「男女共同参画条例」はなぜ必要か?
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「男女共同参画社会基本法」成立の背景
1999年に男女共同参画社会基本法が制定された。各地の地方自治体でもその基本法を軸とした男女共同参画条例が制定されてきている。
まず始めに、その条例のもとになっている基本法制定に至るまでの国際的・国内的背景の説明をしたい。第2に、なぜ今、条例が必要なのかについて考えていきたい。
なぜ男女共同参画社会基本法が、それも国会で満場一致という極めて珍しい状況で成立したのだろうか。その背景には大きく分けて2つのことがある。その1つは国連・国際社会からの要請である。2つ目は、国内的な要因である少子化と高齢化である。
国連では1967年に女性差別撤廃宣言が採択されており、日本も加盟国として賛成はしていた。だが国内では、そこでの対応措置を何も行ってこなかった。そして1975年の第1回世界女性会議の後、1977年に国内行動計画がまとめられ、首相を長とする女性問題推進会議が設置された。しかし、そうやって形は作ったものの、女性差別撤廃の意義そのものについては国レベルでもはっきりしておらず、自治体レベルではなおのことであった。こういった状況のもとで基本法を成立する動きが始まった。
1979年に先の宣言が女性差別撤廃条約として国際的に正式に発効したが、日本では批准するための国内法の整備が遅れてしまい、批准までにかなりの年月を費やした。特に問題だったのが、国籍法との関連、労働と教育における男女平等に関する法律がなかったことである。これらについて日本では、社会をひっくり返すような大議論が起こり、さまざまなプロセスを経て1985年にようやく条約を批准した。
日本が条約を批准した1985年、ナイロビで第3回世界女性会議が開かれた。この会議以降、国際社会での女性差別撤廃への取り組み自体が大きなパラダイム・シフトを迎えることになった。それは、女性差別撤廃は国であれ自治体であれどこかの1部局が担当すべき問題ではなく、あらゆる政策・施策・事業に「ジェンダ−平等」の概念が取り入れられなければならないという認識が国際的に成立していったということである。これが明確に確認されたのが1995年の北京女性会議であった。そして、国としても「ジェンダー平等」に対する基本的な法律をつくる必要があるということになるに至った。
例えば、それまでの日本では総理府に女性問題担当室というものがあったのだが、そこは政策調整をするセクションではなくお知らせを伝える仕事が中心で、シンボル的な位置づけでしかなかった。しかし、政府部内での位置づけそのものや基本的なアプローチの仕方を変えていかなければならないということが北京会議で明確にされ、この室は男女共同参画局となった。そして首相直轄の機関として、国の4大基本政策の1つを司る男女共同参画会議が政府内に設置された。
ジェンダー平等の概念をさかのぼって考えてみると、性別役割分業がシステム・イデオロギーとして成立したのは、どこの国でも第2次大戦以降のことである。経済効率や生産性の面からこれが非常に有効であるとして、先進国を中心に定着していった。しかし、生産性ばかりを追及していては自然破壊を招くのではないかという声が1960年代以降、一部先見の明のある人々から国連に出され、議論されていった。これが国際社会の状況であるが、では日本ではどうだったのだろうか。
今日、日本において差し迫った問題とされているのは、少子化と高齢化である。これが先にあげた基本法成立の2つ目の背景である。いくら国連から国際的課題として求められても、国内的な要因がなければ受け入れることはむずかしい。他にも経済のグローバル化等の要因も並べられているが、やはり少子化と高齢化が最も切迫していた重要な要因であるといえる。こうして男女共同参画社会基本法は成立した。
男女平等と男女共同参画の違い
