講座・講演録

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2001.5.23(部落解放488号掲載)
いま急がれる人権改革

大賀正行
部落解放.人権研究所理事


人権改革が欠落している小泉内閣

 「構造改革なくして日本の再生と発展はない」と言い切り、「改革断行内閣」を組織して「新世紀維新」を実現したいと、小泉純一郎内閣が登場した。さる5月7日の首相所信表明演説で小泉首相は、緊急の重要課題として「日本経済の再生」をあげ、そのための不良債権の最終処理や都市再生、土地流動化をはじめとする「経済.財政の構造改革」、郵政民営化などの「行政の構造改革」、そして教育、社会保障、環境問題などの「社会の構造改革」を行い、まさに「聖域なき構造改革」にとりくむと大見得を切った。

 87パーセントという過去最高の内閣支持率(読売新聞調査)は、変革の時代の風を意識した多くの国民の期待を反映したものだろうが、この首相所信表明の中に「人権」ということばが一言も見当たらないのはどうしたことか。

 5年前、橋本龍太郎内閣が登場したときも、1997年の年頭記者会見で橋本首相は、6つの改革(行政改革、経済構造改革、金融システム改革、社会保障構造改革、財政構造改革、教育改革)をぶちあげ、「もはや改革というよりは新しいシステム、新しい社会の創造だ」と、その意気込みを示した。

 このとき、私は「人権改革が抜けている。それを含めて7つの改革と言え」と講演などで批判したが、今般の小泉首相にも、「人権改革」がこれからの日本にとって緊急の重要課題という認識がまったく欠如している。このことを私たちはしっかりと見ておかなければならない。


日本の脆弱な人権認識

 橋本内閣、小泉内閣のこうした姿勢は、政府をはじめ日本の政治指導者が、人権改革がこれからの日本にとって避けて通れない必要物になっていることを理解していないという現実を示している。

 これは、「経済は黒字だが人権は赤字だ」と国際的批判をうけてきた日本という国、そして、その一人ひとりの国民(私自身も含めて)の人権に対する認識や自覚が弱いことの反映でもある。そしてこれは、「人権というのは、被差別部落や障害者、在日韓国.朝鮮人といった被差別の人々の問題である。私は部落でも障害者でも外国人でもないので、私には人権問題はありません」といった狭い人権認識に支えられている。

 こういった狭い認識では、「被差別の人は気の毒だ。かわいそうだ」といった同情心(愛やヒューマニズム)、あるいは逆に「被差別の立場でなくてよかった」という安心感、「人権問題は自分には関係ない」とする無関心を生み出すことになる。人権啓発がなかなかすすまないのは、この狭い人権認識という壁に突き当たっているからだ。

 人権はなによりも自分自身の問題であり、一人ひとりの生きる権利であり、自己実現の権利である。そしてそれは人間社会の生活ルールであり、今日では全世界、全人類が平和に共生していくための国際ルール(規範)でもある。だから、人権はすべての人々が守らなければならないものであり、人権侵害や差別はこのルールからの逸脱であるから、加害者は批判され一定の処罰をうけ、被害者は実効的な救済をうけることができなければならないということになる。

 遺憾ながら日本では、修身とか道徳というかたちで社会的ルールが教育されて、人権教育というものはなかった。こうした悪しき伝統が今日なお、人権の国民的な広がりを妨げ、「改革に政治生命をかける」と意気込む小泉首相にもそれが反映しているといえる。


人権に「人類の生き残り」がかかる

 なぜ日本の人権改革が急がれなければならないか。

 私は、2000年10月の部落解放全国研究集会や1999年8月の部落解放.人権夏期講座で、「なぜ今人権か」と題した発表を行った(詳しくはそれぞれの『部落解放』臨時号を参照)。そこで私は次のように主張した。

 今日、オリンピックやスポーツの世界でも人権の視点が強調されるようになっている(オリンピック憲章の根本原則参照)。2十1世紀は「人権の世紀」といわれているが、これは自然にそうなるのではない。「人権の世紀」にしなければ地球人類は滅亡するという危機意識から、これをとらえなければならない。

