講座・講演録

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第15回人権啓発研究集会2月15日(木)より

地域に密着した人権の構築を
−地域文化の再発見−

報告者:上田 正昭(世界人権問題研究センター理事長)

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●はじめに

 いよいよ21世紀が幕を開けました。皆さんそれぞれのお立場で、20世紀はどういう時代であったか、整理をしておられると思いますが、私は次の3つはぜひ確認しておきたいと思っています。

 第1は、第1次世界大戦、第2次世界大戦という名称が象徴しておりますように、地球全体が戦争の渦に巻き込まれたのが20世紀でありました。18世紀、19世紀にも、各地で戦争がありましたが、世界全体が戦争の渦に巻き込まれたのが20世紀でした。20世紀は残念ですけれども戦争の世紀と言わざるをえないのです。

 第2には、自然が破壊され、地球の汚染が進行し、人類そのものの生存が危うくなっています。そればかりではない。民族が対立し、宗教が争う。そして今、私が話をしているこの瞬間にも、たくさんのいわゆる難民のみなさんが飢えに苦しみ、病気に倒れ、死んでいっている。難民はこの地球に2,200万人を越えて存在しています。20世紀は人権受難の世紀であったと総括すべきです。

 第3は、20世紀の世界の政治、経済、文化をリードしたのは欧米であり、20世紀は欧米中心の世紀であったと私は考えています。アジアがその輝きを世界に評価されなかった世紀であり、独自の輝きを喪失した世紀であったと思っています。

 このように整理しますと21世紀の宿題として、本当に国境、民族の対立、宗教の対立をこえて、全人類が平和になる世紀をどのように築いていくべきか、人権の文化が輝く世紀をどうすれば構築できるか、アジアがその輝きを発揮する世紀をどのように実現するかという宿題がうかんでまいります。

 1948年、第3回国連総会は世界人権宣言を採択しました。したがって、世界の良識はこの世界人権宣言の内実化、実際に効力を発揮するために1966年の第21回国連総会以後、国際人権規約をはじめとする、23の人権に関する国際法をつくってまいりました。

 わが国も、大平内閣の時、国際人権規約を、保留条項をつけていますが、衆参両院で批准いたしました。まぎれもなく、わが国は国際人権規約加盟国になりました。子どもの権利条約、女性差別撤廃条約のほか、難民条約、人種差別撤廃条約など多くの条約がありますが、国連に代表される世界の人権に関する動向をしっかり考えておく必要があります。

 教育に関してはユネスコの動向を忘れてはなりません。ユネスコはフランスのパリに本部があります。その事務総長は、松浦・前フランス大使が就任しています。世界遺産条約、これの登録を決定している機関はユネスコです。学習宣言をはじめ人権に関する教育、文化の問題を提起してきたのはユネスコです。
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●人権文化とはなにか、共生とはなにか

 いま、流行語のように使われているのが人権文化という言葉です。1994年、第49回国連総会が国連の人権教育10年の決議をいたしました。そして国連の事務総長が行動計画を報告いたしました。その中で初めて、人権文化という言葉が使われました。しかし、その定義は人類の「普遍的文化」とあいまいです。

 これから申し上げることは、私の誤解かもしれません。私の危惧であればそれでよろしい。いま、国連で申している人権の規定のひとつには、個人の尊厳、個性の尊重が重要な柱になっています。もうひとつは人権の普遍性、これが非常に強調されています。

 人権文化というけれども、いま両極に分化しつつあります。その中間が抜けているのではないか。その中間に何がいるのか。それが、地域です。個人と普遍の中間にコミュニティ、家庭も入りますし、学校も、それぞれの地域社会も入ります。個人の尊厳、個性の尊重、人権の普遍性はもちろん大事ですが、人間それぞれが生きている場所ですね。コミュニティを常に見つめ直して、地域の中で人権の文化の花を開かせるということをしっかり考えていく必要があるではないかと思っているところです。
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●分権の時代とは

 21世紀は、しばしば分権の時代といわれています。事実、自治体のみなさんはそれぞれに分権の問題をお考えになっていると思います。地方分権一括法が施行されています。この法律はなお不十分だと思っています。

