ」「狭隘なる現実社会を排して」「青年の修養」「教育の順応」「所感」「暗黒の社会」「心霊雑感」というものです。特に柏原部落の竹川忠次の「燃ゆる薔薇」は異質な印象を与え、国家主義とは違った趣が感得されます。しかし、中味は分かりません。

  西光が初めて演壇に立ったのが「紀和青年雄弁大会」で、今の五条市で行われました。これは社会主義的な色彩の濃い大会になったようです。官憲の中止勧告が頻発され、混乱もしたようです。『大阪朝日大和版』(1921年11月29日)によると、演題は「自己」「戦争と平和」「真の愛」「短き感想」「所感」「意気とは何ぞや」「社会的制裁」「現代道徳に就いて」「過ぎし何時ぞや」「郷党文化協会」「本会開催の所以」「肯定?否定?」「誰の罪ぞ」「現世の置き土産」「特殊部落の解放論」、これは岡本弥の息子です。「若き労働者の見たトルストイ」は浦野芳清が発表しました。ですから、柏原部落からは3人が登壇したのです。「金穀を脱ぐ」が西光です。「二つの経済組織」は駒井喜作です。「第三階級より」は米田です。ともかく、これらの論題から青年層の立ち上がりと、社会主義的論調がかい間見られます。

「鐘に寄せて」

  西光が当時の動静や水平社創立趣意書を読み込んだのが、自由詩「鐘に寄せて」です。これは『警鐘』という雑誌に載ったもので、ペンネームは西光寺一となっています。西光は、『白樺』などの影響を受けていた可能性もありますが、ともかくこの「鐘に寄せて」は、水平社宣言へ至る過程をみる場合に大切で、これを解釈しないと水平社宣言に至らないかも知れません。そこで、この詩の解読を行っていきたいと思います。そこには「吾々の長かりし夜の黎明になり渡る よき日の晨朝になり渡る もっとなれ、あらゆる魂がめざめるまで、あらゆる人間の悪夢が消えるまで-」とあります。「長かりし夜の」という言葉は、水平社宣言に「長い間虐められて来た兄弟よ」に関係があると思われます。水平社宣言の「長い」という言葉を用意したと思うのです。「よき日」、「悪夢」もあります。これらの文言も宣言に挿入されています。また「鐘に寄せて」では「わだつみのそこ淵の中、水藻の下に、かげを沈めた鐘でさへなる時がある」とありますが、これは部落を暗示していると思われます。

  「これは警鐘、これは暁鐘、これは聖鐘」とありますが、『警鐘』誌に対して「これは警鐘」とするのはちぐはぐな感じがします。つまり、「これ」とは『警鐘』ではないようです。

  「めざめと黎明と愛の音 これは自由、これは快活 歓喜と礼賛でございます」。これは、『よき日のために』の表紙の下の段にある赤い文字で記載された「日輪を出す 歓喜よ」と関係があるようです。これは、ドイツのシラーの「歓喜に寄せて」から引用していますが、シラーは「自由に寄せて」という題にしたかったのですが、使えなかったのです。それでシラーは歓喜という言葉に置き換えたのです。ベートーベンの第9です。その翻訳したものは、大杉栄の『民衆芸術論』に出てまいります。ですから、これは、『民衆芸術論』から転載していると思われます。つまり、「歓喜と礼賛でございます-」は『よき日の為に』と関係していることが徐々にみえてくると思います。

  「大宇宙の巡礼よ」はまた唐突に出てまいります。古寺巡礼とかいいますが、当時の思想家、西欧の思想世界を巡礼した、という意味で使用されたと思われます。つまり、西光は大正デモクラシー期の内外の思想を受容し、吸収していったということを意味します。「大宇宙」と形容したのは、孤独と思想世界の広大無辺さを含意したものでしょう。

  「これは人間の浄土の道でございます」。これが人間の真理の道だと読みとれると思います。

  「二河白道の巡礼よ」。「二河白道」は仏教用語です。水の河と、火の河とその間に挟まれた一人しか通れない細い道を浄土に向かって進んでいくイメージですが、この二河は自己の内部に流れているのです。つまり、「悪人正機」に覚醒した自己なのです。

  「これはパンとシレンのうたでございます」。これはギリシア神話に出てくるパンとシレノスを指しているようです。彼等はニーチェ著『悲劇の誕生』の元になった『ギリシア精神の様相』の登場者です。彼等は西光の自殺讃美論の源流に位置しています。

  「生命の鐘の音は、祈念の魂から魂へはてしらぬ、余韻を引く」。「生命の鐘つき男よ」これは、西光が自分自身のことを言っていると思います。次を見れば更によく分かります。「なんとおまへのご苦労よ おまへはたっしゃで早起きでお人よし。そしておまへには いろがあるそな、その恋やつれ、なんとおまへのご苦労よ」。西光は自己を客観視していると分かります。水平社創立趣意書『よき日の為に』等を書きあげるために、早朝から勉強している西光自身の姿が読み込まれていると思われます。

