本報告は、食生活史の観点から、江戸時代からの外食文化を持ち、いち早く欧米文化との接点となった東京・横浜地域を対象に、・幕末から文明開花期の諸形態と相互関係、・新聞、戯作などにみる庶民の肉食観―肉食受容の論理を検討することで、牛鍋が他の肉食形態に支えられながら文明開化の象徴となることに、日本近代における肉食の性格を求める。
江戸期における肉食は、薬食(くすりぐい)というタテマエのもとに多様な肉が食されていた。文明開花期の牛鍋料理とその食され方は、牛肉という新しい食材を使っている以外は、薬食に見られたような鍋料理であり、まったくの在来型であった。牛鍋屋の客層は庶民であったが、欧米食文化の純粋なかたちである西洋料理店は、庶民には敷居が高いものであった。また、天皇は文明開化のシンボルであることから、牛肉を食べることを最も要請された。他方、下層民の牛肉食としては辻売の煮込があったが、これらは開化イメージとは無縁であり、否定的なイメージで描かれている。
牛鍋は文明開化の象徴とされており、西洋イメージと結びついていた。また、肉食奨励の理由として滋養があげられていた。加えて牛肉は美味という評価がされる。このような論理で肉食が受容されていった。
牛肉食は、前近代の多種多様な獣肉消費からただ牛肉のみに限っていく過程でもあった。また、西洋料理>牛鍋>辻売の煮込という序列は、辻売の煮込が下層民の食イメージを引き継いだ可能性があり、都市の中で形成された貧民への蔑視につながる。
(文責:内田 龍史)