1 豊かな人権文化の創造に向けて
今日は人権意識の高揚に向けて、人権教育や人権啓発をこれからどのように展開していけばいいかということを考えたいと思います。1995年から2004年末まで「人権教育のための国連10年」の取り組みが進行中ですが、その中で日本でも人権教育や人権啓発についての新しい方針や考え方が生み出されてきています。
また、人権擁護推進審議会の答申をうけて、昨年12月に人権教育・啓発の推進に関する新しい法律が策定されましたが、この法律の下で、人権教育や啓発の新たな戦略づくりが今求められています。
人権意識の高揚を考えるときに、非常に重要なポイントがあります。それは人権問題をめぐっては、常に多数派と少数派が存在し、少数派の敢然とした異議申し立て抜きには、人権の前進が実現しなかったという事実です。ここで少数派というのは人権を侵害されている当事者を指します。
部落差別を例にとると、被差別部落あるいは被差別部落の人びとが少数派になります。そして、被差別部落や被差別部落の人びとを差別する側を多数派と考えることができます。ここで問題になるのは、現に部落差別があり、それを当事者の側が強く感じ、差別を無くしたいと思っていたとしても、多数派は現状に問題がないと認識しているというぐあいに、少数派と多数派の間には、同じ現実であっても認識のギャップがあるということです。
しかし、当事者が自ら集団運動を起こし、多数派の側に対して断固としてその差別を糾す声をあげ始めたことによって、部落差別が問題として取り上げられるようになりました。さらに少数派の側からの訴え・告発が続けられることによって、ようやく多数派の側も問題を認識し、現状を変えるために新しい制度や法律を作り、意識を変えていく取り組みを始めていったわけです。
つまり、少数派の側が差別・抑圧の事実を突きつけ、それを許せない現実だと告発することによって、初めて多数派の側が変わり始めたという歴史があるのです。
人権が前進していく過程においては、このようにまず人権侵害を受けている当事者からの異議申し立て・告発があり、それを受けて多数派の側がようやく動き始め、社会の制度や意識が変わっていく、という法則があると思います。
これはある意味で残念なことです。問題を作り出し、維持しているのが多数派であるにもかかわらず、少数派が勇気をもって異議申し立ての行動に出ることなしに、多数派は認識を変えようともしないという状況があるからです。
この異議申し立てという「北風」は、人権の前進にとって、きわめて重要な役割を果たしてきました。部落差別だけでなく、あらゆる差別・抑圧の状況において、このことはあてはまります。ですから、「北風」を否定するような人権教育・啓発論は、まちがっていると思います。
ただ、「北風」型の教育や啓発には問題もありました。同和教育をはじめ人権に関わる教育や啓発の営みにおいては、ただ差別の厳しい現実を描いたビデオや体験談を見せたり聞かせたりすれば、必ず学習者はその問題に気づいて取り組みを始めるだろう、という図式で、取り組んできた面があったように思います。
感想文を書かせれば、きっと差別はいけない、人権は大切です、というようなことを書く人が多いと思います。しかし、そのような感想文が書かれたからといって、この啓発は成功したといえるのでしょうか。それがはたして、現実に応用の効く人権意識として高まっていくのだろうかという疑問も残ります。
学習者の側が正しく理解し、感性を豊かにして取り組み始めるための前提をあらためて考えなおしてみる必要があります。
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1990年代に入る頃から、社会教育や学校教育を含めて、人権に関わるさまざまな教育や啓発の現場で、そういう問題が指摘しはじめられ、やり方を変えないといけないということで、さまざまな取り組みが始まりました。
伝え手の側の意図や思いだけでなく、それが受け手の側、学習者の側に意味のある形で伝わるかどうかを何よりも大切にしようということです。人権を大切にするために、自分はこんなことだったら取り組めるのではないかといった具体的な気づきが内からわき起こっていくような出会いが大切なのです。
興味をかき立てるような状況をつくって問いを投げかけ、さまざまな活動を行った結果、学び手である児童や生徒や大人たちが何かに気づいたり、問題意識を育むように変化していくことが大切です。
ところがこれまでの同和教育や人権教育の世界においては、むしろ正解を直球で投げ込むようなやり方が中心になってきました。これはおそらく、教育・啓発する側が、学習の論理を踏み外してきた面があったからではないかと思います。
差別を受けている当事者や団体が、その思いを直球で返すことは当たり前のことです。そういう「北風」はとても大事なことです。しかしその「北風」のメッセージを意味ある形で学べるためには、教育する側、啓発する側がそれなりの工夫を行い、学習者が内発的な動機を持って、自ら主体的に学べるようにすることがポイントになるのではないでしょうか。
