講座・講演録

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2000年10月20日(部落解放482号掲載)

21世紀におけるNPOの役割と課題

報告者:早瀬 昇(社会福祉法人大阪ボランティア協会)

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NPOの意義

 いまやボランティアという言葉は、日本人が知っている外来語のベストテンに入っています。今度はそこにNPOという言葉も入ってきます。1998年12月に特定非営利活動促進法が制定され、特定非営利活動法人ができるようになりました。この特定非営利活動法人を略してNPO法人というわけです。

 NPO法人ができたことには大きな意味があります。日本では、1898年(明治31)に民法ができてからこの100年間というもの、公益的な活動をする非営利団体が法人格をとろうとすれば、役所に許可をもらわないといけませんでした。役所のご理解をいただかなければ法人格をとれないという、とんでもない仕組みが続いているのです。民法ができた当時は、公益とは国益だと思われていたので、いやしくも民に公益を名乗って勝手にさせてはいけない、だから役所に管理させるということが続いていたわけです。

 ところがそれはおかしいということで、NPO法人ができた。これには主務官庁はありません。所轄庁といって、法律の運用をチェックする役所はありますが、実質的に個々のNPOを監督する役所はないと考えていい。NPO法人は、申請したらまず通る。いま全国で2000ほどのNPO法人がありますが、そのなかで法人格を認められなかった例はわずかで、99.6パーセントが法人認証されています。つまり役所の顔色をうかがわなくても法人格がとれる仕組みができたわけです。いま1週間に30ほどのペースでNPO法人が増えています。
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市民運動の特性

 100年間続いた、役所が公益法人を管理するという仕組みがなぜ崩れたのかというと、そのきっかけは、95年の阪神・淡路大震災です。あの震災でボランティアやNPOがずいぶん活躍しました。それはなぜか。役所とはちがう動き方ができるからです。役所ではできないことがいろいろあって、それが市民の活動ではできるということがわかったということです。

 役所では、状況に応じて動くという機動性がない。これは役所の悪口ではない。公務員も被災者になった。みんな被災しながらがんばったんですが、役所という組織としては動かなかった。なぜかというと、役所は公平でなければならないからです。公平というのは悪いことではありませんが、災害時には役所の動きを止めます。つまり、公平にしようと思うと、全体のことがわからないといけない。

阪神・淡路大震災のように、災害は大きければ大きいほど、最初は全体が見えない。何が起こったかわからない。亡くなった人がいるということが報じられたのは、地震の2時間20分後です。5000人以上の人が亡くなっていたのがわかったのは、なんと8日後です。5500人の人の名前がわかったのは2カ月後です。全体がわからないんです。それでは行政は動けない。たとえば、目の前に困っている人が来て援助を求めても、すぐに対応できない。その人が、その町全体のなかで、どの程度に優先度が高いかわからないからです。だから、「とりあえずお名前だけ聞いておきます」で止まるわけです。

 ところが、ボランティアは、困っている人がいると、「私がします」と言えば、すぐできるわけです。しかも、私たちは、一人ひとり、みんなちがう脳ミソもっています。みんなちがうことを考えているんです。つまり、みんなちがうことに気がつくんです。すると、市民のとりくみというのは、きわめて多彩になります。たとえば、アトピーの子どもをもつ親の会は、地震が起こった日の夕方には、全国のアトピー症の患者さんと連絡をとりあって、各地域ごとに拠点を決めて、アトピーの人に負担のかからない食事を集めるネットワークをつくっているんです。

? アトピーの人がたいへんだという記事が新聞に載ったのは2月です。2月まで2週間の間、ほとんどの人は気がつかなかった。炊き出しや救援物資の弁当はありがたいが、白米を食べると蕁麻疹ができる子がいっぱいいる。でも、がまんして食べていた。そのときに、アトピーの子をもっている人は、すぐ動く。そういう事例がいっぱい起こった。役所は、こういうパターンのことは苦手です。行政は全体の奉仕者ですから、全体の過半数以上の人が賛成しないことはできないんです。しかし、一人ひとりの「私」なら、すぐできる。多様なとりくみができるわけです。

