結婚差別"以前の問題"として今日的な差別状況について触れる必要がある。大阪府2005年調査でも、人柄以外で望む結婚相手の条件についてたずねているが、同和地区出身であるかは意外と少ない。しかし、少ないととらえていいのかどうか。
部落出身だから迷う・反対する中身とは、しんどい生活へのおそれと差別されることへのおそれと2つあったのではないか。残念ながら、同和教育の効果として、部落には貧しい人が多いという思い込みがある。とはいえ、貧困が部落になくなったわけではない。そのあたりをどう伝えるのかは難しい。
条件付き「許可」の意味について考察する必要がある。部落というレッテルを結婚する当事者は気にしていなくても、親戚的には実質的な意味がある。例えば、「親戚には言うな」「部落に住むな」「運動をするな」という条件がそうである。
また、受けとめる側の姿勢も多様である。例えば、大阪と滋賀では違う。大阪は2/3が部落外の人と結婚している。結婚の際に差別にあうなど、嫌な思いをしている人の数は変わっていないが、若い人から見ると、乗り越え可能だということが見えている。滋賀はそれ以前の状況であり、地縁・血縁が強い。親戚を気にしないでいいのかどうかという問題があり、助けあって当たり前という期待がある。
私は、「自分」「身内」「親戚」の3層構造として問題をとらえる必要があると考えている。市民意識調査結果でも、「自分の結婚相手が」と「自分のお子さんが」では傾向が異なる。自分の身内のこととしての判断と、自分の親戚としての判断も異なる。また、勤め人家庭と自営業の違いもある。勤め人の場合、親戚を考えなくてもよい。しかし、自営業(家族が企業性を持つ)の場合は、家族に迎え入れることは、将来の重役候補という意味を持つ。このような部落を気にする人でも納得できるような教材が求められている。
結婚差別を教える前に、結婚・大人としての生活設計を考えることも必要である。結婚についてはじめて考えるのが結婚差別の問題では不十分である。ジェンダーの視点から、男にとっても男女差別はよいことではないことを強調すべきである。社会主義的な正義感の弱化もある。不平等は許せない、という感覚が薄れ、自由の方が強くなっている。女性にとっての仕事・ライフコースについて、仕事を持ち続けられる、が望ましいとする。一方で、「というふうに言うべきではない」という思考方法もある。売春の問題における、「売春は自由だ」という主張につながる。買いたくもない、売りたくもない、しかし、そうしたい人に対して止めることはできない、という社会観である。このような社会観の中で、どのような教材を作ることが求められているのか、検討する必要がある。
結婚差別を題材とした教材のあらすじは、一つの事例だけでは難しい。迷った青年が、いくつかの先輩に聞き取りをするような遍歴的な物語が必要だろう。
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