  「なんと美しいおまへのイデアよ」は、『よき日の為に』のようです。「おまへに魅入った可愛いエロースよ、どうでもおまへはこがれ死」は自画自賛のようで、『よき日の為に』に込めた西光の思いが伝わってきます。

  「だがなんと幸福な事だ。わたしはよいものをことづかった、おまへのいろからたのまれて、薔薇でかざった十字架をことづかった」。この「十字架」は殉教者を意味しますので、殉教者精神が読み込まれている、と考えられます。つまり、命を賭けるということです。

  「荊の冠をとるひまもなく、その十字架を擁護し、その薔薇に接吻するであろう、おまへは」。「荊の冠」はキリストの頭に被せられたものですが、荊冠は嘲笑の意味もあるようです。そういう文言は水平社宣言にもでてまいりますから、荊冠旗と宣言が一対のものである、と推測できるのです。荊冠旗は宣言と表裏一体ということが言えるのです。

  「黎明に鐘が鳴る 追放されたイブとアダムは、悲嘆と当惑の頭をあげる、そこから親鸞が同行し、ルシファーの蛇が案内する、地獄のかなた、人間の浄土よ」。ここに旧訳聖書がでてまいります。ルシファーは西光の分身です。というのも『よき日の為に』の中に「わしはルシファー」という一句がでてくるからです。イブとアダムは神に反逆し、親鸞も権力に反抗し越後に流罪にされます。ルシファーも神に対峙して、反逆を企てた悪魔です。これはバクーニン『神と国家』にでてきますが、反逆者、そういう意味が込められていると思います。宣言では「人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ」という文言がありますが、それに該当するイブ、アダム、ルシファーを持ち出したのです。つまり、宣言が読み込まれていると推定できるのです。

  「鐘の音は、人間の魂に反響しまたこだましてライジングジェネレーションを奏曲するよ」。ここには、明らかに当時の青年団活動や青年層の昂揚が読みとれます。「ライジングジェネレーション」とは青年層のことだからです。「見給へ、はるかなるかなたより、よき日の先駆は、しらしらとして歩みよる」。まさに、『よき日の為に』が歩み寄ってくると読みとれるのです。ですから「鐘に寄せて」は、『よき日の為に』を礼賛した詩であると理解できます。

  実は『よき日の為に』には平野小剣の書いたものもあります。創立大会直後の4月に、東京の関東水平社から平野が『よき日の為に』のパンフを出しています。そこで創立大会の様子や綱領概説も行っています。その中に、創立大会には「二千五百有余名」が参加したともでてまいります。

  ところで、吉井浩存著『水平運動発達史』(1926年)では、宣言は「単なる社会運動の記録といはんには余りに芸術的光芒に燃えている」と称揚しています。芸術的な光芒というよりも、西光は思想的宗教的光芒として、人間の尊厳思想を読みとって欲しかったのだろう、と思います。

  西光は創立大会をこう証言しています。「とにかく感動しましたな。みんな涙をボロボロこぼして。あんなことはちょっとありませんね。それまでは、エタ、新平民などの名で賤視、差別されて、世の中からのけものに扱われていたものが一堂に集って、おれも人間だと宣言したのですから、実に感激極まった声を挙げて泣きました。幾百年の間、狭い地域で差別と迫害の中にモグラのような生活をさせておき乍ら、生活がどうの、教育がどうのと改善を強いられ何故そうなったかということについて何も考えられていなかったのだから、部落の人々はたゞあきらめるか、身分を隠して『破戒』の丑松のような苦しみをなめるか、外に生きる道がなかったのです。ところが、今まで心のうちにあったあきらめと卑屈の気持ちが、あの大会で一ぺんに散って了ったわけですよ。俺達も同じ人間だというこの判りきった言葉が、それまでは言えなかったのですから・・・あの大会の空気は口では言えませんね」(『部落問題研究』2)。また清塚良三郎は、宣言は部落の青年層を奮い立たせ、光のような存在であったといいます。

時代背景

  米騒動前後の世相は、社会改造論や『民衆芸術論』などが話題となり、民衆本意の呼号が興隆していたのです。『我等』『改造』『解放』等が相次いで出版され、世論を牽引します。社会改造の機運も盛り上がります。黎明会、新人会も立ち上がってきたのです。民衆、学生、知識人が立ち上がったのが時代情況だったのです。『改造』には、著名な西洋の知識人の論考を掲載しています。この時代は一種のコスモポリタニズムの潮流を形成していたようです。西光もこういう時代の影響を受けたと思われます。

  西光は「私は『人の世に熱あれ、人間に光あれ』という水平社宣言を書き、黒地に赤く荊冠を現した、その旗を描いた。黒い地色はわれわれの過去と現在の陰惨な生活を表示し、赤い荊冠は、もとより受難と殉教の象徴である」と言っています。黒旗というのはアナキズムの旗ですから、アナキズムの影響を受けていたことは確かだと思います。再言しますが、荊冠旗と水平社宣言は一対のものと考えられるのです。

