各種部会・研究会の活動内容や部落問題・人権問題に関する最新の調査データ、研究論文などを紹介します。

調査研究

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2004.11.16
部会・研究会活動 <身分制研究会>
 
第úL期国際身分制研究会報告書

国際身分制研究会編
 (A4版・167頁・実費頒価・2003年6月)

部落差別について考える
ー日本中世史研究の視点からー

脇田晴子

はじめに

  なぜ部落差別は現在まで解消されずに残っているのか。また、現在の部落差別の淵源としての日本中世の被差別民は、どのように形成されてきたのであろうか。私は、部落差別は女性差別の淵源と同根であるという立場から、これまで中世被差別民の研究を進めてきた。

  日本中世の被差別民が担ったのは、人間と動物の「生老病死」の世話である。それは人間や動物の存在には不可避的なものであり、もっとも大事なものであった。三不浄といわれる黒不浄(死穢)、赤不浄(生理血穢・産穢)は、生理や出産機能を肉体的にもっている女性と、それを社会的に担わされた被差別民にかかわっており、そこに差別の根源があるのではなかろうか。

 貴賤の差ができて、文化が発展する過程で、人間や動物が必然的にもっている汚穢を忌避する感情が生まれてくる。触穢思想は科学の未発達な段階における一種の「衛生」思想であり、死や出産の血がもたらすものを災厄と感じ取った人びとがそこから逃れようとする一つの手段であった。そして、そこから逃れうる特権をもつ人たちが、逃れえない弱者に転嫁することによって助かろうとするものであった。人間の「生老病死」や「糞尿」などの「汚穢」からは、たとえ貴族や金持ちであっても、逃れえないのは当然であるが、その世話をすることから逃れ、しかもその世話を転嫁した人びとや、転嫁できない肉体をもつ女性を逆に差別し貶めることによって、自己を清浄に維持していると観念するのである(清浄領域をつくる)。そういった意味で、部落差別も女性差別も同根なのである。

 被差別民は、中世社会のなかで形成され、それが近世社会にいたって固定化され、強化されたと考えている。かつては部落差別の政治起源説が唱えられていたが、それは、階級支配にもとづく差別の固定化になるが、それがそのまま起源になるとは考えない。では宗教、地域、職業、人種が差別の起源になりうるかといえば、長い歴史的過程のなかで差別の契機、強化にはなるが、それも起源とはいいがたい。

一 被差別部落形成の諸説
1 部落差別の政治起源説について

 被差別部落形成の諸説として、まず政治起源説を取りあげなければならない。これは階級支配にもとづく政治権力による差別政策が部落差別をつくったとするものである。統一権力による「士農工商穢多非人」の身分支配政策が部落差別をつくったというのである。権力が現実に存在する差別を利用して、支配の道具として利用したことは事実であるが、はたして差別を創出するほど強力なものであろうか。また差別というものが支配者の動向に左右されるほど簡単なものであろうか。

 この見解の第一の問題は、被差別の契機を階級支配に解消してしまい、支配者が押しつけたものという考え方である。しかし、差別というものは支配者・被支配者を問わず存在する。逆にいえば、支配者は被支配者に対しては差別観をもっているものであり、被差別ということでいえば、被支配者である庶民にまで差別されることが被差別のもっとも大きい特徴である。庶民においても何らかの契機で他の人間を差別する。女性差別にしても、庶民クラスの家父長制形成の契機が問われなければならない。したがって、差別の政治起源説といわれるものには、庶民の差別観念がすべて免罪符を得て、被差別民や女性差別の特質が射程に入ってこないのである。

 また、政治的差別論の第二の問題は、それによって今までいわれてきた人種・宗教・職業・地域の起源論は誤りであるというものである。たしかに江戸時代には異民族だといわれてきた人種起源説は事実として誤りであり、日本社会における差別の構造が問題となる。しかしこれは極論すれば、異民族なら差別してよいのかという誤解のもととなる。中世では「唐人」に対する差別もまた存在していたのであり、人種差別を射程に入れ、その異同も論じられなければならない。

 宗教・職業・地域による差別については、それが単純に起源だというのは誤りであるにしても、特定の時期、場合、地域などにおいて差別的状況が出てくるなかで、それぞれの差別が強化される条件となったことは疑いない。差別の起源ではなく結果として、宗教的差別、職業的差別、地域的差別が強化される場合も存在した。そして、その差別の起源や強化の条件は、中世社会の特質のなかに求められなければならない。