 戦争を生み出す大きな原因に、利害の対立や交流不足からくる相互不信、そして人種差別や人命軽視が存在している。人権に対する正しい理解と実践こそ世界平和の保障であるとの認識のもと、国連は、世界人権宣言をはじめ数々の国際人権条約をつくり、行動計画を策定してきた。そして、いわばその集大成として「人権教育のための国連十年」を提唱し、人権文化を創造し、地球のすみずみまで人権文化の花を咲かそうとよびかけている。これは、まさに「人類の生き残り」をかけた並々ならぬ決意からである。

 「モノ」の面での万国共通の尺度としてメートル法が採用されたが、国際人権規約や人種差別撤廃条約などの人権諸条約は、まさに「ヒト」の面でのメートル法である。したがって、子どもの基礎学力としてこれまで「読み.書き.計算」がいわれてきたが、ここにもう一つ、人権を加えなければならないということになる。

 経済は「モノ」「カネ」「ヒト」(最近では「情報」が加えられているが)によって成り立つといわれる。戦後日本は「モノ」の国際化には大成功をおさめたが、バブル崩壊後、「カネ」の遅れに頭を打って、あわてて金融ビッグバンなる大改革が打ち出された。これはなんとか目処がついてきたようで、さらに「IT革命」と称して「情報」のほうにもいま大改革が加えられている。しかし、肝心の「ヒト」のほうは「これからだ」ということなのだろうか。どうするのだと言いたい。

 以上のようなこれまでの私の主張をふまえ、以下、人権改革がなぜ急務であるかについて、矢部武氏、坂中英徳氏、井口泰氏の著作を引用しながら展開したいと思う。


差別で訴えられた米国進出企業

 著名な経済評論家の著作は書店にみちあふれているが、人権ビッグバンを訴えるものはほとんど見当たらない。しかし、ジャーナリストの矢部武氏がいた。彼は10年前の1991年2月、弱冠37歳にして『日本企業は「差別」する!』(ダイヤモンド社)という著作を出版していた。彼は著作の冒頭でこう書いている。

 「近年、日本企業の米国進出がさかんに行われている状況のなかで、米国人女性社員や黒人社員の能力を認めようとしない日本人男性ボスが、女性差別.人種差別などを理由とした雇用差別訴訟の標的となっている」「本書では、あえて企業の実名を掲げて雇用差別訴訟の実態を詳細にレポートした」「日本を代表するような一流企業の経営者ですら根強い差別意識を持っている。このことを率直に認め改めないかぎり『日本企業の将来はない』ということを認識してもらいたかったからである」(矢部、11頁)

 私は書店で偶然この本を目にし、立ち読みして、全身がふるえるような感動にとりつかれた。住友商事、ホンダ、日産、松下と、日本を代表する大企業の現地法人の名前が次々に出て、そのいずれもが米公民権法違反、人種差別、性差別で訴えられている実態が報告されているではないか。

 それまで時たま新聞報道で、日本企業が訴えられ、それなりの和解金が支払われていることは知っていたが、これほどまでの実態とはまったくの驚きであった。1980年代に入って大挙して米国に進出した日本企業が、日本的労務慣行をそのままに、米国において労働摩擦、文化摩擦をおこしていたのである。

 この本では、住友商事の中川英彦文書法務部長が「アメリカに進出する日本企業は“郷に入れば郷に従え”の諺どおりに大いなる意識の革命をはからなければなりません」「我々は何も知らないで米国へ進出していったわけです」と語ったことが紹介されている。人権に関する日本と米国の温度差、日本の常識は米国では通らないという現実に頭を大きく打ったということである。

 こうした一連の人権訴訟でいちばん有名になったのが、周知の3菱自動車セクシュアル.ハラスメント事件で、約48億円もの補償金で和解した(1998年6月)。企業にすれば、これでは稼ぎに行ったのか損をしに行ったのか、わからなくなる。この訴訟は日本の経済界に対する大きな衝撃となり、日本の企業がこれまで人権というものをおろそかにし、人権の国際的レベルについて学習もしなければ考慮もしなかったことに猛反省をうながすことになった。


韓国の人権法最終案

 この関連で、お隣の韓国において「人権法最終案」が示され、その成立は時間の問題となっていることに注意を促したい。これを、日本国憲法第14条や昨年末施行された日本の「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」と比べてほしい。

 韓国人権法案第1条は「この法はすべての人に人間としての尊厳と価値を保障するために、政治.経済.社会.文化のすべての領域において、人権侵害を防止.救済し、人権意識を高揚することを目的とする」となっている。

