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2007.02.26
部会・研究会活動 <「戦後の部落解放運史研究」プロジェクト>
 
「戦後の部落解放運史研究」プロジェクト報告
2006年11月27
同和奉公会について
―植民地帝国日本のアジア太平洋戦争と部落問題

廣岡 浄進(大阪大学大学院博士後期課程)

部落史研究では、アジア太平洋戦争期についての解明がたちおくれてきた。そのおおきな理由は、1941年12月に公布施行された言論出版集会結社等臨時取締法により、1942年1月に全国水平社(以下、全水と略す)が法的に消滅したことによるだろう。これよりさきに中央融和事業協会(以下、中融と略す)を改組するかたちで発足していた同和奉公会が、全国の地方融和団体を系列化し、敗戦にいたるまで唯一部落問題解決を掲げる翼賛団体として活動する。

同和奉公会については、秋定嘉和の課題提起があるが、まとまった専論はない。先行研究のなかで同和奉公会の事業を詳述しているのは、藤野豊による概説『同和政策の歴史』である。藤野によれば、資源調整事業としてとりくまれた満洲移民奨励が所期の成果をあげえないなかで、戦時動員の大枠が国内労働力の不足と再配置に重点を移すという情勢変化を受けて、部落産業再編成がとりくまれていく。しかし、水平運動関係者の期待を受けつつ計画は立てられても、予算不足のために遂行されなくなっていき、部落の生活は圧迫されつづけたまま、ファシズム動員だけが求められていくという。

本報告は、同和奉公会のなかで、部落民の動員をめぐってどのような議論がなされていたのかを、主として現場からの発言や実践に注目して検討する。翼賛の言説を駆使しながら部落解放運動の指導者たちはなにを問題にし、どのような展望を有していたのだろうか。

第一に、「融和新体制」をめぐる地方融和団体の動向を、中融機関紙『融和時報』(同和奉公会に改組後『同和国民運動』と改題)から明らかにした。愛媛県では、緊張をはらみながらも融和団体たる愛媛県善隣会が、水平社関係者とともに大和報国運動への流れをつくっている。松本治一郎ら全水総本部派の路線には、具体的な支持基盤があったといえる。このように水融合体が既定路線とみなされるなかで、融和運動をふくむ部落解放運動におけるイデオロギー上の分岐点は、「国策」の確立を要求するそれまでの水平運動と融和運動に共通するスタイルにたいして、問題を運動の側に設定する皇民運動の主張をめぐるものだった。1940年の紀元二千六百年奉祝全国融和団体連合大会の混乱が、そのことを示している。同和奉公会とは、この分裂を放置したまま、上からの統合を行なった翼賛団体だった。

第二に、部落厚生皇民運動の地域実践体である京都市厚生報国会を、『京都の部落史』所収史料から検討した。これまで住宅改良をめざす動きについては師岡佑行、前川修の研究があるが、朝田善之助ら皇民運動派は、それとともに、部落の「反社会性」を問題にし、部落形態解消を主張している。部落の生活改善を共同体を基盤にすすめるために、自己革新のなされた高次の日本帝国国民たる皇民としての主体化をもとめたのである。つまり、部落の産業経済の再編成は「高度国防国家建設」のなかでなしとげられると考えられたのである。なお、部落形態解消論の立場から書かれた『同和国民運動』紙上論説は、資源調整事業による移民や転住を批判している。そこには、京都市内の部落ではすでに朝鮮人流入をふくめて流動が激しくなっていた実態も反映していると思われる。

第三に、同和奉公会の2回の中央協議会会議録(1941年11月、1942年12月)から、運動指導者たちの論理を検討した。部落解放運動は「大東亜共栄圏」の人種主義を感知していたからこそ、そこで起きている差別の実態を批判しつつも、皇国臣民として差別撤廃国策を要求していく。総動員による労働力再配置は、就労機会の拡大の機会であったが、かえって自己規律化のおよんでいない部落労働者を層として焦点化していく。生産力にカウントできないという疑惑のかけられた部落民には、不断にその「国家意識」が査問されていったのである。徴兵徴用忌避や統制違反の事例を、官憲側は水平運動との関連を予見してとりあげている。このために運動はよりいっそう皇民化を呼びかけざるをえなくなる。

なお、本報告は拙稿「アジア太平洋戦争下の被差別部落における皇民化運動――同和奉公会についての寸描」黒川みどり、阿部安成編『(仮)隔離と囲い込み』(都市下層と部落問題研究会(úK)論文集)部落解放・人権研究所、2007年刊行予定としてまとめた。ご参照いただければ幸いである。

(文責:廣岡浄進)