2 差別の前代の遺制説

 政治的差別論の第三の問題は、差別は前代の遺制だとする考え方である。たとえば中世の差別は、古代律令国家の職能民把握の奴隷的部分が残存したものであり、近代における部落差別は近世社会からの封建遺制であるとする見解である(林屋辰三郎ほか『部落の歴史と解放運動』部落問題研究所、一九五四年など)。しかしながら、古代は氏族的な共同体に職能的分業体制が組み込まれており、その内部の階層制が顕在化しない。また、雑戸といわれる中国、朝鮮半島からの渡来人が多い職能民に部落民の起源がいわれたが、これは軍事や奢侈品の輸入など最新の専門技術をもつ職能民の特別編成であって、かれらは一般庶民より身分は高く、その上層は国司クラスと婚姻関係を有しており、決して差別されていたとは考えられないのである。

3 中世被差別民の研究史

 さて中世の被差別民については、その差別の中核となるものをめぐってこれまで研究の変遷があった。以下、順に取りあげておきたい。

A 散所説

 まず散所説である。これは中世被差別民研究の先駆けとして林屋辰三郎氏によって取り組まれたものである(林屋辰三郎「散所―その発生と展開」『古代国家の解体』東京大学出版会、一九五五年、「散所―その後の考説」『中世の権力と民衆』創元社、一九七〇年)。荘園領主である公卿・寺社などに隷属し、交通・手工業などの循環機能部分を担当して、身分的従属関係をもつ散所雑色という下級役人が、後に階層分化を遂げて散所非人となるというものである。この循環機能部分を担う散所雑色を中世被差別民の中核に据えて、その周縁に穢多、非人を配置した点に、林屋説の特色がある。林屋説は領主との隷属関係を重視して、重要な職務であるがゆえに強固な隷属関係をもっており、それは古代の雑戸からの遺制であるという図式である。

 しかし、散所という言葉は本来、本所に対する正式でない臨時の場所や人を示し、定員外という言葉であって決して階層や系譜を示すものではない。中世前期の散所雑色は、朝廷が貴族に正式人員として認めた定額の雑色に対置される呼称であり、いわば臨時の雑色という意味あいである。それに対して中世後期にみられる散所非人(散所乞食)は、芸能民である声聞師を本来の「非人」である坂非人と区別して、婉曲的な呼称として使用されたものあり、同じ散所という呼称を使用しているとはいえ、散所雑色と散所非人はまったく別物であると批判したことがある(脇田晴子「散所の成立」『日本中世商業発達史の研究』御茶の水書房、一九六九年、「散所の成立をめぐって」「散所論」『日本中世被差別民の研究』岩波書店、二〇〇二年)。

B 非人説

 その後、中世被差別民の中核としては非人を考えることが主流となる。非人となる起源として、黒田俊雄氏の破片家族説(黒田俊雄『日本中世の国家と宗教』岩波書店、一九七五年、「中世社会論と非人」『部落問題研究』第七四輯、一九八二年)、永原慶二氏の共同体流出民説(「中世社会の展開と被差別身分制」『部落史の研究』前近代篇、部落問題研究所、一九七八年)、黒田日出男氏の重病人説(「史料としての絵巻物と中世身分制」『歴史評論』第三八二号、一九八二年)など諸説がある。たしかに非人には癩病で共同体や家族から放り出されたものが多いが、その子孫は病気でなくとも復帰することができず、非人は世襲化したのであり、以上の説は非人になる契機が何であるかを追究したものといえる。重病、貧乏、破片家族いずれにしても、共同体から没落したか、共同体に加入する資格をもたず、排除されたものという意味ではいずれも共同体からの流出民説になるのではなかろうか。

 とすれば、差別の根源として作用するものは何であろうか。死穢、血穢を忌む触穢思想に注目する横井清氏の説(『中世民衆の生活文化』東京大学出版会、一九七五)、触穢思想を核とした社会構造を問題とする大山喬平氏の説(『日本中世農村史の研究』岩波書店、一九七八年)、また網野善彦氏の種族的な系譜をもつ原始的非農業民に対する差別から生まれたとする説がある(『日本中世の非農業民と天皇』岩波書店、一九八四年、『中世の非人と遊女』明石書店、一九九四年)。

