講座・講演録

部落問題・人権問題にかかわる講座情報、講演録を各カテゴリー毎にまとめました。

Home講座・講演録 > 本文
講座・講演録
 
第204回国際人権規約連続学習会(2000年2月25日
世人大ニュースNo.211 2000年3月10日号より

生命科学と人権〜ユネスコ
「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」を素材として

位田 隆一さん(京都大学大学院法学研究科教授、ユネスコ国際生命倫理委員会委員長)

------------------------------------------------------------------------

生命科学、ヒトゲノムとは

 「生命科学」というものは皆さんにとってなかなか人権と直結させて考えにくい問題かも知れないが、これに今後の我々の命や生活がかかっているといっても過言ではない。
 生命科学とは、「ライフ・サイエンス」ともいわれ、人間を含む生物が営む生命現象のメカニズムを解明する科学を意味する。この科学分野は、特に1970年代前半からの遺伝子工学の発展を機に発展してきた。

 ご承知の通り人の遺伝子は、細胞の上に二重らせんで構成された23対の染色体が乗っている形になっている。この二重らせんの部分がDNAである。このDNAはA、T、G、Cという4つの塩基の組み合わせで構成されており、その組み合わせが生命現象に対する何らかの情報をもっている。例えば癌の遺伝子といわれる組み合わせがあるが、それはあるパターンの組み合わせが癌を発症させるというよりも、そのパターンの遺伝子を持つ人が癌を発症しやすいという、情報を表わしているのである。

 この塩基の組み合わせの総体がゲノムと呼ばれる。生物学上の種としての人間の遺伝子の総体を表わすと「ヒト」の「ゲノム」だから「ヒトゲノム」となり、他の種の場合は「サルゲノム」や「イネゲノム」になる。

 70年代の前半にこうした二重らせん構造や塩基の組み合わせの存在が発見され、ヒトゲノムの全てが分かれば人間の身体の全てが分かるようになるということが解明された。つまり、ゲノムが生命の設計図だということが分かったのである。そしてゲノムの解明という生物学の取り組みを医学へ応用していこうとする動きが、この頃から徐々に進められていった。こうした動きは90年になってヒトゲノムの全てを解明する「ヒトゲノム計画」として米国で本格的に打ち上げられ、日米欧の国際共同研究として今日に続いている。

 ただここで注意してもらいたいのは、ヒトゲノムが人体の設計図であるといっても、そこに記されていることが宿命的に必ず現実になるということではないという点である。例えば癌の遺伝子と呼ばれる遺伝子パターンを持っていても、同時にそれを抑制する遺伝子があれば発症する可能性は低くなる。また癌の遺伝子だけを持っていたとしても、癌になりにくい環境で生活すれば癌にならずにすむかもしれない。だからこそ遺伝子情報を宿命のように捉えるのではなく、医学へ応用しようというのである。

ヒトゲノムを取り巻く状況

 今日ヒトゲノム計画の解析作業は着実に進み、その医学への応用も行われている。しかしヒトゲノムを解析することは病気の予防だけでなく、それとは違う副産物も生み出す。例えば遺伝子によってその人の人種や民族が分かり、その人と肌の色の違う人との間に子どもができた場合にその子どもの肌の色が何色になるかということも、客観的な情報として分かるようになる。またその情報を悪用して特定の遺伝子を持つ人間を誕生させようとする、あるいは逆に障害をもたらす遺伝子を持つ人間を誕生させないようにしようとする優生思想を実現させることにもなるのである。

 ヒトゲノムの解析は科学の問題である。しかしその解析した結果から何らかの社会的な問題が生じてくるのならば、単に解析すればよしとするのではなく、そこから生じてくる問題についても十分に考えておかなければならない。そこでヒトゲノム計画では、同時に倫理的、法的、社会的な問題についても力を割いていくようになった。

 これはヒトゲノムについての話だが、これに似たものとして人工受精や体外受精、代理母などの問題もある。ここで詳しく説明はできないが、要するにどちらの問題も科学の進歩、とりわけ生命科学の進歩に対して社会がどのような態度をとるのかということが問われているのではないだろうか。

 欧州では早くから生命科学の医学への応用に懸念が持たれており、独・英・仏では90年代初めからそれらに関する法律が作られている。またヨーロッパ人権条約を作ったことで知られる欧州審議会では、一連の人権文書の1つとして、96年に生命医学と人権に関する欧州条約が採択されている。

 一方国際機関でも同様の取り組みがなされている。ユネスコでは93年に国際生命倫理委員会が設置され、そこでの議論をもとに97年にユネスコ総会で「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」(以下「ヒトゲノム宣言」とする)が採択されている。ユネスコはヒトゲノムの研究と応用を対象としているが、WHOでは医学への応用を主眼に据えた「遺伝子医療に関するガイドライン(案)」の策定が進められている。

 こうした各国・国際機関による取り組みの流れの中で一般に出てくる考え方が、生命倫理である。これはもともと米国で医者と患者の関係がどうあるべきかを規律するために生まれた医療倫理という考え方を基礎としており、それを急速に発展してきた生命科学の分野にも広げていったものである。生命倫理が確立されている欧米においては医者が患者に対して病気や治療についての説明をし、患者がそれに納得して治療を受ける(インフォームド・コンセント)という関係が成り立っている。これに対して日本では、医者と患者の関係を規律する議論はこれまでほとんどなされず、医者が全てを決定し患者がそれに従うという関係が一般的であった。

