講座・講演録

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第216回国際人権規約連続学習会(2001年3月16日
世人大ニュースNo.224 2001年4月10日号より

イラストを通して人権を考える
〜人権ポスターの制作に込める思い〜

黒田征太郎さん(イラストレーター)

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今日ここへ来たきっかけ

 僕は今62才なのだが、正直言って日常から人権を考えている人間ではない。そんな人間が今日、ここに呼んで頂いたきっかけについてまず話したい。

 僕はもう一人の相棒と町工場規模のグラフィックデザイン制作作業場を30数年やっているのだが、そこでも時流には逆らえずデジタルの会社を作った。その会社の案内状の文章の中で「デジタル関係は殆ど分かりませんが、“めくら蛇に怖じず”の性格でやっていきますので…」と僕は書いてしまった。僕自身は何の呵責もなく「めくら蛇に怖じず」という言葉を使ったのだが、それに対して「視力障害者に対するマイナスイメージを拡大するもので、めくらという言葉も視覚障害者に対する差別語である」という指摘のファクシミリを友永さんからもらった。

事務所の方は、この言葉を使ったことを謝る文章を出そうと言ってきたが、僕は二つの思いがあって揺れていた。一つは「めくら」という言葉も使って良いのではないかということ。なぜなら僕の中で「めくら」という言葉には人を貶めたり、差別するようなニュアンスはなかったからである。そしてもう一つは、簡単に謝るなよという気持ちだ。そこで早速友永さんに手紙を書いた。 

まずはそういった事実があることを学習させて下さったことに対して、「ありがとうございます」と。言葉の撤回はしないけれども、もしいろいろなことを学習させて頂けるのなら僕たちは話し合っていきたいと思っていると伝えた。62才にもなって勉強というのはおかしいかもしれないが、僕は62年生きてきて分からないことばかりである。だからこの機会に、僕が「めくら」という言葉を発したときにそれが世の中にどう転がっていくのかを納得するまで見極めたいと思った。こういった僕と友永さんとの手紙のやり取りの延長線上で、今日ここに呼ばれたわけである。

黒田征太郎を解剖する

 次に自分自身をここで解剖してみたいと思う。

僕は昭和14年(1939年)の1月に当時芸者をやっていた母親と、もとは九州で炭鉱夫をやっていた父親との間に生まれたらしい。両親が大阪で知り合って結婚という形を取らずに僕は生まれ、5才までミナミの路地裏で暮らした。その後は西宮の夙川に移り、戦争の激化で滋賀県の農村に疎開ということで移り住むようになった。父には本妻がおり、たまに来る酒臭い男が父親だった。だから父と母と僕と兄弟が一緒に過ごす「親子」の暮らしがあるわけではなく、僕にとってはそうした暮らしこそが当たり前であった。また父親が軍事工場で勤めていて、僕自身も国民学校に通っていたために「大日本帝国万歳」というのも当たり前の環境で育った。

 終戦の翌年に父が死に、残された家族7人はそのまま滋賀県の疎開先で暮らすことになった。そして母親が住込みの仕事をするようになり、お婆ちゃんと子どもだけの暮らしが始まった。当時の記憶としては、お婆ちゃんは死んだ父を恨んでいて、僕がその父に似ていたのだろう、僕はよくお婆ちゃんに責められていて、そのせいで僕自身も父を逆恨みしていたことを覚えている。 

また、何の縁もゆえんもなくそこに住み着いた僕らに対して、地元の人々は友好的ではなかったように記憶している。やはり当時は食べ物を持っている人が一番であって、そうでない僕たちはどうしてもひがんでしまったり、何気ない言葉に傷ついてしまったりしていた。「お百姓さん」を馬鹿にしていた都会の者が帰る所や食べる物がなくて右往左往している姿を見て、少しは地元の人たちも気持ち良かったのではないだろうか。

それぐらい「お百姓さん」が虐げられていた状況が当時はあり、それは今も続いているのではないかと僕は思う。先の「めくら」という言葉と同じように、この「百姓」という言葉は今でも生きている。だからこそ「百姓」と言われることで面白くないと思う人がいるわけであって、それが今も昔もごく自然に僕たちにかぶさってきていると身に染みて感じているし、「めくら」とよばれることに不快感を抱く人がいることに思いをます必要があると思っている。

結局僕はこういった環境の中で場所、境遇、家庭の全てが嫌になり、バックボーンを持てないために何においても自信の持てない、自分の殻に閉じこもりがちな少年になってしまった。そんな僕にも唯一自己確認ができるような楽しみがあった。それは絵を描くことだった。

 だが自分を解放していたはずの絵を描くことが、ある日苦痛に変わっていった。それは絵が学問になり、写生としてそっくりに描くことが求められるようになってからだ。今でも僕は人に押しつけられることを非常に嫌う体質なのだが、そういったことを苦痛に思うのはみんなに共通していることではないだろうか。なぜなら「人」というのは本来、ひとつの命として生まれてくる。その「命」という種は、自ずから生きていくものであり、しかも自分の思う方へ伸びていこうとするものである。

それはわがままよりもっともっと以前の問題だと僕は思う。一つの物に対して人それぞれの見え方は違うはずで、それを突き合わせていくことでコミュニケーションが始まる。それをおざなりにして同じ絵を描かせるのが当時の教育であって、今もそういう教育はほとんど変わってないのではないだろうか。また、それをクリエイティブな教育とは呼べないと僕は思う。 

僕はその後学校には行かなくなり、学校を通り過ぎた所にあった小さな山へ行って、そこを自分の学校にしていった。 

絵を描きたい

それから僕は手塚治虫さんに共鳴して漫画に興味を持つようになったが、やはりずっとうつうつとし、神経を針鼠のようにけばだてたまま少年時代を過ごして、母に言われたまま高校生になっていた。しかし自分の中ではいつも精神的に追い詰められている場所から逃げたい、誰も僕のことを知らない所へ行ってしまいたいという気持ちがあった。そしてその気持ちがある日現実化して16才で家出し、横浜で船乗りになった。