 このように、中世被差別民の中核に非人を据える考え方が主流となり、非人を中心に学説が展開してきているが、やはりそれだけでは不十分であると考える。

C 悪人と非人説

 これまで中世被差別民史の研究が非人を中心に進められてきているのに対して、近世は皮多(穢多)を中心に学説が展開している。こうした研究状況のなかで、中世社会における被差別民を、非人だけではなく穢多といわれた人びととの双方から把握しようとしたのは細川涼一氏である(『中世の身分制と非人』日本エディタースクール出版部、一九九四年)。続いて脇田は、中世社会の被差別民は、これまでの非人説に加えて、穢多との双方を考えるべきであり、なおかつ差別の中核は、仏教の殺生禁断思想によって「悪人」とされた穢多であると考えている(「中世被差別民の生活と社会」『部落の歴史と解放運動』前近代篇、部落問題研究所、一九八五年)。そして、この穢多を中核として、その周縁に同心円的に非人、散所非人(声聞師)が配置され差別の構造が成立していると考えている。これについては村田修三氏も近い考えをもち、支持されている(「中近世移行期大和における賤民制の展開」『部落問題研究』第一一七輯、一九九二年)。

二 中世の基本的支配体制と被差別民のあり方

 では、日本中世の基本的な支配体制と被差別民のあり方はどのように捉えられるであろうか。

 日本中世は荘園公領制社会であるが、その基本的な支配体制は、公家、武家、寺社からなる支配者層(領主層)と、農民、山民、漁民そして商工業者(寄人、神人、供御人、散所雑色などに身分編成される)などの基本的被支配層から構成されている。また中世社会には領主や庶民の経営に包含されている奴隷(所従、下人、家人、奴婢などと呼ばれる)もおり、人身売買もおこなわれていた。かれら奴隷的存在は中世ではおそらく被差別民より地位は低かったと思うが、のちには差別の原因にはならなかった。中世の被差別民は、こうした基本的な支配体制からはじき出され、基本的な被支配身分に認定されなかった人びとであると考えられる。

 中世被差別民のあり方は、大別してまずは没落民である。共同体から貧困、身体障害、癩病などの重病などによって没落し、非人、穢多となった人びとである。『沙石集』に「遁世ト申ハ、世モ捨、世ニモステラレテ、人員ナラヌコソ其姿ニテ候ヘ、世ニ捨テラレテ世ヲ捨ヌハ、只非人也、世ヲスツトモ世ニ捨ラレズハ、遁レタルニアラズ」とあるように、非人とは本人にその意志がないのにもかかわらず、世間から捨てられるという受動的なものである。何のいわれもなく、自分は世を捨てていないのに世に捨てられる人間、これこそが中世の被差別民の姿である。

 次に「化外の民」(王化に浴しない人びと)と呼ばれた一所に定住しない山間部などを漂泊する狩猟民、漁労民や傀儡子などの貢納をしない人びとである。『傀儡子記』に「一畝の田を耕さず、一枝の桑も採まず、故に県官に属かず、皆土民に非ずして、自ら浪人に限し、上は王公を知らず、傍牧宰を怕れず、課役なきをもて、一生の楽と為せり」とあるように、かれらは非農業民であり、耕作地をもたず課役貢納にもとづく権利義務を有していない人びとであった。したがって、庶民は領主に従属して、貢納をして土地所有などの権限を認められ、その奉仕と御恩との関係において村落や都市共同体を形成しているが、その関係からはずれた人びとが差別の対象となったのである。

 逆に中世領主への隷属度の強さから差別が生まれると考える研究者もいるが(三浦圭一『中世民衆生活史の研究』思文閣出版、一九八一年、『日本中世賤民史の研究』部落問題研究所、一九九〇年)、中世初期に体制からはずれて差別されたのち、下級の差別されている仕事に携わらせるために、領主層が「禁裏河原者」「公方河原者」「犬神人」などのように体制内に取込み職掌人化したのではないか。それらは職業(声聞師、庭者など)、地域(河原者、坂者など)、役職(犬神人、清目など)の名で呼ばれた。また、「散所者」などの婉曲的な呼称で呼ばれることもあった。こうした婉曲的な呼称の成立に、差別のメルクマールを求めたい。