 このように基礎となる医療倫理さえ十分に確立されていなかった日本で生命倫理に関する議論が行われるようになったのは、ここ数年のことである。とりわけクローン羊の誕生が世界的な関心事となり、97年デンバーでのサミットでクローン技術の人への応用を禁止する宣言が出されて以降のことで、首相の諮問機関に生命倫理委員会が設置されたのが最初といえるだろう。そして今日やっと活発な議論が行われるようになったのである。
 ではこの医療倫理から出発してきた生命倫理とは一体何か。一言でいえば、「人の尊厳と人権に基礎を置いた、人の生命をめぐる学際的研究と実践」と考えてもらえばいい。そしてその基本原則となるのが、‡@人の生命は神聖である、‡A人の生命は平等である、‡B人が人の生命を左右してはならない、という3つの柱である。

ユネスコ「ヒトゲノム宣言」

 97年にユネスコが採択した「ヒトゲノム宣言」は、前文と25条からなる比較的短いもので、その柱となるのは人間の「尊厳」と「人権」である。ここでいう「尊厳」は他の動物とは異なった人類としての尊厳と、個人1人1人が尊重されるという尊厳の両方の意味が含まれる。そしてこの「尊厳」をもう少し具体的な法のルールに投影したものが「人権」として位置付けられている。

 宣言ではまずその理念を第1、2条で提起している。それは要するに、人間を他の動物ではなく人間たらしめているのはゲノムであって、そこに記されている個々の尊厳と多様性を尊重しなければならない。そしてヒトゲノムを人類の遺産として捉え、その人工的な改変を絶対的に禁止しなければならない、ということである。

 以上のような理念を受け、第5条以下で具体的な人権保護の規定がなされている。これは大きく見ると研究される側の人権と、思想の自由としての研究の自由という人権とが対峙する形で述べられている。つまり科学としてヒトゲノムを研究する自由は尊重されなければならないが、それは同時に研究される人の人権を左右するものであるために一定の制限が必要だという考え方である。そこで明確に制限するものとして、第11条で人の尊厳に反することがあげられている。これはクローン技術の人への転用の禁止や、卵子及び精子への遺伝子操作の禁止、あるいは遺伝子治療を行う際にも患者の十分な合意を得た上で、かつ法律で認められている範囲内でこれを行わなければならないという制限である。

 また個人ならびに集団の人権は研究の自由に優位すること、研究によって明らかになったことは個人と結び付いた情報以外は全て公開しなければならないということも規定されている。ヒトゲノムの研究は科学である以上そこで明らかになった結果を公表するのは当然であるが、個人の情報については本人に知らせるについても一定の基準を設けている。

 それはインフォームド・コンセントと呼ばれる「事前の自由意思による、十分な説明を受けた上での同意」の必要性である。つまり遺伝子検査・診断・治療、そしてそれをもとにした研究に関する全ての決定権は患者、被検者にあり、それらの内容を知る権利・知らない権利も含めて、インフォームド・コンセントが必要であるということだ。言い換えれば、研究者と個人との間にこういった関係が必要であるということを示しているともいえるだろう。

 研究で明らかになった結果を公表する場合、その情報の扱い方が、特に人権の観点から重要になってくる。なぜなら遺伝的特徴が差別につながることがあるからである。遺伝子検査の結果将来生まれてくる子どもの遺伝的特徴が事前に分かり、それがもとで結婚差別が起きるかもしれないし、将来発症する病気が分かったために子どもの進路が不当に制限されるかもしれない。また無断で行われた遺伝子検査によって就職や保険への加入の際に差別を受けたという事例が、すでに米国では実際に起こっている。従って、ヒトゲノムの研究によって今後多くのことが明らかになっていくだろうが、それに付随して発生するこれらの問題への対応も早急に議論していかなければならないといえる。

生命倫理と人権

 先にも触れたが、今日の日本では欧米のような生命倫理についての議論はまだ十分になされていない。私は生命倫理が確立されていない社会では人権は語れないのではないかと思っている。人権とは確かに生きている人をどうするのかという話だが、生きるということは生まれるところから始まって死ぬところまで続いていくのだから、生命倫理、さらには「生」と「死」の尊厳をどう捉えるのかについて、今からでも真剣に考えていくべきではないだろうか。

 しかしだからといってそこを強調し過ぎれば、研究を抑え込んで医学の進歩を遅らせることになってしまう。つまりはその両者の折り合いをどこでつけるかが最も難しい問題だといえる。従ってどこまでを研究し、どこからを生命の尊厳として冒してはならないとするかという日本社会のコンセンサスを明確にするために、国民的な大きな議論が必要だと私は考えている。

 こういった議論をせずに人権についてばかり考えても意味がないのではないだろうか。それは人権について考えるなという意味ではない。人権について考えるのならばそこまで考えてもらいたいと思っているということである。