  水平社の結成は、当時の「社会主義運動」の昂揚と深く関係しています。水平社の結成は、佐野学の「解放の原則」が啓示となります。後年、西光は次ぎの様に言っています。「そうです。佐野さんが『解放の原則』を発表されたのは、大正十年七月ですが、当時は部落のものと否とにかゝわらず、社会主義的なものが盛んで部落民の自主的解放運動も、そうした中から発足した訳です」(同前)

  つまり、西光は社会主義も水平社結成に大きな影響を与えたというのです。西光が社会主義同盟に入ったので、影響は当然ですが、次の証言からも分かります。「私共の奈良県に大和同志会というものがあって、改善運動が盛んでした。岡山でもそういうことでした。それは資本主義の影響によって、部落の貧困化がめだってきたので、それを改善する立場ですね。ところが、その当時は世界大戦の不況時代で既に日本でも労働運動が起こり、社会主義運動が盛んであって、私自身も当時の社会主義同盟の一員であったので、当然改善運動ではだめだということが判り、水平社の宣言にしても、綱領にしても、ハツキリと出ていませんが、やはり資本主義に対する批判であったと思います。もちろん、社会主義といってもその時分は大杉さん、堺さん、山川さんなど、早くいえばアナもボルも一緒ですから、従って水平社の宣言をみていたゞいてもいろいろの思想が入っていると思います」(同前)

  ところで、特別に岡山と大和同志会のことに言及しています。『明治之光』の投稿者の分布をみると岡山がダントツに多いのです。岡山からの投書数は地元の奈良県よりも倍以上もあるのですが、これは三好伊平次の活躍によります。そのため岡山は解放運動が盛んで、三好はその中心でした。三浦大我も主に岡山に講演に行ったそうです。

社会主義の昂揚

  当時の社会主義者は世間の衆目の集めるところでした。例えば、高畠素之「日本社会主義運動史」(『解放』1921年10月特大号)では、「この頃世間の景気は最もよかった時で、露西亜革命の刺撃に昂奮した読書階級は、社会主義に関する知識慾に燃えていた。加うるに内外の情勢に支配されて政府も取締政策を稍々緩和して来たので、従来穢多村扱を受けていた社会主義者も、論壇の寵児として迎へられるようになった。社会主義に関する書籍も出版されるようになった。」といっています。「穢多村扱を受けていた社会主義者」と差別にたとえられてあるように、社会主義者は排除・冷遇されていたのです。ところが、社会主義者にも陽があたってきた、その例えとして「穢多村」を持ち出したのです。「社会主義が加速度的に流行的勢力を増し、労働運動がある程度まで社会主義と合致し、而して更に更に再分化し始めたのは、僅かに茲一両年の事実で、(略)、流行時代の盛時於いては、学者、思想家、文学者が悉く多少なりとこの熱気に浮かされ、誠に百花繚乱の有様を現出した」知識人は、社会主義者になっていったような雰囲気を伝えています。

  社会主義同盟には、アナ、ボルに関係なく参加します。平野小剱も資本主義批判である「特殊民の覚悟」を書いております。社会主義の影響について、地方新聞をおってみましたが、奈良新聞の1921年10月22日では「日本社会主義者云々の大宣伝ビラ数枚を押収」と出てきます。翌月14日の記事で「全国に散在する主義者」の動静に「全国警察界は且つてない緊張振を示している」ことを報じます。ですから水平社宣言にでてくる「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」という文言は、平野小剱の影響よりも、当時の常套句でもあったのです。「十日愛市改造発会式当夜も堺一派の『知識階級に与う』という宣伝ビラを散布したものがあるので最近県下に入り込んで来た某々特別要視察人の主義者の監視に怠りなかったが」。堺の名前もでてまいり、警察が緊張している様子がうかがえます。因みに、3・15事件で獄中の西光が描いた絵も社会主義思想を表現したものだと推断できます。

  昨夏、甲府市で偶然見かけた『峡中日報』という山梨県の地方紙から、水平社結成前後の部落問題と社会主義に関する記事を見つけました。有馬頼寧を中心とした「大演説会」の記事、平野小剱も参加し「同愛会」と推定される記事が出てまいりました。1922年2月21日付けの記事には「特殊部落民の大同団結成る─平等会結成─」とでてきます。そこには、「社会主義的傾向を帯びる者が、其の結団に乗じて何事か宣伝することなきやを憂慮し、各地停車場に警戒網を張り大阪入りの危険人物を血眼で捜している」と記載されています。水平社宣伝ビラがまかれるというのを予想していたようです。米田富さんは警戒されていると判って、逆に発憤してビラをまいたのです。

  その他には、堺が山梨県に講演に来た記事がありました。が、駅のプラットホームで追い返されてしまいます。当地の国粋会は堺らが来県すると見込んで結成されています。国粋会支部の発会式直後、堺らを駅で追い返したのです。水晶細工職の田中英三が堺を呼んだようです。国粋会は官憲と一体になって妨害を行っているのです。