他人事という距離感をどう変えていくのかがとても大事になってくると思うのです。人権を他人事ではなく、自分事にしていく工夫が必要だということです。
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2 豊かな人権文化とは
さて「人権文化」という言葉ですが、「人権」や「文化」という言葉はそれぞれ昔からありました。でも「人権文化」という四文字の熟語で登場したのは、「人権教育のための国連10年」が「人権文化」という言葉をキーワードにして行動計画を作った時からです。
「人権教育のための国連10年」の行動計画が国連総会で採択されたのは1994年の12月のことでした。この行動計画はもともと英語で書かれていて、部落解放・人権研究所からの依頼を受けて、私を含む関西在住の研究者が分担をして翻訳しました。この行動計画の中に‡universal culture of human rights(ユニバーサル・カルチャー・オブ・ヒューマンライツ)‡≠ニいう表現がありました。
ユニバーサルは「世界の」あるいは「普遍的な」という意味であり、カルチャー・オブ・ヒューマンライツは「人権の文化」ですから、ユニバーサル・カルチャー・オブ・ヒューマンライツは、「普遍的な人権文化」と訳すこともできるし、あるいは「世界中に人権文化を」と訳すこともできます。
人権ということについて普遍的な基準があるのかどうかについては、いろいろ議論があります。ヨーロッパやアメリカを中心に作られてきた人権の考え方と、アジアなどにおける人権の考え方は文化的に違いがあり、一緒にしてはいけないという議論もあります。しかし国連が作ってきた人権に関するさまざまな約束事を世界中に根付かせていくことについて異論はないだろうということで、私たちは「世界中に豊かな人権文化の花を咲かせよう」というスローガンで「人権教育のための国連10年」行動計画を紹介しました。これが1995年の初めのことでした。
「世界中のどこであっても、例外なくすべての人が、人類社会がつくってきた人権についての約束事を保障される」こういう考え方を大事にしようということです。
豊かな人権文化を育てるということをもっと深く考えるためには、文化とは何かということを明らかにする必要があります。簡単に言ってしまえば、私たちの日常生活の中で当たり前になっているものの見方とか考え方とか感じ方とか行動の仕方、これが文化だと思います。
日本社会の文化にどっぷり浸っている私たちは、極めて日本的な考え方とか感じ方とか行動の仕方を身につけています。ところがこれを外国の人がみると、非常に特殊独特な日本的なものを感じることがあります。文化にはそういう特徴があるわけです。
では人権文化とはなんでしょう。要するに、人権ということに関わって、私たちが日本社会でふだん当たり前と思って、疑問にも思わないぐらい日常の中に浸透している考え方や感じ方、行動の仕方を指すと捉えることができます。
私たちが普段当たり前と思っている生き方や人とのつながり方に、どういう特徴があるのか考えようとしても、その中にどっぷり浸っている私たちはなかなか気づきません。でも外国から来た人にいろいろ投げかけられる疑問に触れたときに気づくことがよくあります。
例えば、日本人は個人として自分はこう考えるとか、こう思うとか、自分はこういうことにこだわりを持って生きているといった「私メッセージ」をはっきり出さない人が多いというようなことです。何かあると世間はどうか、周りの人はどう出るだろう、どう言うだろうかということにアンテナをめぐらせて、世間という枠からはみ出ないように、周りの人から距離を置かれないように、自分の考えや気持ちを抑えて表現する傾向が強いのではないでしょうか。
日本社会とか日本人を全体として見たときに、他の社会や他の文化に属する人たちに比べて、どうも世間というものを必要以上に意識する人たちが多いのではないか。「私メッセージ」をはっきり出さない、それが賢明な生き方だと思っている人が多いのではないだろうか、という指摘をしばしば受けます。
たしかに「私メッセージ」を強調しないということにはいい面もあります。調和を保ってみんなが仲良く和気あいあいという時にはいいかもしれません。ところが人権に関わっていいますと、人権を否定されたり侵害されたりすることに我慢できないという人がいたとしても、世間という目を意識し、こんなことを言うと調和を乱してしまうと考えて、当事者の思いを否定してきたということがしばしばあります。
またそのために、多数派は問題に気づかないままでいるということがあります。だとすると、もっと「私メッセージ」をそれぞれが出し合ってやりとりをしながら、お互いの違いは違いとして認める、あるいは合意しなければいけない点については話し合ったうえで調整をつけていく、というような形で、もっと「個」という存在が自立して、自立しながら他の人ともつながっていくような方向へ持っていくことが、日本の人権文化をさらに豊かにしていくためには必要なのではないでしょうか。
