〈第1報告〉
「癩文学」は、不治の病としてとらえられていた文学をさす。身体が崩れる、関係性が絶たれるなどの苦悩が共感を生む。「ハンセン病文学」は、治療薬であるプロミン発見後の文学をさす。治ることが目に見えていることから、作品としてのテンションが異なる。
もともと文学は療養所の中の時間つぶしとしてはじめられた。喜び・悲しみ・悔しさなど、表現したい対象を言葉として表現していった。文学を指導したのは医官たちであった。患者の肉体部分は助けられなくても、精神部分を純粋に救いたいという思いがあった。しかし、歴史的には間違いを侵し、隔離を強めていった。このことをどう評価すべきかはむずかしい。
よかった、と評価されている文学は戦前のものである。ハンセン病児童文学などの話を市民向けに行うと、共感を呼ぶ力はすごい。共感はしてもらいたいし、知ってもらいたい。しかし、一つの方向に流れていく可能性もある。物語の作られ方、渡し方によっては、ほんとうの意味での療養所を伝えることにはならないのかもしれない。この力をどのように扱うのか、迷っている。
〈第2報告〉
黒川温泉宿泊拒否事件などの教訓として、よりいっそうの啓発がもとめられる、という言説が数多く見られる。つまり、「遺伝しない・治る・伝染しにくい」という正しい知識を啓発するということである。しかし、予防法制定時に我々は正しい知識を獲得していたはずであり、正しい知識が意味がないかのような状況をどのように理解すべきか。「正しい知識」だけでは有効ではないのでは、という思いを強くしている。
『歴史評論』656号の特集は、従来の学会誌のスタイルとかなり異なり、病を取りあげており、さらに病に伴う隔離という問題が明確になっている。『歴史評論』656号の問題設定は「救らいの歴史」(第一ステージ)から「隔離政策によって蹂躙された人権の歴史」(第二ステージ)への転換を図っている。そこでは「熱い報道」(善悪二元論)が研究業績を凌駕しているように見える。歴史学は、「熱い報道」ではなく、「「歴史」を冷静に見つめ直す」ことが必要であり、その次のステージを展望すべきではなかろうか。