 明治4年、1871年、廃藩置県がおこなわれました。明治4年以降、日本の政治は中央集権体制ができたのですが、昨年の4月に初めて、地方分権一括法が具体化しました。私は「地方の時代」という言い方には批判的です。そもそも地方なんて言葉を使っていて、地域の活性化が内実化するはずはありません。私の論文や著書を見て下さい。中央という言葉を意識して使っていないんです。明治以降の地方という言葉は、中央を前提にしている言葉です。

 1974年の4月、読売新聞の全国版に「中央史観の克服」というテーマで書いたことがあります。日本の歴史や文化を見るときに、都を中心に考える。平安時代の歴史だったら京都の都から考える。奈良時代だったら奈良の都から考える。初めに中央ありきと歴史をみる考え方は間違っています。それぞれの地域に立脚して、そして日本を考える。アジアを含む世界を考える。ローカルであってしかもグローバルな考え方です。それを略して、「グローカル」という言葉を、20数年前から使ってきました。

 今から17年前、島根県の斐川町で、荒神谷遺跡という名前をつけちゃったんですが、銅剣358本が出ました。あれは神庭(かんば)というところなのです。私は、最初から神庭遺跡とよんできました。これは古代の地名です。遺跡の名前を考古学者はきちっとつけなくてはいかんですね。

 最近では神庭荒神谷遺跡と表記していただくようにしています。ここから銅剣が358本も出た。腰も抜けるような大発見なんです。弥生時代の銅剣、全国のものを全部集めても約300本です。翌年、銅鐸が6個、銅矛が16本、そして1996年、加茂町岩倉で銅鐸が39個、これまで出雲でみつかっている銅鐸をあわせますと、51個になります。全国でいちばん銅鐸が出たところが出雲です。今までの考古学の先生はどう言ったか。大和を中心とする銅鐸文化圏、北九州を中心とする銅剣、銅矛、銅戈文化圏、その交わる接点に出雲がある。こういう考え方が中央史観です。

 出雲はたんなる辺境ではありません。例えばアイヌの問題を東京の霞ヶ関から考えていたのではあかんのです。外から沖縄を論じている姿勢で、沖縄県民の痛み、悲しみ、苦しみがわかるはずがないでしょう。中央から見ることも一定の意味がありますけれども、それだけでは複眼で見定めたことにはなりません。

 地方分権という言葉自体、中央を前提にする言葉です。こんなことで、地域が生き生きと輝く時代は来ません。国と地域が対等で、お互いに補完しあう。これでこそ地域の時代が来ると私は考えています。
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●地域に即した人権文化の創造

 最近、リージョナル・アイデンティティという言葉をアメリカの学者たちが使いだしている。地域意識における主体性です。これはグローバリズムに対するアンチテーゼとして出てきています。国をこえ、イデオロギーをこえ、民族をこえる。それはそれで大事なのです、そうした普遍性は大事なのですが、それだけにとどまると観念論になってしまいます。そういう意味で、地域に密着した人権の構築がますます必要ではないか。

 事実、部落解放運動ではそうした動きがはじまっています。たとえば、大阪の解放会館があります。解放会館がそれぞれの地域の人権文化センターに動きだしています。また、京都では、京都府全域における「人権ゆかりの地」をほりおこす。舞鶴には舞鶴の、亀岡、綾部、福知山にもそれぞれの地域の「人権ゆかりの地」をとりあげ、すでに6冊のシリーズが出版されています。

 最後に、私の著作集の第6巻には、部落問題、沖縄の問題、在日韓国朝鮮人の問題、アイヌの問題、遠く蝦夷の問題などについて、歴史学者として取り組んできた論文を収めました。題をつけるのに「人権文化の創造」としました。ですから、私なりの「人権文化」の定義がいります。

 私はあえて、「命の尊厳を自覚し、人間が自然とともに幸せを築いていく、その行動とみのりが人権文化である」と定義しました。私の人権文化論には自然も入っているのです。自然の中に人間は生きている。山も川も、草も木も、鳥も獣も、人間も、ともに共生するという人権文化をめざすべきであるという考えが私にはあるのです。

 個人の尊厳、さらに文化の普遍性はもちろん大事です。そしてその中間ともいうべき地域に立脚して、人間の幸せを築いていくんですけれども、人間だけのエゴで人権を論じる時代はもう過去の遺物です。自然の中の人間を忘れてはならない。そのような人権の文化を地域に立脚して創造したいと考えています。