「男女共同参画」という言葉に違和感を持ち、「男女平等」の方が良いと思う人もいるかもしれない。そもそも男女共同参画という言葉に置き換えられたもとの言葉は、「ジェンダー平等」(gender equality )である。このジェンダーという言葉は英語を使っている国では抵抗なく入るが、それ以外の国ではそれに近い意味合いの自国の言葉を見つけるのにどこも苦労しているようだ。日本でも政府が「男女共同参画」という名称を用いることになるまでには政府部内でかなりの議論があったと思われる。男女共同参画社会基本法が議論され始めた当初、「男女平等」という言葉が一部の人々の間でかなり批判の的になっていた。しかし、それが「男女共同参画」になると、今度は「男女平等」はよろしいが、「男女共同参画」は共産主義に起因する危険思想であるとして声高に批判されるようになった。
かつては危険思想であった「男女平等」という言葉が今は安全なものとなっていることからも分かるように、時代によって「男女平等」に与えられる意味が変わってくる。この原因は「性別特性論」に基づく「男女平等」が、長い歴史を持っているからではないだろうか。
「性別特性論」とは、男と女は生まれたときから生物学的に違うとする「生物学的決定論」を基礎としている。生まれたときから違いのある男女を上下に位置づけるのはまずいため、男女を横並びに位置づけようという構造的な「男女平等」である。この点を明確にしなければ「男女平等」の本質を考える際に混乱してしまうのではないだろうか。
私は以上の様な議論がされている中、あえて男女平等条例ではなく、男女共同参画条例という立場をとっていきたい。
ではジェンダーとは何なのか。それは社会・文化・歴史・経済的に構築される性差のことである。そしてこの性差とは「男らしさ」、「女らしさ」のことであり、これも時代とともに変化するものである。私たちは現在の有り様が、さも普遍的なものであるかのように思ってしまうが、決してそうではない。 例えば、私の学生の中には「子どもは3歳までは母親が育てなければならない」といういわゆる3歳児神話を人類創世期からの普遍的なものと信じている者もいるが実際はそうではない。もし、現代社会の「男らしさ」に象徴されるように原始時代において男だけが狩猟に行き、女が「女らしく」洞穴で家事をしていれば、人類はとっくに絶滅していただろう。
確かに男性と女性は生物学的な違いはあるが、それぞれの役割の有り様はその時々の生産力の有り様によって変化してきている。そもそも「らしさ」の概念が生まれたのは19世紀以降であり、産業革命である程度経済的に豊かになった層の中から出てきた概念規定である。これがジェンダーの概念である。そして更にここに男性優位・女性劣位という上下・優劣の関係が組み込まれている。つまりジェンダーには社会・文化・歴史・経済的に構築される性差と、男女の上下関係という2つの側面がある。
条例の必要性―世界とのデータ比較からー
では男女共同参画社会の形成の必要性について話を移していきたい。
まず国連が発表している2つのランキングを紹介したい。一つはHDI(人間開発指数)である。HDIは、基本的な人間の能力がどこまで伸びたかを計る指数であって、平均寿命・教育水準・国民所得を用いて算出する。ここではジェンダー変数は取り入れられていない。HDIでの日本の順位は1999年に世界第4位であった。最近は以前より下がったがそれでも8位である。
もう一つはGEM(ジェンダー・エンパワメント測定)である。女性が積極的に経済や政治の意思決定に参加できているかを計る指数であり、女性の所得・専門職や技術職に占める女性の割合・行政職や管理職に占める女性の割合・国会議員に占める女性の割合を用いて算出する。このようにジェンダー変数が入ったGEMでの日本の順位は38位となっている(1999年)。もし、生物学的性差が男女間で動かしがたいものとしてあるとするなれば、これだけ国別で順位の違いは出てこないはずである。つまり、社会・文化・政策的要因が働いていることをこの数字が物語っている。
他国と比較して、日本の女性の年齢別就業率は、「M字型」が特徴である。また、日本は、女の子は「女の子らしく」、男の子は「男の子らしく」の育て方が良いという考え方が占める割合が世界的に見てもかなり高い。しかし、女性の年齢別潜在有業率(就業率と就業希望率の合計)を見ると、「M字型」ではなく、男性と同じ「台形型」である。