  因みに、『峡中日報』は大杉の「無政府主義者の父ミシェル・バクーニンの生涯」を連載していました。1922年の1月から第一部、第二部は3月1日から始まりましたが、4日で打ち切りになっています。3日に水平社が出来たからだと推定されます。その地震波が山梨まで伝わったと思われます。5日には、官憲によって「掲載禁止」の知らせとなったのです。社会主義に対する弾圧の契機として、水平社創立大会が大きな震源となった、と推定できます。

宣言の思想世界

  西光の思想宇宙の巡礼に関しては、先ほど述べました。「キリスト教ばかりでなく、仏教、それから親らん教といいますか、それらのものが未整理のまゝでております。そして一方アナ的なものもあった。当時はアナーキズムも相当勢力があったのです」(『部落問題研究』2)。西光自身がキリスト、仏教、親鸞、アナキズムあり、特にアナキズムの影響は強かったといっています。

  思想世界というのは、具体的にどういうことかというと、『警鐘』に出した最初の論考「解放と改善」というのがあります。そこで、カタカナ表記の固有名詞(タイタン、アポロン、スツルム・ウンド・ドラングリブ、リープクネヒトなど)が文脈中に散在するので、西欧思想を渡り歩いていたことが分かります。西光の別稿に「金穀を脱いで」というのもあります。「第三インターナショナルの宣言」「共産党宣言」「ロマン・ロオラン」などの影響を受けている。水平社創立の趣意書の典拠は、関西大学の故松岡保さんによって精査されています。ウイリアムモリス、ロマン・ロオラン、佐野学などです。水平社創立後の長論文「業報に喘ぐ」(『中外日報』1922年10月6-15日)中で、ソクラテス、アナキサゴラス、ローレンスタイン、親鸞、マルクス、アリストテレスなどがでてまいります。このような用語から、西光は思想世界を巡礼していたといえます。

  なぜ、そこまでしたのか。それは、当時、大杉栄が「インテリゲンツィア排斥運動」をしていたからだと思われます。インテリ達に負けたくないというような気概をアナキスト達に起こさせていたのです。西光もそうして奮起したのではないかと思われます。そして、水平社宣言に心血を注いでいったのです。ともかく、こういう思想世界を巡礼して形象化したのが宣言だったのです。

  ですから、西光はアナキズムの影響を受けています。西光のアナキズムの痕跡について考察しますと、「業報に喘ぐ」の中で、大杉栄の「生の拡充」から文章を引用しているのがはっきり分かります。「そこで私はべつに社会を改造しようとするのではないが、自己の生の拡充は必然的にそれをする。客観的にそれが善であるか悪であるかは知らぬが、生の拡充は客観的論理を越えた善である。それは『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』の願力不思議である」(「業報に喘ぐ」上四)。ここには、大杉と親鸞を融合させた論理が展開しています。また「自己の小さな力が、大きな願力に乗せられ法悦境を行く。私にゆるされたる世界、そこに実行が燃え、私をゆるす世界、そこに観照が流れる。主観と客観が相抱擁して、熱情を恍惚のうちにさらに新しき実行を生む芸術境」(同前)とあります。これと次の大杉の文章と比較します。「実行に伴う観照がある。観照に伴う恍惚がある。恍惚に伴う熱情がある。そしてこの熱情は更に新しき実行を呼ぶ。そこにはもう単一な主観も、単一な客観もない。主観と客観とが合致する。それがレヴォリュショナリーとしての僕の法悦の境である。芸術の境である。」(大杉『生の拡充』六)。つまり、西光は大杉の文章をアレンジして書いたことが読みとれます。

  西光とアナキズムの影響について、更に事例をあげることができます。逸見吉三『墓標なきアナキスト像』の中でも少し触れられています。「その寺の息子、西光万吉君(本名清原一隆、水平社創立に関係し、三・一五事件で検挙されたのち画家となった)とその弟(名前失念、私の親しかったのはこの弟の方である彼は<黒徹底社>をつくり、発禁のアナキズム文書を秘密出版して、県下にまいていた)と話していて」(逸見吉三『墓標なきアナキスト像』)とあります。つまり、本人のみならず、弟(道祥師)もアナキストになっていたのです。弟は西光よりも先に下獄しています。

宣言と教育勅語の対峙

  このように練り上げられた宣言文について、西光自身はあまり多くを語っていません。西光は、「どこかの宿屋で寝ころんで書きました。不用意に書いたのですよ」(『部落問題研究』2)と謙遜しています。ところが、一方「私は前から気になって幾度も書いたり消したりして居ました」(『部落』1967、5号)と、本音を漏らしています。宣言は推敲と苦心の末に出来たと思います。西口敏夫『水平社宣言讃歌』の中に、病床の西光を見舞ったくだりが出てきます。そこには「やがて話題は、全国水平社創立の思い出話になり、水平社宣言のことに移る。大兄は宣言の草稿の苦心をかたり」とあります。この大兄こそ、西光のことだからです。これは西光の遺言となっています。西光自身が宣言の起草に心血を注いだのだ、と判断できます。阪本清一郎も「西光万吉座談会(2)」(『西光万吉著作集』)の中で、西光が宣言の草稿を何度も修正していることを証言しています。

