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2007.05.29
書 評
 
今西  一

秋定嘉和

(解放出版社、2006年9月、A5判・429頁、6000円+税)

  歴史は、常に「神話」を必要とする。それは、時には革命であったり、人民の英雄であったり、前衛党であったりする。しかし、その戦後歴史学の主流が創ってきた「前衛党」神話に対して、最も果敢な批判を展開してきたのが、松尾尊兊氏をはじめ秋定嘉和氏や岩村登志夫(福本茂雄)・田中真人氏ら、井上清・渡部徹氏らを中心とした京都大学人文科学研究所の社会運動史研究グループであった。評者らが、1970年代に社会運動史の研究を始めた時、最も大きな影響を受けた研究潮流のひとつである。

  秋定氏の議論の特徴は、岩村氏らとともに、社会民主主義の「左派」への高い歴史的評価にある。それを水平運動・融和運動史に適用したのが本書である。本書の簡単な内容紹介をして、評者の若干の感想を述べたい。

一 本書の内容

  まず秋定氏は序章で、融和主義を批判してきた講座派の人びとが、「国民的融合論」がでてからは、改良主義への高い評価に転向しながら、全国水平社青年同盟など左派の評価を一貫して変えていないことに疑問を呈する。次いで第一部第一章では、佐野学、堺利彦、山川均、櫛田民蔵ら社会主義者と運動関係諸紙誌の部落問題観が分析され、「身分闘争のもつ意義は、社会法則的理解と革命による解決論で否定され」(51頁)、身分闘争は階級闘争に従属させられて論じられていたとする。高橋貞樹もまた、部落民衆が「近代プロレタリア意識への転化を考える」べきだとする「近代主義的な偏向」を免れなかったとする(61頁)。

  これに対して、西光万吉、阪本清一郎らの宗教的、「人間主義」的な主張が対比され、アナ派の平野小剣の身分闘争第一主義の役割が強調される。階級闘争を主調し、無産大衆運動への水平社の「解消」を説く日本共産党や全水青年同盟などに対して、九州水平社のように、「階級闘争を提起するとすれば」、「これまで闘ってきた身分闘争を通じて行うべきであり、糺弾闘争を、部落民と無産大衆との「人間」的回復・階級意識への思想教育の契機とすべき」という主張が存在したことを紹介する。残念ながら水平社中央は、「社会主義運動の影響を直接に受け、この方向を見失った」(67頁)。

  同第二章では、1920年代の水平運動内部のアナ派・ボル派対立が分析され、運動対立は「当時の水平運動を堅持した松本治一郎を中心とした九州水平社や旧幹部派、実際的なアナ派らの大局的立場によるところが大きく」、そうした「視点での水平運動史は可能であろう」と提言する(九九頁)。

  同第三章では、1930年代の水平運動と農民との関係が究明され、従来の全水解消論から部落委員会活動への転換を、「32年テーゼ」による革命戦略の変化(封建制重視)や高松差別裁判闘争による闘争の再重視からだけ説く議論を不十分だとする(140頁)。むしろ「戦前最高の融和予算」を勝ち取っていった「改善費重視への転回」を、地域の運動のなかで強調する。第四章では、この「改善費闘争」への転換を、ボル派の戦術転換とする研究が多かったなかで、「社民派・中央派」を基軸に考えている(197頁)。この他、第一部では、「補論」として、「福本イズム」と「水平社解消論」、「身分闘争に関するテーゼ草案」にも言及する。

  第二部第一章は、「1916~1922年の部落改善費に関するノート」で、水平社創立以前には融和予算は僅少であったが、米騒動を契機に増大していくことを、数量的に確認している。同第二章の「同愛会の思想」では、有馬頼寧らの運動を「大正デモクラシー的思想と行動の洗礼」を受けたものと評価し、「合法的無産運動支持という立場から当時の弾圧諸立法には反対して」いたことを高く評価する(264頁)。

  しかし、同第三章で「中央融和事業協会の思想」が分析され、その「ブルジョア改良的性格」が強調される。そして恐慌下の部落民衆の「ルンペン化」の危機のなかで、「融和事業完成十カ年計画」が登場し、水平社もこの「計画」に参入せざるをえなくなっていった。同第四章では、具体的に1930年代の京都における「都市部落」の状態と融和事業が紹介されている。そこでの膨大な未熟練労働者の存在、低賃金が「家族ぐるみの労働形態」によってカバーされている就業形態、生活環境の悪条件や健康上の諸障害などが指摘されている。

  同第五章の「戦時下における融和思想の転回」では、1935年から37年にかけて、「十カ年計画」の無視がおこり、時代をおおった「転向」理論が、水・融双方の指導理念の転換と変質を迫ったことが指摘される。同第六章では、水・融の合体である「同和奉公会」をめぐる研究史が整理されている。

二 若干の感想

  本書は、確かに講座派マルクス主義的な運動史から自立した水平運動史を描こうとする、秋定氏の努力が伝わってくる労作である。1960・70年代に、講座派や日本共産党を批判しながら運動史を研究することが、いかに困難であったかは、今日の若い研究者には理解できないかもしれない。学問的な対立が、党派的・人間的な対立に結びついていた時代である。まして融和団体の「ブルジョア民主主義」的な性格を評価することには、大変な勇気がいった。

  秋定氏も指摘しているように、「国民的融合論」は、部落問題研究者の間に、大きな混乱を持ち込んだ。部落問題研究所の研究者集会でさえ、「国民的融合論」に反対する報告があった。秋定氏が評価する鈴木良氏の近著も、燕会における三浦大我ら真宗の教団改革派の影響を高く評価する実証と、理論的に部落差別の原因を封建遺制による、「ブルジョア・地主」の地域支配におく議論が、奇妙なねじれ現象を起こしている(拙稿「書評鈴木良著『水平運動の研究』」『歴史評論』近刊掲載予定)。