 そして、中世後期にいたると社会的分業の発展を前提とし、職掌分担がより明確化し、行刑、斃牛馬処理、皮革産業に携わる河原者(穢多)、葬送、重病人と乞食の管理に従事する坂非人、芸能、寿祝を生業とする散所非人(声聞師)とに分化を遂げるのである。後に営業独占権の問題のところで触れるが、様々な職種集団が営業独占権の行使をして、テリトリー、縄張りを決めるようになる。こうした動きに被差別民も自らの職掌に応じて営業独占権を主張するようになる。その結果、ここに職種の営業独占権の行使が職種の固定化をもたすようようになり、差別が強化されることになるのである。

 以上のように社会体制のなかから没落していった人びと、国家体制の枠外で生活していた狩猟民などが、被差別集団を形成していったと考えている。

三 不浄視・卑賤視の原因―支配階級による輸入思想の展開―

 ところで、被差別の問題は、階級や階層差のみでは解決がつかず、庶民からも差別される存在であるということである。とすれば、その背景に何らかのイデオロギー的なものがあると考えなければならない。不浄視・卑賤視の原因は、基本的には支配階級による輸入思想の展開に求めることができる。以下、三点指摘しておきたい。

A 殺生禁断堕地獄思想

 第一に殺生禁断堕地獄地獄思想である。『塵袋』では殺生を生業とする者を「悪人」と位置づけており、インドの「旃陀羅」(不可触賤民)、中国の「屠児」に当たるものを日本の場合に当てはめて、「穢多」がそれに当たるとしている。そして穢多を悪人の代表として、特に卑賤視し、かれらの悪を抽出することによって、殺生禁断堕地獄思想を強化した。また中世社会ではたえず殺生禁断令が発布され、殺生を生業とするものを罪業の深い者として卑賤視した。

 しかしながらその思想的根源は、殺生への差別というよりも原始・古代の呪術的な動物供犠の宗教を、外道の信仰として、淫祀邪教として弾劾、排斥することであったと考えている。日本固有の信仰にも朝鮮半島からの渡来信仰にも動物供犠による神への祭祀が存在し、仏教渡来以後、それを止めて放生会を行うことをすすめる説話が『日本霊異記』『今昔物語集』などに多くみられる。

B 触穢思想

 第二に触穢思想である。日本古代にはもともと穢れの観念があったが、祓えば清められる程度のものとして認識されおり、死の穢れなどを忌む触穢思想のような不浄観は存在しなかった。七世紀に、百済人の触穢思想による死穢を忌避する風習に人情が薄いと驚いている(『日本書紀』皇極天皇元年五月乙亥日条)。ところが、触穢思想が朝鮮半島を経由して入ってくると、それは直接的、間接的に死穢その他に触れている人間を差別する構造に転化することになった。それは天然痘などの悪疫の流行が、死霊、怨霊のもたらすものと観念されたことからはじまる。疫死による恐怖感が触穢思想を蔓延させることになった。

 たとえば、天皇家の古墳築造や葬送を担っていた土師氏は、葬送のことを司るのは凶事であり、人に嫌がられるとして、天皇の親戚であることを利用して葬送の責務から外してもらっている。そして姓も大江、菅原、秋篠と改め、外交、文書作成、学問などの官僚貴族としての道を歩みはじめる(直木孝次郎「土師氏の研究」『日本古代の氏族と天皇』塙書房、一九六四年)。触穢思想の展開によって、それにかかわる人びとは卑賤視されるようになり、それから逃れられる人は逃れるから、触穢思想にもかかわらず、それに従事して葬送という死穢に携わったのは、非人たちであった。しかもこの世に恨みを残して非業の死を遂げた者は怨霊として悪疫病をまき散らすと観念されていたので、その死体を火葬、埋葬するなどの処理をして清め、鎮魂するのが非人の役割となった。常に穢れにかかわっているから非人と接触すると穢れると考えられたのである。

C 三世思想

 第三に三世思想である。仏教では霊魂は輪廻すると考えられていたため、前世・今生・後世の三世の生まれ方が、因果応報によるものであるという三世思想が普及した。前世で善行を積んだ人が今の世で良い生まれ方をする。金持ちは前世に善行を積んだからで、当時「有徳人」などと呼ばれた。だから非人・重病人・身体障害者は、前世の戒行が悪いことになってしまい、この世でそれを償わなくてはならないという論理になるのである。