  水平社を支援した同志社大学の住谷悦治は「『水平社宣言』は、堂々たる『人権宣言』」(「西光万吉座談会(1)」同前)と評価し、宣言の意義と西光の顕彰を示唆しています。宣言の記載場所については、旅館とされていましたが、一遊郭を示唆する「すみや」の物干台で書いていたのです。

  宣言文の起草にいたる西光の思想形成から、西光こそ大正デモクラシーの時代を画した象徴的人物と言えます。ですから、教育勅語との対峙もあり得たと思います。当時、教育勅語は儀式には欠かせませんでした。水平社結成後は、教育勅語への対応はどうなったのでしょうか。長野県でも水平社の支部結成を準備しました。そこへ、招待された平林村長は国体論や教育勅語に関する発言を行いました。これに対して、19才の青年朝倉重吉が「反動」であると叫び、村長の話をうち切らせたのです。「この村長さんは、神さんの話しをするが、おれは人間の話をする」(柴田道子『被差別部落の伝承と生活』)といって中断させ、水平社結成にふさわしい場に切り替えていったのです。宣言の影響が如実に現れたと思います。教育勅語や神が支配する世界をうち破っていったのが、水平社宣言であり、「人間が神にかはろうとする時代」を意識したからです。

三浦大我の思想

  西光は大杉、堺らのアナキストや社会主義者との交流、その書物からの影響もあったのですが、三浦大我の影響も大きかったと思われます。碩学の傑僧三浦の演説中にはカーライルが出てきます。カーライルはピューリタンの影響を受けており、『シラー伝』も書き、ゲーテに傾倒したのです。西光は三浦を介してゲーテの文学改革運動「シュトルム・ウンド・ドラング」の運動を知っていたのではないかとも思われますが、ドイツ表現主義の源流にこの改革運動が位置していたとの認識もあったようです。ともかく、西光は「シュトルム・ウンド・ドラング」という言葉が頻用しています。一方、三浦はフォイエルバッハに傾倒するのですが、おそらくバクーニンを介してではないかと推測されます。しかし、そもそも日本にはルドルフ・オイケン、アンリ・ベルグソン、カーライルに繋がる思想潮流があったようです。『ベルグソンと現代思想』も発刊され、西洋思想の紹介もあったと思われます。

  さて、米騒動を機に、三浦は再度、柏原部落を訪れるようになるのです。第一回目は日露戦後の「矯風事業」に関わって、役場の職員として貯金箱の配布に訪問するのです。二回目が、米騒動後の三青年への薫陶です。戦前に西光も三浦大我のお陰だと、講演の中で語っています。三浦の影響力を窺わせます。三浦は檀家の青年層に慕われていたようです。西光も三浦に相談しています。三浦は西光が社会主義に傾倒していくにつれ、自身も変革し社会主義者になったようです。

思想要注意人

  西光は次のように書いています。「当時の私たちは、のんきなもので、アナでもボルでも、その他でも、さほど気にしていなかった。私にしても堺(利彦)さんの宅へも行けば、岩佐(作太郎)さんの宅へも行き、また賀川(豊彦)さんのお宅へも行った。阪本さんらも、山川(均)さんへも行けば大杉(栄)さんへも行っておられた。ともかく『主義者』であれば 私たちは安心してなんでも話しが出来た。彼らだけが無差別世界の住人であった」(『部落』31)。

  既述のように、賀川豊彦のところへは、消費組合を立ち上げる相談に行ったのですが、太平洋戦争が始まった年に和歌山に引っ越してからは、賀川が粉河協会に来た時に、面会に出かけています。賀川とも親交が続いていたと思われます。ともかく、『主義者』であれば、心を許せる相手であったようです。逆に、『主義者』でもなければ、気の置けない時代であったのです。露骨な差別の時代であったのです。そういう『主義者』は、思想要注意人とされ、内務省警保局のブラックリストに掲載されます。

  『近代思想』の廃刊号(1914年1月)に賀川が、当時の思想界の一覧表を作り紹介したのです。無政府主義、社会主義、共産主義、西洋思想にとって信仰の意味などが記載されています。バクーニンはフォイエルバッハの『無神論』の影響を受けています。バクーニンは、幕末に一時来日しています。ロシアで抑留され、亡命する途次でした。トルストイ主義や白樺派の活動も盛んでした。大杉の翻訳でロマン・ロオランの民衆芸術論が盛んに読まれました。民衆詩、『我等』『解放』『改造』も創刊されました。第4階級、即ち労働者階級の文学も興り始めました。賀川の『死線を越えて』も発刊されました。黎明会、新人会も結成され、社会主義者同盟結成大会の後、ロシア革命、中国の5・4運動という世界的潮流の後、1922年に水平社が創立されたのです。大正デモクラシー期の思想、文学、芸術、宗教を吸収して、宣言は書かれたのです。以上、雑駁な話に終始してしまい申し訳ありませんでした。