 日本は、ようやく人権教育.啓発の法律が成立し、人権救済については、これから答申を得て立法化を検討していくという段階であるが、これに比べて韓国の人権法案は、一つの法律ですべてを網羅しようとしている。

 人権法案は、第2条で「国民人権委員会は、第1項の規定により、基本方針の遂行に関する国家機関の活動を監視.補完する」と規定し、第3条は「『人権』とは、憲法及び法律で保障されるか、大韓民国が加入.批准する国際人権条約及び国際慣習法で認定する人間としての自由と権利をいう」、第4条は「この法は大韓民国国民と大韓民国の領域内にいる外国人に対して適用する」、第8条(差別行為の禁止)は「誰でも合理的な理由なしに性別(出産または妊娠を含む)、宗教、年齢、障害、社会的身分、人種、皮膚の色、出身国家、出身民族、出身地域、出身学校、容貌などの身体的条件、婚姻の与否、家族の状況、政治的見解に基づき、次の各号のいずれかに該当する行為(以下「差別行為」とする)を受けてはならない」となっている。

 何とすごい規定であろうか。金大中大統領の指導のもと、いま韓国は大きく変わろうとしているが、人権に関しても日本を追い越そうとしているのだ。韓国の動きはすぐにフィリピン.インドネシア.インドへと波及する。アジアの人権への目覚めと日本との温度差の広がりは、アジア諸国においても日本との人権摩擦が激化することを予想させる。もはや日本は、いつまでも人権赤字ではおられなくなるということである。


少子高齢化と外国人労働者問題

 さる2月1日、私は、大阪で新しく生まれた「多民族共生人権教育センター」の設立記念集会に招かれた。記念講演は名古屋入管局長の坂中英徳氏であった。坂中氏は4月30日、近江渡来人倶楽部主催のシンポジウム「人口減少社会の経済と外国人政策」のパネラーとしても出席され、私は氏と懇談するチャンスを2度いただくこととなった。そして、坂中氏の近著『日本の外国人政策の構想』(2001年3月)を手にすることとなり、先に紹介した矢部氏の著書を読んだときと同じような衝撃と感動に身がふるえた。

 日本が成熟社会を迎え、いま急速な少子高齢化の時代に突入していることは周知のことがらである。少子高齢化に関して、年金や介護の問題、倒産する大学や高校が出てくるなどの議論はよく聞くが、これが外国人労働者問題とつながり、多民族文化共生の人権問題とかかわりをもってくることについては、私自身も見通しが弱かったと気づかされた。

 坂中氏は言う。

 <1>「2十1世紀の世界を展望しますと、100億人の大台に向かって人口が爆発的に増加し」「開発途上国から先進国へ向かう『人の大移動』が地球的な広がりをもって展開されることになると予想されます」「それとともに、人口減少時代を迎える先進諸国においては、国家と経済の生き残りをかけての、国際労働市場からの人材獲得競争が激化するものと考えられます」(坂中、7頁)

 <2>「日本人口は、出生率がこのままの低い水準で推移すれば、2007年の1億2700万人をピークに減少に転じ、2050年の1億人を経て、2100年には7000万人を切ると予測されています(国立社会保障.人口問題研究所、1997年1月)。近く日本は、100年間で6000万人、毎年平均して60万人の人口が減っていくと推定される『人口減少社会』に突入することになります」(9頁)

 人口減少時代の日本の生き方として、<3>「その一は、減少した人口規模に相応する『縮小社会』へ移行する」。そして「経済大国」から「経済中位国」へと転換する。つまり「人口減少の流れに沿った、人口規模に合った適正規模の経済と社会に変えていく」(11頁)

 <4>「その2は、日本人口が大幅に減ることになっても」「人口の減少分に見合う人口を外国人人口で補充することによって一定の人口規模を保ち、経済成長の続く『活力ある大きな日本』を目指す」。その結果、「日本列島に太古から住んでいる日本民族と、世界各地から新たにやって来た多様な民族で構成される『多民族国家』になります」(13〜14頁)

 この第2のコースをとった場合、そこに生じる文化摩擦と衝突に、日本社会全体が耐えられるかという懸念を示されたうえで、坂中氏は、「無為無策のまま現状維持を続けることはもはや許されません」と、どちらのコースを選ぶべきか、国民的大論争を展開し、一日も早く日本国百年の計を立てよと訴えられる。