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もう一つ、日本の人権文化の特徴として、外国の人からよく指摘される点があります。日本ほど経済的に豊かで一般的に学歴も高く、近代国家として非常に発展したとされる国において、どうして女性の社会進出の度合いがこんなに低いのかという疑問です。
最近、女性の大臣も増えましたが、全体としてみると大臣の数にしても女性の議員の数にしても、極めて少数という現実はあまり変わっていません。
企業の場合でも、ある調査によると、日本の民間企業で重役ポストについている人はおよそ8万人であるのに対して、そのうち女性の数はわずか800人という数字があります。自由や人権や平等を理念として掲げて仕事をしているはずの行政機関や学校ではどうでしょうか。
職員の中での男女の比率は変わらないのに、そのなかで管理職、行政でいうなら課長級以上や学校でいうと校長や教頭という地位についている人の数をみると、明らかに女性が少数派になっています。そういう数字を挙げて考えますと、日本における女性の社会進出の度合いは、国際的に比較すると、とても低いといわざるを得ません。
つまり日本という国はいまもって、性による役割分担が極めて強い形で生きている社会だといわざるを得ない面があります。
このことは、女性がいろんな意味でハンディを負わされている、ということです。しかし、この性別役割分担という状況は、男が得をして女が損をしているという結論に単純につながるのでしょうか。男が得をしているというのであれば、どうしてこんなに40代から50代の男性がたくさん自殺しているのだろう。あるいは定年になった途端に自分の生きる意味が見えなくなる人が多いのはなぜだろう、と考えさせられます。
これまで男は、仕事の場において一定の責任と場所を与えられ、その役割を必死に果たそうとしてきました。お金を稼いで、早く昇進すること、その役割を演じ続けることによって男としての生き方が保障されてきた面がありました。でもそれは逆に言うと、その過程で本当に自分のやりたいこと、自分らしく生きることなど、自分にとって大切なことや人間関係を切り捨てて生きてきたということではないでしょうか。
ある意味で生活面での自立ということができないまま生きてきて、自分が本当にやりたいことは何なのかをいつも横に置いたまま生きてきたのではないでしょうか。
もちろん、女性の中には、いろいろなところで頭をうたれ、自分のやりたい夢をくじかれ、社会進出できたかもしれないのに別の進路を選択せざるを得ない生き方を強いられてきた人が多数います。
しかし逆にそうした困難な状況のもとでも、子育てや生涯学習への参加を通じて、そこで新しい生き方や人間関係を重層的につくることによって、自分の生きる力を高めてきている人がたくさんいます。ですから中高年になったときに男性よりも女性の方が元気であったり、生きる力が溢れていたりするのは、皮肉なことですが、多分に性別役割分担の結果としての面もあります。日本社会における性別役割分担の問題を、男は得をしていて女は損をしていると単純な図式でとらえると、一人ひとりが自分らしく生きられているかどうかが見えなくなります。
固定的な性別役割分担という日本の人権問題を改善していくためには、女性ももっと社会進出して男性と同じようにというだけでなく、それと同時に男性も女性も自分らしく生きるとはどういうことなのか、男女が共に参画しながら社会をつくるというのはどういうことなのか、いわゆる男女共同参画の社会づくりのための条件は何かという形で問題を考えていかない限り、人権文化が豊かになる方向は見えてこないと思います。
このように豊かな人権文化を創っていくというのは、私たちの日常を問い直すということです。私がここで使っている「自己実現」という意味は、すべての人が違う個性や生き方にこだわりをもっていて、その一人ひとりが、短所とされることも含めて等身大の自分を「この自分であってよかった」と思える気持ち、自分なりにがんばって生きていこうと思い、できないかもしれないけど夢に向かってチャレンジしてみようという気持ち、そんな気持ちをもって生きられているかどうか、そこにポイントがあると思います。
自己実現的に生きている人は、ことさら他者をおとしめようとしたりいじめようとしたり嫌がらせをしようとは思わないものです。人は生まれもって差別をする存在ではありません。
「自分の生き方はこんなはずではなかった」「鬱屈とした自分を何かごまかして生きている」「自分らしさをどこかで捨て去って自分でない人間を演じ続けている」そういう気持ちが、ある状況のもとで欲求不満となって、自分より弱いと思われる社会的な位置に置かれた人に向かうわけです。それがいじめになったり差別になったり、人を攻撃したりする心理につながると思うのです。ですから差別をなくすために、「差別はいけない」「人権は大事だ」と説教をくり返すだけでは駄目なんです。