  次の論考は、宣言の骨子がドイツ表現主義にあったことに論究したものです。西光が文学青年であり、且つ画工であったが故に、エクスプレショニズムつまり表現主義に強く惹きつけられたのです。因みに、下図は美術の諸潮流を表しており、1922年に新興芸術運動の勃興(左半分)が見て取れます。

「水平社宣言」と表現主義

はじめに

  『水平運動發達史』(新潮社、1926)の著者吉井浩存が「藝術的光芒」と称揚した宣言の真髄に触れたいとの思いが、召命のように私を突き動かした。西光の歩んだ精神と思想の世界の足跡を辿って、二年近く小生も巡礼のようにその跡を歩み続けた。昨年の12月のはじめ、奇跡的なセレンディプティが訪れた。それはテレビが世界遺産として、システィーナ礼拝所の祭壇壁画『最後の審判』を映し出し解説を加えていた時であった。その悪霊の如き顔かたちが皮を剥がれた殉教者バルトロマイ(ミケランジェロの自画像と理解されている)と解説された瞬間、宣言の「生々しき皮を剥ぎ取られ…」の一句と雷光のように瞬時に交錯したのである。それは彫琢を極めた宣言の淵源に到達したかのような瞬間であり、長い暗黒のトンネルを突き抜けた一瞬の眩さに似た発見の歓喜が、筆者の内部で一気に込み上げてきた。この皮を剥がれたミケランジェロの「自画像」は自ら新たなに宇宙を創造する苦悩を表出しており、西光が宣言に込めた人間の苦悩の普遍性と永遠性を宣言していたのである。

  更なるセレンディプティは『ドイツ表現主義の芸術』(サントリーミュージアム)展の鑑賞後に訪れた(2003.1.12)。この副題である「20世紀絵画の旗手たち《色とかたちの革命》」の歴史や思想性についての当時の知見を辿っていくと、宣言の放つ思想のスペクトルと共振し始めたのである。それは表現主義の精神的基調を説いた早稲田文学の「『最も若いドイツ』の藝術運動」(後述)の一節に見出された。宣言は表現主義に触発された西光の精神世界の噴出にほかならなかった。

  大正デモクラシーは無数の思想家を輩出したが、西光の思想と美学は宣言に凝縮され形象化された、永遠に。宣言の透過光には、表現主義という大正デモクラシーの不可視の水脈が充溢し、未来への遺産としての価値の再発見につながることを確信している。

水平社宣言の周辺

  島崎藤村の『破戒』は文学作品として定着しているが、それに劣らないのが住井すゑの『橋のない川』であろうか。特に、『橋のない川』は映画化もされ被差別部落や差別の実相を一般大衆に意識させた功績は大きいであろう。しかし、小生のような関係者の視座からは違和感を禁じ得ない「大作」である。この『橋のない川』は徹底して通読を拒否し、一頁否一行さえも没入を拒絶する。それは被差別部落は描かれてはいるものの、部落民が不在という乖離がそうさせるのだが、理由は登場する部落民の発する語彙が部落外の方言に置き換えられていることにある。作者のそうした言葉に無神経な展開に傲慢さが滲み出ていないだろうか。なお、その記念碑的なモノトーンの映画化には多額の費用が費やされたものの、差別映画のレッテルが貼られた。寧ろ、それは原作を反面教師としない当然の帰結であったのかも知れない。

  ところで、2000年の3月には西光万吉没後三十年を閲したが、小著『至高の人西光万吉』を民衆史として上梓した。関係者等からの「民衆史」としての書評以外に、編集工学研究所代表松岡正剛氏の「今週の三冊」にも採り上げられ、「水平運動についての本は数多くあるが、発祥の土地に根付いた記録を再生した本書はまた格別」との率直な好評をいただいた。小生の生きた歴史を遺したいという願いは伝わっていたのである。

  さて、水平社宣言に言及した書物は少ないが、住井すゑと福田雅子女史の対談集『水平社宣言を読む』(1989)は好著であり、小生のものには住井自筆の「自由自在」がサインされている。同書の内容は、取材を生かした福田と住井の説得力ある体験談や歴史観が歯車を噛み合わせるように展開していく。因みに、目次の「第1章被差別部落との出会い」から「第4章文化創造の原点」までの前段で、両人は自らの被差別部落との関わりや聞き取りを語り合う中で、住井の方は『橋のない川』の誕生理由を明らかにしつつ、部落問題を論じている。かつて、阪本膠工場跡に屹立していた煙突の写真も往時を偲ばせて、懐かしさが込み上げる。

  さて、宣言については「第5章水平社宣言を読む1その思想の輝き」と「第6章水平社宣言を読む2いまを照らし出す」の二章にわたって、その解読がなされている。住井の豊富な問題意識や作家としての感性の表出によって、宣言の文言に刷り込まれた歴史や意味が紡ぎ出され、部落問題に関わる多様な認識が照らし出され、語られていく。しかし、西光の全体像を捉えたとは言えず、「画工」的側面や精神形成史それに思想形成史への言及は少ない。