 したがって、今の世でなぜ非人とならねばならぬ運命におかれたかというと、前世での悪行を行ったがゆえの応報であり、非人は前世での悪人であり、だから非人は来世に良い生まれ方をするために、法師となって今生で前世の悪を償えば救済されるとされ、救済の対象となった(叡尊、忍性による非人救済が有名である)。しかしながら、実際に前世の悪人を誰もみたものはなく、今生の悪人の代表たる穢多がスケープゴートとしての役割を果たした。

 当時の既成仏教によってこのように考えられていたときに、それらの異端として生まれてきた鎌倉新仏教が、その問題において大きな転回性を示したことは明らかである。たとえば親鸞は「屠沽下類のわれら」といい、日蓮は自らを「旃陀羅の子」と称した。

四 支配思想と三世思想の結びつき

 こうした殺生禁断堕地獄思想や触穢思想、三世思想は、領主支配や所領の拡張を論理化する口実の役割をしばしば果たした。

 殺生禁断、触穢思想を理由に、狩猟・漁労民などをしめ出して、墓所、神領地、寺領と称して土地の囲い込みが行われ、荘園所領が形成された。たとえば、摂関家の藤原氏は、先祖である藤原武智麿の墓所に狩猟・漁労民が住むことを穢れになるという理由で追い出し、墓所を中心に広大な荘園(栄山寺領)を形成した。洛外の下鴨社領は、そこに住んでいた狩猟・漁労民が殺生をして穢れることを、神が忌避するという理由でしめだして、広大な神域を形成した。

 また、寺社は供物や貢納物を高利貸に回していたが、天国に回路を作り、貢納物の未納や債務の未済は神仏物の犯用の罪に当たり、堕地獄の罪になるとした。そのため堕地獄や畜生道、または非人に生まれることを逃れるためには、布施をして救済されねばならなかった。

五 支配体制への被差別民のくりこみ

 被差別民の被差別の理由を、荘園制的支配体制とのかかわりで強固な隷属関係に求める見解があるが(前掲三浦圭一『日本中世賤民史の研究』部落問題研究所、一九九〇年など)、本来、被差別民は被支配者として、支配体制のなかに組み込まれてはいなかった。貢納物を負担する権利義務によって基本的な階層となっている名主や町人などとは異なり、その負担にともなう権利義務がないという点に被差別の理由があった。

 しかしながら、十三世紀(鎌倉中期)ごろから、被差別民を荘園制的支配体制のなかに組み込むことが行われはじめる。社会的分業の発展のなかで専業化が進展すると、専業のものを職掌人として抱える必要性がでてくる(「禁裏河原者」「公方河原者」など)。荘園領主も武力の衰退するなかで新たな軍事力として抱え込む必要性があった(「祇園社犬神人」など)。

 たとえば、声聞師などは、各地を流浪、漂泊していたのがこのころ都市部に出てきて、定着化する傾向にあった。京都の町や周辺の所々に定着していたのを、散在した非人という意味で「散所非人」とか「散所」と呼んだ。朝廷では洛中の検断権を掌握する検非違使庁が統制し、被差別民たちに人夫役などを課していたが、その課役徴収権を執政していた上皇が、寺社に与える場合もあった。「東寺掃除散所」が有名である。寺社も境内、社領に住み着いてくる散所非人(声聞師)たちに居住地を積極的に与え保証し、境内の掃除などをさせて、労働力として利用した。つまり、領主権力が被差別民の統制、支配に乗り出し、被差別民もその動きに応じたのである。

六 社会的なかかわり

 鎌倉末期から室町、戦国期にかけては、農業生産力も向上し、商品経済が農村にも浸透した時期である。もともと土地をもたないがゆえに被差別民となったものでも商品経済の波に乗じて富裕化した場合もあった。一方で農村の階層分化による貧富の差の激しさは頻繁に没落者を生みだし、被差別民を増加させた。十五世紀に瀬戸内海・畿内を旅した朝鮮人使者宋希ûmは『老松堂日本行録』のなかで、富裕な町と村の多さと、巷に溢れる乞食の多さに驚いている。また、土木事業や皮革産業の発展は非人、河原者の増加と一部の富裕化をもたらしたのである。