  「新しい酒を古い革袋に盛るな」というのは、『新約聖書』のなかの有名な戒めであるが、日本共産党も、政策的には限りなく社会民主主義に変貌してゆきながら、組織論ではレーニン主義を守るという矛盾を、今日でも克服できないでいる。これは日本の旧講座派「左翼」に共通する最大の弱点であり、鈴木氏の思考は、旧講座派知識人の典型とも言える。

  しかし、秋定氏の議論にも、評者は若干の疑問がある。まずボル派(共産主義)に対する水平社の「人間主義」とは、何であったのだろうか。前掲書評にも書いたが、今日の真宗史では、西光万吉らの親鸞教学を、「教団改革の一大潮流」として評価する議論もあらわれている(毛利悠「近代真宗教学史の概観」[信楽俊麿編『近代真宗思想史研究』法蔵館、1988年])。しかし部落史の側では、このような宗教史の研究との対話が、ほとんどなされていない。親鸞主義からアナキズム、有馬頼寧の思想まで「人間主義」でくくるのは、いささか乱暴な議論であって、その内容の定義や時期区分が必要なのではないだろうか。

  有馬や同愛会の思想を見る場合でも、後年有馬は、ポルトガル革命やロシア革命、さらにフランス革命や「大逆事件」などに脅威を感じて、「華族として皇室を擁護しなければならぬという責任から、日本の改革を痛感し、身を以て社会運動に投ずるに至った」と回顧している(『七十年の回顧』創元社、1953年、146頁)。このように国体=天皇制の危機とその擁護が彼を動かし、渋沢栄一や西園寺公望らも同愛会を支援していった。彼らブルジョア自由主義者の役割を、かつてのように単純な支配層論で描くことには反対であるが、彼らが天皇制を含めて、どのように近代日本を改造しようと考えていたかについては、永井和氏をはじめ優れた政治史の研究がでている(『青年君主昭和天皇と元老西園寺』京都大学学術出版会、2003年)。最近の近代政治史の成果ともすり合わせていくことが重要だと考える。

  有馬は、近衛文麿新体制を支えて、大政翼賛会をつくっていくが、このファシズム体制と部落の問題も、秋定氏が指摘するように重要である。評者が1970年代に、農民運動や水平運動の地域リーダーの聞き取りを行った時にも、自分たちは小作争議-自作農創設維持事業-満州移民-農地改革と、いつも地域住民の生活向上のために一所懸命に運動してきたのだと、誇らしげに語る人によく出合った。「転向」などというものは知識人の世界の話で、われわれ庶民には関係ないのだと言っていた。これが農民的な「現実主義」かと思うこともあるが、このような過去の「語られ方」には、やはり戦時体制を支え、アジア侵略に手を貸した過去を合理化したいという気持ちが働いていたのではないかと思う。

  全国農民組合全国会議派のリーダーの一人羽原正一にしても、戦時体制下で、「耕作権の確立」や「小作料金納化」のスローガンに共鳴して中野正剛らの東方会に参加している(岩村登志夫「戦時下の農民運動」『地域史研究』第18号、1979年)。羽原や三重県水平社の上田音市らの話を聞いても、関西の全農全会派は、関東の同組織と比べても、かなり理念よりも「現実主義」的な対応が強いと感じた。

  最近の農民運動史では、西田美昭氏のように、1925年から90年代初頭までの西山光一『日記』を分析して、小作争議から高度経済成長下での農民意識の変貌を追跡する研究が行われている(『20世紀日本の農民と農村』東京大学出版会、2006年)。今後、部落史でもこのような長いスパンの民衆意識の変化を追究するなかでのファシズム研究が行われることを期待する。

  最後に、今日では、水平運動が社会民主主義者を指導部とする、一般民主主義を目指す体制内改良運動であったことは、むしろ常識化してきている。それだけに、社会民主主義の内容の再検討が必要になってきている。近年、日本の社会民主主義研究では、「日本社会党は、なぜ「西欧型」社会民主主義に転換できないまま、その歴史を閉じるようになったのか」といった設問が、よくなされる(米原謙「日本型社会民主主義の思想」[山口二郎ほか『日本社会党』日本経済評論社、2003年])。

  だが元外交官の佐藤優氏が語るように、「西欧の社会民主主義は、政府による直接給付という形で所得の再分配を担保した。この形をとる政府、具体的には官僚が、国民ひとりひとりの所得や家計の状態を正確に把握していないとならない。(略)従って、社会民主主義は警察国家型の管理システムと相性がいい」のである(『ナショナリズムという迷宮』朝日新聞社、2006年、13頁)。現実の北欧の社会民主主義国家は、とてつもない重税と警察管理の国家である。日本のような利権型政治の国家やその克服として現れたネオ・リベラルが正しい選択だとは考えないが、社会民主主義を過度に理想化することも危険である。

  これは蛇足になるが、秋定氏の願いのひとつは、若い研究者に部落問題の研究を続けてもらいたいということである。そして部落史について、侃々諤々の議論を起こしてもらいたいのである。しかし若い研究者のなかには、部落問題なら楽に論文が活字化できると思って研究を始め、最近の同和問題バックラッシュのなかで慌てて社会事業史に研究テーマを変える、といった風潮さえ生まれている。確かに大学の倒産が続き、研究機関の規模縮小や解体がすすむなかで、彼らの「転向」を責めるのは酷かもしれない。しかし若い研究者のなかで、本当に部落問題をやりたい人はでてこないか、これが秋定氏の本著にこめた切実な願いのひとつである。