  水平社創立七十周年の時期に出版された、宣言そのものをタイトルとした門田秀夫著『水平社宣言』(1992)は、主に明治以降の歴史や政治史を前段とし、水平社宣言の平易な解読を試みる。しかし、この書でも西光の思想や精神形成の具体的な足跡はほとんど語られていない。

西光と表現主義

  宣言に関する西光の発言がほとんど等閑視されてきた。例えば、「水平社創立の思い出を語る」(『部落問題研究2』1949)のなかで、西光が「キリスト教ばかりでなく、佛教、それから親らん教といいますか、それらのものが未整理のまゝでております。そして一方アナ的なものもあつた。當時はアナーキズムも相當勢力があつたのです」などと、具体的な証言をしていたのである。宣言の透過光をプリズムに照射すると、様々な思想のスペクトルが浮かび上がる。逆にそれらを集光すると、内面の焦点で燃え上がり、読者を奮い立たせるエネルギーを秘匿していたのである。

  水平社結成前夜の西光らの思想動向を伝える『警鐘』誌の理解も重要である。例えば、駒井喜作の論考―実際は西光であろう―「解放と改善」に記載の「インプレツシヨニズム」や「エキスプレシヨニズム」といった表現から、西光らは西欧の芸術運動に対する感覚を研ぎすましていたことが窺える。西光らはこのドイツ表現主義の勃興(1905年)と時期的に重なる『白樺』には全く言及せず、『白樺』もドイツの表現主義に殆ど論究していない。ところが、西光らの関心はカタカナ語の頻用が示すように、大正デモクラシー期の外来思潮、特に新興の芸術運動に向けられていたのである。それは西光が自らの画工的関心との共鳴を見出したからにほかならない。ともかく、従来の宣言理解に、西光の画工としての感性にまで掘り下げた議論はなされたであろうか。

  因みに、「餘りに藝術的光芒に燃えてゐる」宣言には、〈描かれざる絵〉が不可視の溶質として融け込んでいることを示唆している。西光の真骨頂が最高に発揮されたくだりは「ケモノ」から「人間の血は、涸れずにあつた。…」であろう。作家住井はこの一節を「たいへん忿懣やるかたないことがあらわれています。そういう意味では非常に個人的感覚が強い文章ですよ」(『水平社宣言を読む』p194)と、さすがに作家らしい鋭い感性が宣言を穿っている。ここに動的、激語的表現をはじめ、「主観的意思の表現」という共通の特徴を提示した表現主義が垣間見えるであろう。

  このくだりは、西光が自らの差別体験を噴出させた願望と激情の噴出であり、「主観の勇敢な表出」或いは「主観の反応」(「ドイツぶんがく」『世界大百科』)といった感情の解放を意味するシュツゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)運動と通底するものである。このシュトゥルム・ウント・ドラングの表現は西光が好んで頻用したが、それに通底する宣言の激情が「心の状態そのものが絵画の主題」(『20世紀の美術』p14、1991、岩波書店)となるような造形語彙によって表現された表現主義(「エキスプレシヨニズム」)にまで遡及可能であることが洞察される。例えば、表現派の作家コルンフェルトは「混沌が生きよ!出血する心臓が生きよ!人間の魂の歌とどろく感情の叫びよ、ひびきわたれ」(「表現主義」『世界大百科』)と、文学(詩)に表現主義的内面の噴出を流入させたのである。また宣言の文脈の「散文から急に韻文に這入つたり、ただの叙述よりは寧ろ深い嘆きや悲しみやを舒べるといふ」(金子筑水「『最も若いドイツ』の藝術運動」『早稲田文学』1921.2)特徴も、表現主義に触発されたことを窺わせるに十分であろう。

  ところで、表現主義において、「表現は徹底的に自己の内面にかかわるべきもの」であり、「苦悶のそれ以外に考えることはほとんどできない」(『ドイツ表現主義の藝術』p041)ものであった。それは「経済的・社会的破局からくる重苦しい予感を精神と感情によって克服しようと」(「ドイツぶんがく」『世界大百科』)喘ぐドイツ社会を反映していたからに他ならない。なお、表現派に共通の「一種禁欲主義的な、普く衆生の苦悶に最も深い同情を禁じ得ないたぐひの十字架上のキリストを目標とする惱みの氣分が、少なくとも今日までの表現派の藝術に特殊な傾向であつたと言はれる。」(前掲「『最も若いドイツ』の芸術運動」」)。この引用こそ、殉教者像を提示した宣言の「藝術的光芒に燃え」る淵源を照らし出す。