 律宗を復興した叡尊は、文殊菩薩は非人乞食の姿であらわれて民衆を教化するという話から、「文殊供養」と称して非人を救済し、かつ教化する法会を行い、非人の律宗への組織編成に乗り出した。畿内の富裕化した農村では村落共同体の動きが活発化したが、律宗の影響もあって、死者のための共同体連合の共同墓地である惣墓形成の動きがみられた。そして、それと連動させて、葬送従事者として非人を組織した。また律宗は寺社築造はもちろん、道路、橋、港など交通手段築造事業の請負者として活躍し、その労働力として非人集団を活用した。律宗は非人を救済の対象、土木事業への動員、惣墓の葬送への従事とうまく連関させて組織化することに成功する。

 また鎌倉末期からの町や村の共同体組織の強化、活性化は、その結節点である神社祭礼が盛大化した時期でもある。その神事芸能が娯楽的要素を帯び、商業演劇へと転化する時期でもあった。その担い手である声聞師芸能から能楽、狂言などの伝統芸能がでて、素朴なお祓い的な呪術である傀儡子が人形操りになり、演劇性を高めることになる。

 そのほか、被差別民の従事する生業としては、寝藍、飛脚、鋳物師、土器師などがあったが、これらは必ずしも被差別民のみの職業とは限らなかった。

七 共同体組織の強化―集団帰属性と差別―

 ここでは共同体における集団帰属性が、成員の平等的特権意識と、その反動としての他に対する差別意識をいかに強化しているかを述べておきたい。中世の共同体は一般的に「座」といわれる場合が多い。「座」とは、たとえば禁中で公事のとき、公卿が列座して「陣定」の評定を行った席を「陣座」と呼んだように、成員の座席の意味から発して、そこを占取する人びとの特権の象徴にもなった。すなわち座席を示す「座」がそこに座りうる人びとの特権を示す言葉となり、中世の支配、被支配の階級を問わず、一般には成員として平等な権限を有する人びとの特権集団の共同体を示す言葉となったのである。寺社の評定の組織(東寺の廿一口供僧方など)や武士団の党・一揆などのように共同体をつくりあげ、被差別民もそれらを模倣して共同体組織を形成していた(清水坂惣中、郡中惣皮多など)。

 中世社会の特質は、特権的平等性の共同体が階層的に存在していることである。もちろん中世は、縦系列の封建的主従関係を機軸として成立している封建社会である。しかしながら、差別意識の形成という点からみれば、支配階層における差別意識は当然のことながら存在するのである。中世後期における被支配階層の差別意識の成立、強化を問題にするには各階層の共同体の権利、内部組織のちがいなどが重要な問題として浮かび上がってくるので、以下述べておきたい。

A 被差別民の共同体と平民の共同体

 まず中世の被差別民の共同体と、平民の共同体との関連についてみておきたい。いうまでもなく差別の問題は、平民共同体の構造と深く関わっているからである。中世初期から農民も商工業者も、領主に対する何らかの奉仕義務とその見返りとしての特権をもつ者たちが、地縁的な地主神などを結節点とする「宮座」などの共同体を結成していた。それは入座年齢順構成の長老が執行する平等な体制をとっていた。被差別民の共同体も鎌倉中期ごろから領主との隷属関係をもつことから、領主関係の史料にあらわれてくるが、その平民共同体との差異は、「惣衆」といわれる上部は平民共同体と同様な平等構成をもつが、非人共同体はその下層に大勢の乞食集団を管理、統制している点が異なる。

B 職種別結合の座と被差別民

 鎌倉後期ごろからの商品経済の盛行は、商工業者の職種別結合の座を結成させることになる。ある地域のなかで、それぞれの領主に従属していた商工業者が、領主支配をこえて、営業上の理由から職種ごとに結合しはじめるのである。そして、その職種、商品種に応じて、やがては営業独占権を主張しだすが、その営業独占権の行使によって座外の人間は営業できないから、ますます職種別結合は強くなるのである。被差別民のなかでも、営業独占権の行使をめぐって熾烈な闘争が繰りひろげられている。たとえば清水坂非人は、正平七年(一三五三)に葬礼具や輿などの押収の権利を主張して、葬送の独占を要求しているし、また応安四年(一三七一)には、戦死者の死体処理権をめぐり河原者との間に闘争を起こしている。以上のように営業独占権の行使は職種の固定化を招くことになり、特権は認められるが、かえってそれが職業的差別の強化につながることになるのである。