一方で、日本の父親の家事育児時間は少ない。これはつまり生物学的決定論的な考え方が日本では根強く、日本の男性は労働人間に、そして、その対極で女性は家事人間に枠づけられているといえるのではないか。これらの現象は、高度経済成長以降顕著にみられるようになっている。
以上のような両性間の格差をなくすため、あらゆる領域での政策や個々人の意識、教育を変えていくような努力が、払われなければならないということを男女共同参画社会基本法では求めている。
では、「基本法やそれに基づく基本計画があるのだから、各自治体の条例などいらないのではないか」という意見もあるかもしれない。しかし、法や計画は基本的な部分を定めていて、措置の必要性や責務については言及しているものの、その内容にについては一切触れていない。従って、具体的な措置の内容は各自治体がその特徴・特性を踏まえて定めていく必要がある。その結果、男女共同参画条例が求められるということになる。
例えば、基本法では「積極的改善措置の必要性」を明記しているが、何を改善するのかは明確に出していない。また、あらゆる政策・施策・事業で男女格差を撤廃するジェンダー平等の視点を組み入れることを「男女共同参画政策の主流化」と位置づけて、それを評価するよう求めている。しかし、評価についてはまだ提起されただけに過ぎず、日本では諸外国と違い、これから研究するという理論レベルにあるというのが実情である。
建て前ではなく実態の変化を
以上の話で、男女共同参画社会基本法における状況は分かってもらえたかと思う。しかし、「建て前は分かったが、自分とは別だ」と思っている人も多いのではないだろうか。それが日本の男性の育児休業取得率が0.16%(1998年)という数字に現れているのだと私は思う。実際、ジェンダーのことを考えている男性でも、結局、男は働かなければならず、子育ては女の仕事という意識を持っていることが多い。確かに妊娠や出産・哺乳は女性にしかできないが、授乳などの育児は男性にもできる。もしそれができないのなら世界中の男性は育児ができないということになる。
ドイツでは労働時間の規制が非常に厳しいため、午後6時になると管理職といえども事業所に残ることはできない。そうなると、家族揃って食事をとることが増え、子育てに男性も参加できるようになる。また、趣味やコミュニティーでのつき合いが盛んになる。このように近隣とのつきあいを通して子どもとの関わりも日常的に頻繁となる。
これまで日本では、男女共同参画について意識の面ばかりを問題にしていたが、それだけではなく政策や仕組みの問題としても考えていかなければならないだろう。
頭では分かっていても体では分かっていないということを解消するために、今までの仕組みを変えなければならない。しかし、それは決して男性だけにいえるのではなく、女性に対しても同様である。今もなお多くの女性が、3歳児神話を内面化している。
都市化の中で近隣との関わりが薄れるという変化から生まれた孤立・密室化によって、専業主婦の育児不安や児童虐待という深刻な問題を生み出している。これは性別役割分業の制度化と、それを自然なものとして意識の中に潜在化させていった結果なのだろうと思う。つまり、建て前として分かるというだけではなく、実態を変えていくためにそれぞれの場において何が必要であるかの議論を始めていくことが大切だと私は思う。
質疑応答
Q: 大阪府でも条例をつくろうとしているが、その特徴はどのようなものか。
A: 大阪府では、今年度中に条例としてまとめられるように、現在作業を進めている。
大阪府の特徴としては女性の年齢別就業率が他の地域よりも谷間の深い「M字型」カーブを描いていること、ニューカマーも含めた外国籍女性が多いということがある。
話しは変わるが、日本の人権問題でこれまで大きな弊害をもたらしてきたことの一つに、「4大差別」がある。つまり部落、在日、障害者、女性と問題を縦割りにしてきた。結局、社会運動も人権問題そのものをも細分化してしまっているのではないだろうか。しかし、ジェンダーというものは横断的な概念である。その点を活かし、縦割りに問題を扱うことがないようにしていくことが大切である。
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