近世から近代への移行期の「釜ヶ崎」史研究が必要とされる理由は、大阪における近代都市計画事業の作為性、被差別民の歴史的系譜、「下層社会」の共通性と固有性、これらを明らかにすることにある。
これまでも、1903年に行われた第5回内国勧業博覧会による住民移転などを「釜ヶ崎」形成の契機と見る「釜ヶ崎」形成史研究の蓄積はあるが、近世から近代への移行期に焦点を当てた本格的論究は見られない。
すなわち、近世における非人村・墓所(隠坊)・刑場との関係は捨象されているのである。また、長町(名護町)の移転による「釜ヶ崎」形成へと直結することには限界があり、「都市下層社会」を重層的にとらえる視点、「釜ヶ崎」史と都市下層社会史を接合させる必要がある。
資料の検討から、<1>近世身分制・非人村(鳶田垣内)の解体・再編によって近代地域社会が形成されたこと、<2>当該地域社会を前提とした「市区改正」により、郡部と市域を接続する都市機能的な関係として下層社会が創出されたこと、<3>木賃宿など、経営資本の市場参入のよって活性化する、労働力を受け入れる条件が整備され、都市の膨張による本格的な都市計画事業を打ち出していく基盤を用意したこと、が明らかとなった。
このように、維新期における鳶田垣内の解体と歴史性に規定された地域社会が、「釜ヶ崎」創出の起点となった。すなわち、維新変革期の身分的、地域的な再編過程こそが「釜ヶ崎」形成史を大きく規定しているのである。
(フィールドワーク)
研究会終了後、大阪人権博物館を出発し、旧渡辺村-紀州街道-釜ヶ崎-飛田遊郭発祥の地を巡るフィールドワークを行った。
(内田 龍史)