C 地域差別の強化

 戦国期になると村落や都市の共同体は上部組織の連合体を形成する。たとえば、京都の下京は六十余町が五町組に分かれて連合して、下京の回りは土塁と堀による市壁ともいうべき「構え」を作った。被差別民はその内部から除外されて、その周辺の外部に居住した。集落の周りに環濠をつくり戦乱に備えたが、その環濠のなかへは被差別民は入れなかったのである。自治都市の形成や環濠による地域の確定は、排除した被差別民の集住地の地域的差別を強化することとなった。

D 平民共同体の権利の強化と差別

 中世後期には、都市、村落の地縁的共同体の自治権が強化され、畿内では自治村落(惣村)、自治都市として貢納物を地域領主に請負い、その見返りとして自検断権を獲得するところが多かった。幕府への直接の提訴権も村や町でもった。村掟や町中式目がつくられ、幕府裁判もそれに準拠して行われた。したがって、領主が行刑、検断に使役していた河原者は自治の村や町の執政者に使役されるようになり、村人や町人の地位の上昇は逆に被差別民の地位の低下と映るようになるのである。たとえば、石清水八幡宮の門前町として発達した八幡町の場合、ここでは八幡四郷の自治都市を形成し、「邑老」が町政を執行し、自検断権をもっていた。文明十八年(一四八六)、犯罪者の処罰として住宅を破却するのに、「邑老」は「両平田並びに四島河原者」を引き連れて行き、壊させている。八幡宮司が行政権をもっていたときは、宮司の指揮下に使役されていた河原者も「邑老」のもとで使役されるようになるのである。

 以上のような各階層ごとの共同体連合の成立は、それぞれの集団帰属性による差別を明確化し、統一権力における兵農分離政策による「士農工商穢多非人」という身分の固定化、世襲化の条件を在地の側で準備したといえる。

八 解放と差別の強化

 最後に被差別民の身分解放(脱賤化)と差別の強化の問題について触れておきたい。鎌倉後期以降、都市や村落の共同体連合の成立によって差別の強化は進展したが、それは徐々に進行していったため、当初は個々の被差別民の上昇転化の機会が存在した。すなわち被差別民のなかで階層分化がおこり、富裕な人びとが脱賤化するのである。中世初期では曖昧で広く存在した差別が、中世後期にいたり権利をめぐって凝縮化するのである。

A 個々の上昇転化

 『看聞日記』によれば、十五世紀、京中の米商人の連合組織が米相場のつり上げをはかり、飢饉が起こった。その悪徳米商人の張本人六人のうち一人は元乞食の門次郎という男であった。元乞食が米商人の座組織に入っているということは、洛中の町にも店舗を構えていたことを意味しており、れっきとした「町人」であったことを意味する。京中の町々は自治権が強く、家屋売買価の十分の一を町共同体に納入すれば町共同体に加入を許されたので、お金さえあれば町人としての上昇転化は充分可能であったと思われる。そのほか、村落などで浪人を招き寄せて開発するなどの例からみて、個々の人びとの上昇転化は相当あったのではないか。

B 集団としての脱賤化

 個々の上昇転化の場合と比較して、集団がそのまま脱賎化する例は、わずかに猿楽能のうち大和四座と、穴太積みの石工集団の場合だけである。観阿弥・世阿弥父子に対する足利義満の寵愛から武家の保護を得た猿楽能はその地位が上昇し脱賤化を果たした。また、近江比叡山麓の穴太散所からでた石工集団も同様に、穴太積みといわれる石垣の築造に名を得ていた。戦国末期の織田からはじまる統一権力の築城の石垣造りに重用され、統一権力や麾下の大名に召し抱えられた者は「穴太者」として士分格となり、身分上昇を遂げたのである。

 このように中世社会のなかで被差別民には脱賤化への道が存在していた。しかしながら、それが統一権力による近世社会が成立してくると、身分の固定化がおこるのである。それは中世社会のなかで醸成されてきた被差別民階層の形成、差別観などの政治的な固定化現象といえる。近世の被差別民は、とりわけ徳川幕藩権力による「士農工商穢多非人」という身分政策によって固定されたものである。さらに近世後期以降になると、触穢思想が都市から農村へ、支配者階層から庶民階層まで浸透していき、社会的差別が強くなっていくのである。そして、こうした動きは女性差別の場合とも連動しているのである。