 つまり、あの震災のときに、市民の活動というのは、行政の穴埋めにとどまるものではない、役所にはできないことがNPOやボランティアにはできるということがわかった。だから、そういう活動を役所の下に置くのではなく、行政とNPOが対等に、横の立場に置かないといけないということが、広く認識されるようになった。
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新しい公共活動

 役所にはできない活動ができるのがNPOだということで言うと、NPOはまた、ニュー・パブリック・オーガニゼーションとも言われます。新しい公共的なことができる。役所という全体のことを押さえて土台をつくる公共活動も大切だが、それとともに、それぞれの個性に合わせた活動が必要であり、それができるのが民間です。

 たとえば、大阪に在日韓国・朝鮮人のための老人ホームの「ふるさとの家」があります。今度、兵庫にもできます。ようやく2つ目です。でも、アメリカには、日系一世のための老人ホームはいくらでもあります。日系二世が民間の力で、自分たちでつくるから、すぐできるわけです。でも役所の仕組みで、在日韓国・朝鮮人のための老人ホームをつくるのは、むずかしい話になる。それぞれの文化や価値観に合わせた公共活動は民間の方がやりやすい。だからNPOが注目されているのです。

 もう一つ重要なのは、NPOという概念、範疇のなかには、ボランティアを超えるものがあります。ボランティアという言葉は、元来、アンペイドワーク、無償の労働をさします。最近、それに対して、安い値段でボランティア活動をする有償ボランティアがでてきた。ボランティアというのは、もともと無償の活動なのに、どうして有償ボランティアなどと言うのかという論議がありました。これは排除の論理です。ボランティアの世界に入れてあげるかどうかということです。つまり、ボランティアという言葉が、きれいな言葉になってしまって、正直とか誠実とかと同じような意味でボランティアという言葉がとらえられている。ほんとはあやしいところもあるのですが……。
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 でもNPOには、どっちも含みます。利益を目的としていないとりくみの全部を含む。有償でやっている人も営利を目的にしていないならばNPOです。同じ仲間です。別の言い方をしたら、これまでは無償で、余暇の時間を生かしてとりくんできたボランティア活動があったが、それにくわえて、場合によっては専従になって仕事をするとか、あるいはそのための資金として、利益は目的としないが実費をいただいて事業をするという展開がでてきた。市民活動のなかで専従者をかかえる団体が出てきたわけです。

 NPOというスタイルを得ることによって、無償とか有償とかいうことはどっちでもよくなった。それらをトータルで見る概念ができてきた。そうすると、専従スタッフもでき、活動が日常的になるわけです。いつ連絡しても大丈夫、事業が安定化する。また、専従者がいるということは、専門的になる。実際、NPOは専門性があります。これは役所に対して強い。役所は人が次々変わります。ゼネラリストはいるがスペシャリストは生まれない。これからの時代はスペシャリストが必要です。その点で言うと、NPOというスペシャリスト集団と、行政というゼネラリスト集団の共同というのは、これから大きな課題になってきます。そういう専門性を磨けるような主体、民間で柔軟な対応ができる集団ができてきているわけです。
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市民活動の悩み

 しかし、市民活動には大きな悩みがあります。市民活動というのは基本的には自発的な活動です。自発的とは、言われなくてもすることですが、逆に言えば、言われてもしないことです。自分が納得しなければしないということも自発的なんです。つまり自発的ということは、するかしないかは自由だということです。ここが、いま論議になっている奉仕活動の義務化はおかしいということです。

 市民活動の一番の魅力は自由に活動できることです。いろんなパターンのペースを認め合いながら、いろんな活動ができることが魅力なんですが、どこまでするかも自由なんです。どこまでしたらいいかという基準がない。企業なら、利益があがるかどうかという基準がある。役所なら、議会の承認が得られる範囲という基準がある。ところが、市民活動の場合は、やる人はやる、命かけてボランティアをしている人は世界中にいくらでもいます。世界中の戦場には何万というボランティアが活動しています。殉職する人もいる。一方で何もしない人がいる。