単一民族国家観から多民族国家観へ

 おりしも4月24日、「読売新聞」朝刊に「外国人労働者に期待と課題と」と題する特集記事が出ていた。

 その中で都立大学の中村2朗教授は、「労働力人口の減少は生産性の向上などでは補えないほど深刻になるだろう」「外国人労働力の活用を考えざるを得ない。だが、政府はこれまで社会的コストの負担など、受け入れに伴って顕在化する問題への対応を先送りしてきた。こうした議論を棚上げしたまま、なし崩し的に受け入れを拡大していくのは国際的にも問題だ。早急に本格的な議論を進める必要があるだろう」と述べている。

 一方、労働福祉事業団理事長の若林之矩氏は、「国のあり様にかかわる重要な問題を、労働力人口の減少と経済成長という観点だけで論じるべきではない。労働力の問題は、高齢者と女性の就労促進や、IT投資に伴う生産性向上で対応できる」「受け入れるのであれば文化摩擦などの社会的コスト、永住権、国籍についても事前に方針を決めておく必要がある。こうした点をトータルに議論する場を内閣に作り、長期的に論議を重ねるべきだ」と述べている。

 2人の考え方はちがうが、真剣な議論の必要性という点では共通している。

 冒頭に述べたように、小泉首相の所信表明演説にはこうした問題意識も提起もまったくない。外国人労働者問題は、単一民族国家観(一種の鎖国政策)から多民族国家観(開国政策)へ移行するという日本のあり様の根幹にかかわるテーマであり、そこでは人権改革が避けて通れないにもかかわらず、そのことに小泉首相は気づいていないのである。

 それどころか、不法入国した金正男事件に関する民主党の枝野幸男議員の質問(5月7日)に対して、「入管の人員の増強、監視機器などの整備を指示した」と答えている。外国人に開かれた日本をどうつくるのかという問題意識ではなく、この「美しい日本」をどう守るのかといった発想では、「新世紀維新」を口にする資格に欠けているといわねばならない。


人口減少時代に突入

 今世紀、イギリスをはじめ先進諸国はすべて人口減少時代に突入していくと予想されている。先進国間において一種の人材獲得競争が展開されていく。せっかく日本にやってきた留学生や研修生を失望させ、反感さえもたせて帰国、あるいは他国へ行かせているようではよい人材は集まらない。「日本にきてよかった」と喜んで帰ってもらえるように、留学や研修の制度の大胆な改革が必要である。

 関西学院大学の井口泰教授は、近著『外国人労働者新時代』(2001年3月、ちくま新書)において、次のように指摘されている。

 たとえ数々の改革や施策によって「少子化社会から脱却し、人口減少に歯止めがかかったとしても、2025年より先にならないと、人口変動に目に見えるほどのプラスの影響を与えることはできない」「したがって、新たな外国人労働者政策をうちたてる要請は、少子化の進行を食い止めるべき2025年以降よりは、2025年以前の段階で生じる。この21世紀の25年間は、日本にとって大変な挑戦の時代になるだろう」(井口、193〜194頁)

 これは重要な指摘だ。いまから子どもを生んでも一人前になるには25年かかる。当座の間にあわないということである。国立社会保障.人口問題研究所の人口推計は、一人の女性が生涯で生む子どもの数は1995年で1.42人、これが1999年には1.34人に低下したと発表した(2.1人以上なければ、現状を維持できない)。

 そして、2025年には4人に1人が65歳以上の高齢者となり、15歳以上64歳までの勤労世代との比率が1対3となる。2050年には3人に1人が高齢者となり、勤労世代との比率が1対2となる。現在約8千万人いる生産年齢人口は、2050年には4千万人へと半減する。同研究所はこのように予測している。

 少子高齢化問題は労働力の問題だけにとどまらない。消費(内需)の面にも大変な結果を生み出す。まず、ベビー用品からおもちゃの売れ行きが落ち込み、小学校から大学、そして塾や予備校にいたるまでの生徒減少、やがては結婚式場や新婚住宅、家電などの耐久消費財の需要の減少など、いたるところにマイナス効果を生み出す。今年の京都の「葵祭」にアルバイト学生が集まらず、老人会に急きょ出場を依頼したとの新聞報道(「読売新聞」5月14日夕刊)は実に象徴的だ。

