グローバル化と市民生活
〜世界貿易機関(WTO)の進める貿易・投資の自由化は、世界の民衆に何をもたらすのか?
佐久間 智子さん(市民フォーラム2001・事務局長)
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これまでWTO(世界貿易機関)の問題はどちらかというとマイナーなイメージを持たれていたが、昨年末にアメリカのシアトルで行われたWTO閣僚会議後、日本でも徐々に関心が持たれるようになってきた。今日は、我々NGOがなぜWTOを監視するのか、WTOを監視している市民、NGOの状況はどうなっているのか、またWTOとはどういった組織で、それは今後どうなっていくのかについて話したい。
なぜWTO問題に取り組むようになったのか
まず、私が属している「市民フォーラム2001」というNGOの紹介と、そこがWTOの問題に取り組むようになった経緯から話したいと思う。
市民フォーラム2001は、東京に事務所を置く有給専従スタッフ3人の小さな組織である。もともと1992年に開催された国連環境開発会議(地球サミット)を日本国内でフォローアップし、同時に海外の市民活動との連携の窓口となることを目指して93年に発足した。従って環境・開発NGOの小さなネットワークとしてスタートしたのだが、その取り組みは早くも95年頃にはつまずいてしまった。
地球サミットでは、例えば環境問題は個別の問題だけでなく、あらゆる環境の相互連関性の中で施策を考えなければならない、あるいは国家間、世代間に公平な環境・開発施策を実施していかなければならない、といった立派な内容の宣言が採択されている。これ以降世界は環境・開発の問題にも徐々に注目するようになるのだが、それ以上に世界的な大きな課題があった。それが貿易・投資の自由化である。言い換えれば地球サミットは、90年代以降活発化してきた貿易・投資の自由化の趨勢の中で行われていたのである。
これは一体何を意味するのか。国境を越えた企業活動の広がりは加速する一方で規制もできず、多国籍企業はより規制の甘い地域へ活動、投資を広げている。そのような状況下でいくら地球サミットが環境・開発問題に対して立派な意見を提言しても、一向に対策は進まないどころか、南北間だけでなく先進国の国内においてまでも経済格差を生み出してしまっている。つまり環境や開発の問題の根本的な原因は人間の経済活動にあり、貿易・投資の自由化の問題を放置して環境・開発の問題は前には進まないという事実が明らかになったのである。しかし地球サミットが提言した事柄の中にはそれらに対する具体的な内容は一切含まれていなかったために、我々の活動もつまずいたのだった。
こういったことが明らかになった95年に大阪ではアジア太平洋経済協力会議(APEC)のサミットが開催され、それに合わせて京都ではNGOフォーラムが開催された。このとき我々は初めて地球サミットで具体化されなかった貿易・投資の自由化の問題を、温暖化・エネルギー問題とともに中心課題とした。ここから我々のWTO問題への取り組みが始まったのである。
シアトルに集まった人々
?る優生思想を実現させることにもなるのである。
ヒトゲノムの解析は科学の問題である。しかしその解析した結果から何らかの社会的な問題が生じてくるのならば、単に解析すればよしとするのではなく、そこから生じてくる問題についても十分に考えておかなければならない。そこでヒトゲノム計画では、同時に倫理的、法的、社会的な問題についても力を割いていくようになった。
これはヒトゲノムについての話だが、これに似たものとして人工受精や体外受精、代理母などの問題もある。ここで詳しく説明はできないが、要するにどちらの問題も科学の進歩、とりわけ生命科学の進歩に対して社会がどのような態度をとるのかということが問われているのではないだろうか。
欧州では早くから生命科学の医学への応用に懸念が持たれており、独・英・仏では90年代初めからそれらに関する法律が作られている。またヨーロッパ人権条約を作ったことで知られる欧州審議会では、一連の人権文書の1つとして、96年に生命医学と人権に関する欧州条約が採択されている。
一方国際機関でも同様の取り組みがなされている。ユネスコでは93年に国際生命倫理委員会が設置され、そこでの議論をもとに97年にユネスコ総会で「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」(以下「ヒトゲノム宣言」とする)が採択されている。ユネスコはヒトゲノムの研究と応用を対象としているが、WHOでは医学への応用を主眼に据えた「遺伝子医療に関するガイドライン(案)」の策定が進められている。
こうした各国・国際機関による取り組みの流れの中で一般に出てくる考え方が、生命倫理である。これはもともと米国で医者と患者の関係がどうあるべきかを規律するために生まれた医療倫理という考え方を基礎としており、それを急速に発展してきた生命科学の分野にも広げていったものである。生命倫理が確立されている欧米においては医者が患者に対して病気や治療についての説明をし、患者がそれに納得して治療を受ける(インフォームド・コンセント)という関係が成り立っている。これに対して日本では、医者と患者の関係を規律する議論はこれまでほとんどなされず、医者が全てを決定し患者がそれに従うという関係が一般的であった。