 そうすると、問題意識の強い人、感受性の強い人ほどがんばることになる。無理をする、無理をすると疲れる、疲れると休まないといけない、休んだらボランティアはあてにならないと言われる。あてにしている人がとぼとぼ帰っていく姿を見て、なんとかしないといけないと思う人は、また無理をする、また疲れるという 「疲労と不信の悪循環」になる。がんばる人は疲れる。これはなぜかというと自発的だからです。だれかに言われたことをやっているのなら、しんどくなると、命じた人に文句を言えばいい。自発的なとりくみはそうはいかない。
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 疲労と不信の悪循環をどうして解決するかが、私たちの重大な課題ですが、これには3つ方法があります。一つは、あきらめることです。細く長く、無理せずにやっていたら、そのうちよくなるかもしれないということ。これは意外にいい方法です。企業人がボランティア活動するということでも、状況はよくなってます。10年ぐらい前なら、企業で働いている人がボランティア活動をするのは、隠れキリシタンみたいなものでした。いまは「ボランティア休暇」と言われる時代ですから、風向きが変わったものです。だから、ぼちぼちでもいいんです。

 しかしこれでは消極的だ、もっとちゃんとやろうというのが制度要求です。行政の保障を求める。解放同盟もそういう闘争をやってきました。この方法の問題点は、役所が大きくなってくることです。役所の枠組みのなかに入る。役所はだめだということではありません。基盤は役所がつくることですし、そのために私たちは政府を組織しています。でも、そのうえで多彩に展開される活動は、役所から独立している方がいいんです。

 では、どうしたら役所から独立しながら民間の活動ができるか。それは支援者を得ることです。民間の支援者をどう集めるか。これが私たち市民活動の重要な問題です。
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いかに仲間を集めるか

 支援者をどう得るかは、いかに仲間を集めるかということですが、ここにまた問題があります。つまり、活発なグループほど、仲間割れしやすい。全然仲間割れが起こらないグループは、一つは、あまり熱心でないグループです。「あの人の言う通りにしたらええ」ということなら、もめません。もう一つは、「尊師」とか「グル」とか呼ばれるような、ものすごい強力なリーダーが一人いる。これはもめません。でも、私たちの活動はそんな活動ではありません。いろんな人たちが集まっているわけですから。

 みんな熱心だとどうなるか。みんな、「私」がやろうという人ですから、ワンマンです。人間不思議なもので、自発的にものごとにとりくもうとすると、自分にこだわりをもちます。非営利活動の場合は打算が入らないから、よけいに対立が起こる。たとえば、山のキャンプに子どもたちを連れて行こうというときにも、「いや、海に行こう」という人がいる。これは熱心な人だから、そう言うわけです。そして活動から離れていく。どっちでもいいという人が残る。

 では、どうしたらいいか。分かれればいいわけです。私たちはいままで、運動論を「グー」でやってきた。一致団結です。これでもいいんですが、喧嘩しかできない。喧嘩には強い。もちろん喧嘩も必要なときがありますし、否定するわけではありません。しかし、これからは「パー」だと思います。手を開いた状態というのは、親指、人差指、中指、薬指、小指、みんなちがっています。みんなちがっていて、掌でくっついています。指がそれぞれちがっていて、そして掌でくっついているから、いろんなものを握れるわけです。「グー」なら握れない。こういう組織論です。つまり一つの地域に手話のサークルが3つあろうと4つあろうと、かまわないんです。ときどきいっしょにやればいいんです。これを昔の人は「和して同ぜず」と言いました。いろんな方法論を認めながら、いっしょにやるということが必要なのではないか。
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肩の力を抜くこと

 仲間を得にくいもう一つのパターンがあります。自発的な活動は、人によって、やる気に差がある。やる人はものすごくやるし、やらない人はあまりやらない。やる気があまりない人をいかに巻き込むかが、仲間を集めるということですが、このときに何がネックになるかというと、肩に力が入りすぎるということです。