 消費の落ち込みは、フリーターともパラサイト.シングルとも呼ばれる20〜34歳の親同居未婚者の増加(1995年統計で約1千万人)によって、住居や家電製品などの基礎的消費が減少することによっても促進されている。

 一方、高齢化は、将来不安のもと家計貯蓄率を上昇させ、そのぶん消費を縮小させている。長期不況から脱出できない原因は、単に不良債権処理の遅れや金融上の問題だけでなく、こうした消費の落ち込み、つまり「ヒト」の面からも追求しなければいけない。

 なぜ若者はなかなか独立せず、結婚しないのか。なぜ若夫婦は子どもを生まないのか。なぜ先進国の中で日本が少子化で突出しているのか。先進国化、成熟社会では子どもが減少するという一般論ではすまされない日本的事情を深刻に考える必要がある。


人権改革、3つのポイント

 日本の構造改革の中心に「ヒト」をしっかりとすえて、政治、経済、社会、文化、教育のすべての分野に人権改革を断行すること、これなくして日本の将来はないという全国民の合意を一日も早くつくらなければならない。これが私の主張であり、結論である。

 その要点を3点、提起したい。

<1>男女共同参画社会への移行

 男社会から真の男女共同参画社会への移行である。その根本は、子育てと対立するような現在の雇用システムの大改革である。これまでの経済至上主義、家庭の崩壊、共働きと子育ての対立、女性がフリータイムで働くほど出生率がマイナスとなるような日本型雇用システムの構造改革である。

<2>自立と自己実現を支援する社会への転換

 「イエ」型.「集団」型社会から「個」を解放し、一人ひとりがもっている潜在能力を引き出し、自立と自己実現を支援する社会への転換である。個の確立、個性の尊重は、多様性の認識と容認となり、他者への配慮と共生へとつながる。個人主義と利己主義を正しく区別して、人権を身勝手だと規制するのではなく、自己は他者とのつながりによって、すなわち社会によって生かされているという認識を啓発することによって、「個」と「公」を正しく結びつけていく人権教育.啓発を促進する。そして、戸籍制度の廃止、民法の差別条項の撤廃、気安く行ける人権相談所設置をはじめとする人権擁護システムを構築する。

<3>多民族.多文化共生社会への転換

 多民族.多文化共生社会にむけ、全面的な制度改革を大胆に実行すること。

 日本のこれまでの外国人観を転換し、多様な価値観、多様な文化を認め合い、共生していく社会に変革する。その転換のないままの安易な外国人受け入れは、民族対立、文化摩擦を産み出し、大混乱となる。国籍、民族的出身を問わず、すべての人の機会均等を保障し、努力した人が正当に評価される内外人平等の原則を確立する。

 そして、本人の意思にもとづいて、定住→永住→国籍取得(同化ではなく、その文化やアイデンティティを認める人権保障的統合)が段階的に行われるような外国人受け入れ制度を確立する。それは、家庭、学校、職場、地域社会、さらには国レベルにおいて、「住めば都」となり「日本に骨を埋める」となり、日本人と外国人が協力し合って内外人平等のもとに人権のまちづくり、ムラおこしをやっていくような、まさに地域社会に人間らしい共生の地球社会をつくっていくような方向でなければならない。

 また、一部経済界にみられるような、労働力不足を補うためだけの利用主義的な人的開国や、日本の都合だけによる一方的取り込みではなく、外国経済の発展に貢献するような人的育成をはかることなどが重要で、とくにアジア諸国との連帯のもと、将来の経済地域統合の展望をもった施策が必要となる。


 とりあえず、以上の3点を日本の人権改革の根幹として提起し、21世紀に日本がとるべき方向と第3期の部落解放運動をより豊かにしたいと考える。政府がとりくまない日本の人権改革を下からの力で前進させているわれわれの努力と、いわば在日の先輩として日本に永住している在日韓国.朝鮮人の人々の日本社会での辛酸の思いを結合し、多民族共生社会をつくるにあたって何が問題なのか、どこを直す必要があるのか、日本社会はどう変わるべきなのかについて、さらに議論と認識を深めていきたいと思う。