自分が自分らしく輝くという生き方、自己実現的な生き方を大事にすることによって、いろいろな違いをもった他者とも新鮮な出会いができたり、その他者からいろんなことを教えてもらったり、また逆に自分が他者にいろんなことを返すことができたりするわけです。人権文化の豊かな社会のイメージはそういうものだと思います。
そのような自己実現的な生き方や多様な他者との魅力的な出会いをもとに、自分が社会にとって意味のある役割を果たせていると思えた時に、人間は生きがいをもってその人らしい良さをだせるわけです。自分が周りから肯定的に受け入れられていると思えるとき、自分の努力やがんばりがちゃんと評価されていると思えた時にその人はいいものを引きだそうとすることができます。
また、世の中の人権文化を豊かにするためには、考え方や感じ方や行動の仕方を作り変えるということと同時に、社会の仕組みや制度も変える必要があります。この両方が相まって初めて人権文化は豊かになるわけです。
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3 人権教育や啓発の方法論
次に人権教育や啓発の方法論として(1)説教型、(2)参加体験型、(3)リアリティ探究・行動型という3つに分けて考えてみましょう。
説教型とは要するに「差別はいけない」「人権は大切だ」というメッセージを一方的に伝達しようとすることを指しています。私は説教型がすべて駄目とは考えていません。説教型や講義形式のものでも、魂に響く、思考や感性を深く揺さぶることによって、学習者の思考や行動を活性化するものもあるからです。
言いたいのは、いわゆる形骸化した教え込みや全く魂がこもってない説教のくり返しは、受け手に何ら意味のあるインパクトを与えることがないので、そういう説教型はよくないということです。
ただ多くの場合、説教型という安易なパターンに乗っかって、同和教育や人権教育が成り立つように思い込んできた面があったために、90年代に入ってしばらく経った頃から、説教型ではなくて参加型や体験型と呼ばれるやり方、手法が随分広がり始めました。
みなさんの中にも、人権教育や研修や啓発の場で体験された方もおられるかもしれませんが、参加型とか体験型の研修や学習の場合は、先生や講師が一方的に教えるという形ではなく、参加した人たちが感じたことや考えたことを話したり表現したりすることを学習資源として何よりも大事にします。
大阪の中学校で随分流行ったものに、「権利の熱気球」という教材があります。この教材を使う授業では、先生はまず封筒をみんなに配ります。封筒を開けるとその中に1枚のワークシート(プリント)と色分けされた10枚のカードが入っています。それぞれのカードには、「いじめられない権利」「他の人と違っていても認められる権利」「自分だけの部屋を持つ権利」「お小遣いをもらう権利」など、いろんな権利が書いてあります。
そして、プリントには、今あなたは熱気球に乗ってふわふわと気持ちよく空を飛んでいます、と書かれています。ガスバーナーが故障して熱気球がどんどん高度を下げはじめました。このまま行くと海に落ちてしまいます。今、熱気球に乗っているのはあなたと1個10‡sの重さの権利が10個、これはさっきの10枚のカードに対応するものですが、どれか一つ権利を捨てないといけません。もしそういう状況になったら、あなたはどの権利をまず捨てますか。
自分だったら最初に捨てると思う権利をこのプリントの左側の10と書いたところに貼ってください。しばらくするとまた高度が下がり始めた。もう一個捨てないといけない。次に捨てるとしたらどの権利を捨てますか、それを9というところに貼ってくださいという具合に、自分にとって捨ててもいいと思える軽い権利から、最後までこれは守りたいと思う大事な権利まで順に貼っていくと、権利のランキングができあがるわけです。
一人ひとりこの並べ方はみんな違っています。それは、子どもたちが生きている現実が違うから当然です。私がみたある中学校の教室では、もっともたくさんの生徒たちが最後まで残したのが、愛し愛される権利でした。
一見ゲーム風な参加体験型の学習ですが、現実と距離をおき、想像の世界に身をおいて考えてみることを通じて、逆に現実への気づきを促すというしかけをもっているのです。
今、私たちが生きている日常の中で、この権利はどんな意味を持つでしょうか、と問いかけ、その思いを表現することを可能にする学習になっています。そういう意味で、参加する学習者が自分の気持ちや日頃の体験などを振り返りながら、自分の中にある権利に関する価値観を発見していく助けになっています。