米軍の下請けの船に一番下級の船員として乗り、アジアの国々を兵員や武器・弾薬の輸送して回ったのである。当時の船乗りというのは非常に厳しい縦社会で、子どもだった僕は毎日のように殴られていて辛かったが、それでも楽しかった。なぜなら毎日3度食べることができて、誰も僕を追いかけてこなかったからだ。

しばらくして船を降り、大阪の釜ヶ崎での労働生活を経て、ミナミでキャバレー勤めをするようになった。そして後に水商売を辞めて、やくざまがいの日々を過ごすようになった。

 だがそんな生活をしていても描くことが好きであるのには変わりなかった。描きたいという気持ちは持ち続けていたのだ。僕は絵を描いていたら暴力的にならずに、自然体でいることができる。だから絵を描いていたいと、恐らく小さい頃から思っていたのだろう。ただそんな自分で自分を認めることがずっとできなかったのだと思う。そういう風に自分を認められない人は多いと思う。

僕は23才ぐらいのある時、突如「絵を描きたい」という思いが喉を突き上げて出てきた。それからは自分の生活を完全に変えて工員等の仕事に就きながら、ただ闇雲に描く方向へ進みたいと紆余曲折を経て、気がつけば現在に至っている。

ここまでやってこれたのは、きっと人との出会いや、自分が諦めなかったこと等が重なったからだと思う。しかし、自分では特別なことをしているとは思っていない。確かにテレビに出たり贅沢もして有頂天になった時期もあったが、それに満足できない自分もいた。有名であることのつまらなさや、そんな自分を格好悪いと思う自分がいたからだ。

僕は僕のために

ニューヨークに滞在して9年が経つが未だに英語が下手である。そこでの生活を通して「ふつう」であることの難しさを感じる。老若男女、肌の色などに関係なく、どんな人とでも同じ目線で話し合える、同じ目線で抱き合うことが大事だと思う。

 僕が以前、アメリカで入院した際、英語で意思疎通ができないでいた自分に、看護婦が絵を描いてくれた。それを見て、薬より絵が病に効くと実感し、その後ラジオ番組で「病院に絵を描きたい」と話したことをきっかけに病院の壁に絵を描いた。今でも機会があれば描きたいと思っている。が、病院に絵があることがかならずしも最善だとは思っていない。絵があることでしんどいと感じる人もいるからである。でも駄目ならば消せばいいだけであって、僕自身は描いていきたい。なぜなら自分が生きていることを実感するために、世の中と重なっていけることを絵でやってみたいからだ。世のため、人のためだとは思っていない。それは僕のためであって、まず僕は僕のためにしかできないと思っている。そしてその中の一つに友永さんとの仕事もあるのだろう。

 友永さんとのポスターの仕事も10数年経つが、最初の頃は事務所の仲間はこの仕事を難しい、堅いのではないかと思っていたようだ。今でも小さい事務所でまだまだ失敗もある。それでも人が生きているということはどういうことなのか、一人で生きているのではないという理解が事務所内で少しずつ広がってきている。このことが僕にできる精一杯のことだと思う。

質疑応答

会場:先日何かのテレビで黒田さんがお年寄りの歌を聴いて絵を描くというのをやっていたが、どういうつながりでやられていたのか。

黒田:人間はどんな人でも必ず年を取るのだから、それを凝視することは大事だと僕は思う。自分の死を見つめ、隣の人に話すことで自分にシュミレーションしていかなければ、人を引きずって死んでいくのは格好悪いと思う。それを考えたくて行った。もっと分かりやすく言うと、誰もが老いていくのに、お年寄りを醜い、ぶざまだというフィルターでしか見れないことがすごく貧しく思える。それはお年寄りのシワを美しい、格好いいと言うのを怠ってきたためではないだろうか。そして気がつけば今、日本全体がドツボにはまっているではないか。 

そんなことを絵という表現方法で伝えたいと思い、お年寄りの歌を聴いて、それを感じたままに僕が体を動かして絵を描いていくライブ・ペインティングをやったのである。

会場:黒田さんは非常に素直な気持ちのままで絵を描かれているが、その秘訣はどこにあるのか。

黒田:それは、エネルギーの問題ではないだろうか。僕に飛び抜けたエネルギーがあるというのではない。人間には多少の差はあっても、基本的には等しくエネルギーがあると思っている。ただそれを出し切らないところに問題があるのではないだろうか。 

ではどうすれば良いのかは旨く説明できないが、自分を例にすると、僕は自分に対して非常に悔しがりだということをまずあげられるかもしれない。悔しい思いをしなように、僕は僕の範疇で毎日目一杯やっている。誰でもやろうとする意志とやめておこうとする意志の差なんて1%ぐらいで、あとはそれを後押しする力があればできると僕は思う。また面白がってするということも重要だといえる。もし自分の周りの人に何かしてあげようと思うなら「面白いでぇ」と相手の気持ちをたぐり出すことが必要だろうし、自分に対しては面白がって生きるように自分でしないとしょうがないのではないだろうか。 

そして何より、恥ずかしがらずに、自分が生まれてきたことを素晴らしいと思うことが大切だと僕は思う。絵だって自分で「良い絵やろう」と思えなければやってはいられないし、誰かが喜ぶだろうと思わなければ描くことなんてできないのだから。つまり絵や音楽は誰かと比較するのではなく、自分でジャッジする癖をつけるべきだということだ。そうすればこれからはきっと気持ち良く描けるだろう。