 こういう金にもならない活動を一生懸命やっていると何が起こるかというと、身内で邪魔をする人がでてくる。「世界の平和、家庭の不和」という言葉があります。私も学生時代からボランティア活動をしていますが、日曜日など行事があるので出て行こうと玄関に立ったら、母親が「あんた、どこ行くの」と言う。「ボランティアやないか」と言うと、「また、ボランティアかいな。たまには家のボランティアしなさい。なんやの、自分の部屋もかたづいてないのに。自分のこともでけへんくせに」と言われる。そこで言うわけです。「なに言うてんねん、おかあちゃん。ぼくらのやることには社会的な意義があるねん」。「おかあちゃんは、問題意識が低いからあかん」とか言うわけです。

 この「意義があるから」というのが、肩に力が入りやすい。意義の義は正義の義、義理の義、義務の義です。暗くなってくる、重たくなってくる。たとえば、1週間に1回やっているグループがあったとする。そのときに、「正しいからやっている」という意識があると、あまり出てこないメンバーに対して、「お前、なにやってるねん。まじめにしなあかんやないか」と言うわけです。そのときに、「1カ月に1回のグループもありますやん」と言うと、「あの連中は問題意識が低い」と言う。こうしてちょっとペースの悪い人を切っていくことになりますが、これはジリ貧になります。ペースのちがいを認める展開が必要です。「私は月に1回ぐらいしか来られへん」という人には「かまへん、かまへん」、「私は行事のときぐらいしか来られへん」という人には、「行事のときほど人がいるねん」と。こういうリーダーが仲間を集められるわけです。
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楽しさを大切に

 ただ、こういう展開をするためには、ある考え方が必要です。リーダーががんばらないといけない。自分はがんばりながら、あまりがんばらない人でも「かまへんで」と認められないといけない。 

 たとえば同窓会です。同窓会は自発的です。幹事さんはいろいろと大変です。出欠ハガキに「幹事さん、がんばってね。楽しみにしてます」と、一言つけてくれると、幹事さんも喜んでがんばります。でも、返事も出さないのに来る人がいます。しかし幹事さんは、「連絡してくれへんかったから、席がない」とは言いません。「返事出してくれへんから心配しとってん。まあ上がって。駆けつけ三杯」とか言うわけです。返事出さないで来た人でも会費さえ払えば普通に飲めるんです。でも幹事さんは飲めない。

 では、どうして幹事さんをやっているのかと言えば、好きだからです。自分が好きでやっていると思えば、自分ほど熱心でない人を受け入れられるんです。しなければならない、だれもやってくれない、ということになると、だんだん被害者意識になる。世界中の不幸を背負っているような人もいます。好きでやっているという言い方は不謹慎かもしれませんが、でも、根本的な楽しさ、豊かさみたいなことを、もっとわれわれは正面から認めた方がいい。
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 さきほども言いましたが、時代は変わったわけで、就業時間中に管理職研修としてボランティアの講座をする会社もあります。私はそういうとき、会社でよくあるような話を例に出します。会社で久し振りに会った後輩が、「先輩、今日の晩、あいてますか」と言う。「どないしたんや」と言うと、「おりいって、ご相談したいことがありまして」と言うので、「そしたら、会社終わってからどこか行こか」というときに、あんまり公園のベンチで待ち合わせたりしません。普通は飲みに行くということになります。しかし先輩は「割り勘で」とは言いにくい。ちょっと見栄はって、「よっしゃ、ついてこい。おごったるわ」と言ってしまいます。わざわざ他人のために時間を使う、お金も使います。ボランティアみたいなものです。しかし、相談を持ちかけられると、何かうれしい。ほかにも同僚がいるのに、「おりいって先輩に」と言われると、うれしくなるのではないでしょうか。

 北風と太陽の話があります。市民を巻き込んでいくときに、北風、つまり闘争としてやることが必要なときもありますが、一方で、太陽、つまり人間的な豊かさをうまく伝えられれば、市民活動の民間的なよさとネットワークの広がりが、両方実現できる。そのなかで、行政、企業とともに、NPOが大きな役割を担う時代をつくることがこれからの課題だと思います。