  因みに、表現主義の思想について、次の一節が適切な示唆を与えるであろう(監修・翻訳坂崎乙郎・エルヴィン・ミッチ著『エコン・シーレ画集』1989、リブロポート)。

  「かつてあれほど死の恐怖と不安に苛まれた時代はなかった。あれほど世界が死 の沈黙に領されたこともなかったし、あれほど人間が卑小であったこともなかった。 あれほどよろこびが遠のき、あれほど自由が死に絶えた時代はあるまい。追いつめ られた叫びがあがり、人は魂を尋ね、時代全体が悲痛な絶叫と化したのだ。芸術も また、深い闇に呼びかけ、助けを求め、精神性を追求した。これこそ表現主義に他 ならない。」(ヘルマン・パール『表現主義』1916)

  西光が表現主義に共鳴した理由が読めてくるであろう。こうした「人間の内面の表出、非写実的な表現、幻視的な意識」(マイペディア)といった精神性を基調とした表現主義は、ココシュカらの芸術グループのみならず、ドイツ以外の西欧諸国の芸術家たちにも強烈な影響を与えずにはおかなかった。さらに同時期、その思潮は遠く極東の日本にも飛び火した。ベルリンに留学していた若き音楽家の山田耕筰とアーティストの斉藤佳三はヴァルデンに版画と素描150点を託され、1914年の春に「DER STURM 木版画展覧会」を東京で開催している。尤も、『早稲田文学』等では石井柏亭の「フオーヴィズムとアンチ・ナチユラリズム」という論考も既に紹介されており、その後も単発的だが毎年のように雑誌等のマスメディアに採り上げられた。

  西光は中学生(現畝傍高校)の時から、文学青年として『早稲田文学』『三田文学』の読者でもあった(『解放新聞大阪版』1970年1月15日)。表現主義は画工(二科会)で文学青年の西光の感性を惹きつけずにはおかなかった。西光の宣言観は鮮烈な精神性のあるヴィジョンを一瞬のうちに脳裏に閃かせる表現主義に他ならない。それが水平社宣言である。

  西光の全体像が把握されなければ、宣言の根本的な理解には到達し得ないことは自明である。既に、西光像の問題に入り込んだが、西光が私淑した思想家或いは三浦大我を介した精神形成や思想形成の足跡への言及も必須である。西光の著した論考や発言録を不消化のままでは、歪曲した宣言像を結んでしまい、心血を注いだ宣言を反古にする危険性さえ杞憂とは言えない。

あとがき

  表現主義の国内受容については、1910年代は単発的な紹介に終始していたが、1921年は西欧新興芸術運動の紹介が隆盛を極めた。特に表現主義についてはほぼ毎月次のように美術、文学、戯曲、映画等にわたって評論や論説がマスコミを賑わしたのである。しかし、画家や作家以外の民衆には不可視の水脈であったかも知れない。

  1月には中井宗太郎「自然主義と表現主義」(『制作』第3巻2号)。
  2月には金子筑水「『最も若いドイツ』の藝術運動」(『早稲田文学』第183号)と山岸光宣「表現主義の藝術」(8日『讀賣新聞』)。
  3月には黒田礼二「'スツルム'運動〈伯林通信 蝙蝠日記3」(『解放』第3巻3号)、金子筑水「現今の獨逸思想界の傾向」・山岸光宣「近代獨逸文學の主潮」・柴田勝衛「獨逸新共和國の文藝」(以上中央文學)、なお 1-3月にはランツベルゲル著佐久間政一訳「印象主義と表現主義」(『中央美術』第7巻1-3号)がある。
 4月には片山孤村「新興獨逸文學概觀(表現主義の主張と由来)」・斉藤佳三「美術に於ける表現主義」(いずれも『太陽』第27巻4号)と山岸光宣「獨逸に於ける表現主義の戯曲」(『早稲田文学』第185号)。
  5月には梅澤和軒「表現主義と文人画の復興」(『早稲田文学』第186号)や谷崎潤一郎「最近の傑出映畫『カリガリ博士』を見る」(25,27日『時事新報』)。
  7月には長谷川巳之吉「表現主義の映畫」(『新演藝』)と益田國基・山本有三・新?良三「表現主義論」(『新潮』)。
  8月には「未来派表現派號」(現代美術)。
  9月には成瀬無極「表現主義の戯曲」(『解放』)と茅野蕭々「表現主義に就いて」(『中央美術』第7巻9号)。
  11月には総合雑誌『表現』(二松堂書店)が創刊され、「發刊の辭」の冒頭「獨特なる創造性と、内面的自由と、永遠性の體驗と、これを措いて人間の誇がどこにあらうか。人類獨特の藝術や、思想や信仰もそこに生まれて居る。(以下略)」と、表現主義に触発されたかのような思想を宣揚していたのである。他に立体派関係の評論も二件ばかり確認できる(『現代日本文學大年表・大正篇』)。表現主義については、1921年ほどではないが翌年の22年や23年も雑誌等で単発的な紹介は続いた。

  因みに、ドイツ表現主義の映画『カリガリ博士』が国内で封切られたのは、1921年5月13日、浅草キネマであった。なお、西欧芸術運動の受容については、次のように整理される。