調査研究

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2005.05.16
部会・研究会活動 <都市下層と部落問題研究会>
 
都市下層と部落問題研究会・学習会報告
2005年3月26日
(1)「近世の大道芸−江戸を中心に」

中尾健次(大阪教育大学)

(2)「遊廓と差別」

今西一(小樽商科大学)

<第一報告>

 本報告では、江戸を中心に、近世の大道芸のありようを見直してみたい。

 大道芸と歌舞伎は、2つの意味で密接に関わっていた。第一に、近世初期の歌舞伎は、中世の大道芸の根っこを残しながら演じられていたということ。第二に、大道芸として物まねをしていた「非人」がおり、彼らは歌舞伎役者の物まねをしていた。これらの芸により、庶民は歌舞伎に興味を持つこととなり、歌舞伎文化の底上げの役割を担っていた。

 大道芸を生業としていた身分として「乞胸」がある。乞胸の起源は、町民身分の者が寺社境内や空き地で草芝居・狂言などを演じていたところ、車善七が非人の家業を奪うことになるので差し止めるように町奉行に訴え、妥協が図られた結果、家業のみ車善七の支配を受けることとなったことに始まる。身分は町人であるが、家業のみ賤民という半賤民的な身分となった。

 乞胸身分の者に対しては鑑札が発行されており、そのことが乞胸であることの証明だった。綾取・猿若・辻放下・浄瑠璃・物真似・物讀・江戸万歳・操り・説教・仕方能・講釈・辻乞胸などの芸を担っていた。

 以降、同じような芸で生活する人が登場する。例えば「香具師」である。また、鞍馬寺から鑑札をもらった「願人」という身分もある。これらの身分と乞胸の仕事が競合したことが資料に残っている。

<第二報告>

 21世紀に入り、グローバル化・「性の植民地」化・人身売買・性の「商品化」・性暴力が増大している。このような現状を踏まえて、遊廓と差別について考えたい。

 江戸期の廓は城砦の様相を呈していた。その理由は、第一に、揚屋・遊女屋には牢人が多く、成立間もない幕府にとって政治的にも治安の上でも懸念すべき対象であったこと。第二に、近世初頭の遊女は芸能者であり、女性芸能の禁圧の対象となったのである。また、歌舞伎・穢多身分の居住地とともに悪所を形成していた。さらにそこには、歌舞伎と密接な関係にある男娼も存在した。

 ヨーロッパ人の遊廓像を見てみると、年期を終えた遊女は咎められることなく社会に迎え入れられていることに驚きを持っている。また、ヨーロッパ人との関係では、遊女との間に生まれた混血児の問題がある。丸山遊廓には「日本行き」「唐人行き」「オランダ行き」の遊廓があった。しかし、穢多・非人は遊女屋にあがることを禁止されており、「華夷」と身分制の秩序は貫徹していた。

 維新期に、当初は遊女屋や遊女の反対があったが、日本で黴毒になる外国人兵士を守るために定期検黴が行われはじめた。こうした検査により「遊女」=「売春婦」=「黴毒」というイメージが形成された。

 明治維新後、賤民解放令だけでなく、奄美の「膝・下人・下女」といった奴隷身分の解放や、娼妓の解放がなされる。これらは、世界的な奴隷解放の時期と重なっており、こうした側面から解放令について考察する必要がある。

(文責:内田龍史)