国際社会が作ってきた世界人権宣言の意味を具体的にとらえるために、そういう学習を通じて一旦自分の身体をくぐる、自分の日常を振り返る、その中で発見したことからアプローチするというところに、深い意味があるわけです。こうして、参加体験型というやり方が非常に流行るようになりました。今もいろんなものが取り入れられています。
その後登場してきたのが「リアリティ(現実)探求・行動型」です。これは例えば、来年度から学校教育において総合的な学習が本格化していくわけですが、人権に関わる現実の中からいろんなことを学んでいこうという「人権総合学習的なアプローチ」を指しています。
さて、どういう取り組みがされるようになったかといいますと、従来のように差別問題や人権問題をストレートに学習することではなくて、自分たちの学校や地域についていろいろなことを分担して調べて、わかったことをそれぞれが持ち寄って自分たちの学校や地域を宣伝するようなビデオを作ってみようというような学習活動を通じて、豊かな人権文化に満ちた学校や地域をつくりだそうとするものです。
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4 まとめ
これまで、2つのことをポイントにお話しをすすめてきました。
まず第一に、これからの人権教育や啓発を考えるときに、学習者自身の自己概念、とくに肯定的に自己を捉えられるという気持ち(教育の世界ではセルフエスティームや自尊感情といいますが)をまず大事にしようということです。
ありのままの、それぞれの違った個性や境遇を持つ一人ひとりの存在が、この自分であって良かった、この自分の持っている可能性をもっと前向きに引き出していきたいな、という意味での自己実現を大切にしていこう、ということです。
第二に、人権について学ぶときに、わくわくした気持ちで意外性のある発見がいっぱい出てくるような仕掛けを大いに工夫していこうということです。学習者にとって意味あると思えるような学びになっているかどうかをなによりも大切にする必要があります。
これらのポイントをふまえながら、きょうは特に行政関係の参加者の方が多いかと思いますので、さいごに人権教育・啓発に対する総合行政的なアプローチのありかたについて触れておきたいと思います。
これからは、行政の特定の部署だけが人権教育や啓発に関わっているという考えを捨て去ることが大切です。例えば清掃に関わっている人、土木に関わっている人、税務に関わっている人、福祉や保険に関わっている人、そうしたすべての行政の仕事がいかなる形で市民サービスを提供するか、あるいはそのサービスのあり方について市民にわかりやすい形で情報を提供していくかということも含めて、行政のしごとのすすめ方そのものが地域の人権文化を豊かにすることに役立っているのかどうかというところに、大切なポイントが隠されていると思うのです。
行政が一方的に施策をつくり、実施していくというやり方自体が、反人権文化的だと思います。つまり行政のサービス自身がより透明性を高めていくこと、いろんな疑問があったときに、ていねいに応えていくということが問われてきています。
最近いろいろな自治体で出前講座というのが流行っています。例えば市民や町民が10人ぐらい集まって、あるテーマについて学習したいという要請があったとすると、そこへ自治体職員がでかけていって説明をする、そして市民と共に学ぶ。そんな出前講座があちこちで流行っていますが、これは人権文化行政という観点からも、大変よいことだと思います。
それともう一つ大切なことは、行政だけが一方的に何かをするという時代ではなくなったことです。例えば啓発にせよ教育活動にせよ、行政や学校の先生以外のいわゆるNGOとかNPOとか呼ばれる市民の取り組みの中に、いろいろな経験やノウハウがいっぱい蓄積されています。
環境問題について何か取り組むとするならば、先生が1から勉強して教えようとするより、特定の環境問題についてがんばっている人を呼んできて、学校で子どもたちに話してもらった方が、もっと効果はあるし、インパクトも大きいと思います。あるいは住民にとって魅力的な講座を開発したいと思うならば、既に市民運動のレベルで、いろんな工夫をしながら市民参加をつくってきたノウハウを持っているところがいっぱいあるわけです。そういう人たちの知恵を借り、経験を活かすことによって良い企画を作るということができます。
もっと市民の中で日々動いているダイナミックな力や経験から学び、場合によっては連携し、あるいは場合によっては委託をしていく。そういうアプローチをすることも、これからの人権教育や啓発を進めていくうえで行政の側に求められるポイントではないかなという気がします。
これからの人権教育や人権啓発においては、差別を許さない、差別をしてはいけない、というメッセージをしっかり届けることと同時に、一歩も二歩も工夫を重ね、魅力的な学びと活動の仕掛けを作ることによって、学んでおもしろかった、あるいは市民がもっと参加できそうだと思えるような人権教育や啓発をつくっていくことが問われています。