このように基礎となる医療倫理さえ十分に確立されていなかった日本で生命倫理に関する議論が行われるようになったのは、ここ数年のことである。とりわけクローン羊の誕生が世界的な関心事となり、97年デンバーでのサミットでクローン技術の人への応用を禁止する宣言が出されて以降のことで、首相の諮問機関に生命倫理委員会が設置されたのが最初といえるだろう。そして今日やっと活発な議論が行われるようになったのである。
ではこの医療倫理から出発してきた生命倫理とは一体何か。一言でいえば、「人の尊厳と人権に基礎を置いた、人の生命をめぐる学際的研究と実践」と考えてもらえばいい。そしてその基本原則となるのが、‡@人の生命は神聖である、‡A人の生命は平等である、‡B人が人の生命を左右してはならない、という3つの柱である。
ユネスコ「ヒトゲノム宣言」
97年にユネスコが採択した「ヒトゲノム宣言」は、前文と25条からなる比較的短いもので、その柱となるのは人間の「尊厳」と「人権」である。ここでいう「尊厳」は他の動物とは異なった人類としての尊厳と、個人1人1人が尊重されるという尊厳の両方の意味が含まれる。そしてこの「尊厳」をもう少し具体的な法のルールに投影したものが「人権」として位置付けられている。
宣言ではまずその理念を第1、2条で提起している。それは要するに、人間を他の動物ではなく人間たらしめているのはゲノムであって、そこに記されている個々の尊厳と多様性を尊重しなければならない。そしてヒトゲノムを人類の遺産として捉え、その人工的な改変を絶対的に禁止しなければならない、ということである。
以上のような理念を受け、第5条以下で具体的な人権保護の規定がなされている。これは大きく見ると研究される側の人権と、思想の自由としての研究の自由という人権とが対峙する形で述べられている。つまり科学としてヒトゲノムを研究する自由は尊重されなければならないが、それは同時に研究される人の人権を左右するものであるために一定の制限が必要だという考え方である。そこで明確に制限するものとして、第11条で人の尊厳に反することがあげられている。これはクローン技術の人への転用の禁止や、卵子及び精子への遺伝子操作の禁止、あるいは遺伝子治療を行う際にも患者の十分な合意を得た上で、かつ法律で認められている範囲内でこれを行わなければならないという制限である。
また個人ならびに集団の人権は研究の自由に優位すること、研究によって明らかになったことは個人と結び付いた情報以外は全て公開しなければならないということも規定されている。ヒトゲノムの研究は科学である以上そこで明らかになった結果を公表するのは当然であるが、個人の情報については本人に知らせるについても一定の基準を設けている。
それはインフォームド・コンセントと呼ばれる「事前の自由意思による、十分な説明を受けた上での同意」の必要性である。つまり遺伝子検査・診断・治療、そしてそれをもとにした研究に関する全ての決定権は患者、被検者にあり、それらの内容を知る権利・知らない権利も含めて、インフォームド・コンセントが必要であるということだ。言い換えれば、研究者と個人との間にこういった関係が必要であるということを示しているともいえるだろう。
研究で明らかになった結果を公表する場合、その情報の扱い方が、特に人権の観点から重要になってくる。なぜなら遺伝的特徴が差別につながることがあるからである。遺伝子検査の結果将来生まれてくる子どもの遺伝的特徴が事前に分かり、それがもとで結婚差別が起きるかもしれないし、将来発症する病気が分かったために子どもの進路が不当に制限されるかもしれない。また無断で行われた遺伝子検査によって就職や保険への加入の際に差別を受けたという事例が、すでに米国では実際に起こっている。従って、ヒトゲノムの研究によって今後多くのことが明らかになっていくだろうが、それに付随して発生するこれらの問題への対応も早急に議論していかなければならないといえる。
生命倫理と人権
先にも触れたが、今日の日本では欧米のような生命倫理についての議論はまだ十分になされていない。私は生命倫理が確立されていない社会では人権は語れないのではないかと思っている。人権とは確かに生きている人をどうするのかという話だが、生きるということは生まれるところから始まって死ぬところまで続いていくのだから、生命倫理、さらには「生」と「死」の尊厳をどう捉えるのかについて、今からでも真剣に考えていくべきではないだろうか。
しかしだからといってそこを強調し過ぎれば、研究を抑え込んで医学の進歩を遅らせることになってしまう。つまりはその両者の折り合いをどこでつけるかが最も難しい問題だといえる。従ってどこまでを研究し、どこからを生命の尊厳として冒してはならないとするかという日本社会のコンセンサスを明確にするために、国民的な大きな議論が必要だと私は考えている。
こういった議論をせずに人権についてばかり考えても意味がないのではないだろうか。それは人権について考えるなという意味ではない。人権について考えるのならばそこまで考えてもらいたいと思っているということである。
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