「ハンセン病国賠訴訟に関する熊本地裁判決の意義と今後の課題」
森和男さん(香川人権研究所研究員・前大島青松園自治会長)
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ハンセン病とは
私は1940年に徳島県鳴門市に生まれ、1949年に国立療養所大島青松園に姉と二人で、保健所からの入所勧奨を受けて入所した。入所勧奨といっても当時は旧「らい予防法」の時代だったため、病気と診断されるといずれは強制入所させられるということになったであろう。また1949年に、抗治らい薬のプロミンが開発され、それを2〜3年継続して投与しなければならないということもあり入所した。
私は、入所するとすぐに棟内にある養護学級に入り治療を続けながら小中学校を終え、長島愛生園に1955年に行き、1956年に新しく開校した岡山県立邑久高校新良田教室に入学した。
高校を卒業後、しばらく療養をした後大学に進んだ。大学卒業後は就職をしたが、病気が完全に落ち着いていなかったため、不本意ながら再度療養することになった。その後、肝臓を悪くするなどしたが回復し、現在は自治会の方で仕事をしている。
まず最初に、ハンセン病についての医学的な説明を簡単にしておきたい。
ハンセン病とは細菌による感染症である。1873年にノルウェーのハンセンという人が「らい菌」を発見したことからハンセン病と呼ばれている。この菌は結核菌と似ている。「らい菌」は末梢神経や皮膚の表面を犯すため、手足の運動障害や感覚障害を起こし、冷たい・熱いの感覚も失ってしまう。そのため注意しなければ火傷や凍傷になってしまう。万が一それを繰り返していれば手足の指を切断することにもなってしまう。特にそういった知識のなかった時代には手足を切断し、身体障害になった人も多い。
「らい菌」自体の毒性は弱く、相当数の菌がなければ人には感染しないというのが現在言われている定説である。また、「らい菌」の増殖は非常に遅いため、感染から発症までの潜伏期間が長い。通常で5年、長い人では10年以上も潜伏する。最近、80才ぐらいで発病したとの報告があった。現在、国内には感染源となる人はいないことから、この人の場合、恐らく若い頃に感染したと思われる。このように菌の増殖が遅く、潜伏期間が長いため、病気の進行も非常に遅いのだが、逆に治療するのにも時間がかかる。つまり、どの病気でもそうだが早期発見早期治療が大切である。早い時期であればハンセン病は水虫よりも簡単に治るとさえいわれている。
日本のハンセン病対策の流れ−明治から戦時中−
日本では明治維新の頃からハンセン病は伝染病として恐れられており、多くの患者が神社仏閣に集まり、ホームレスになっていたようだ。その当時の政府が患者たちを強制的に隔離していった。また明治初期には、仏教関係者や、特に外国人宣教師が悲惨な状況にあった患者の救済を始めていた。これが日本のハンセン病対策の始まりである。
一方、政府のハンセン病対策は1907年の「らい予防ニ関スル件」という法律が制定され、1909年の同法施行により全国に5ヶ所の公立療養所が設立された。これらの療養所にホームレスであった患者が計約1200人収容されたが、この療養所のうち医療関係者が所長になったのは1ヶ所だけで、それ以外は警察関係者が所長を務めていた。そのため患者への扱いは病人としてではなく罪人であった。それに対する入所者の不満も大きく、当時の療養所内は殺伐とした雰囲気であったという。また1916年に法律の一部改正により、所長に懲戒検束権という罰則を与える権限が付与された。
これはホームレスとなった患者を強制的に収容したものの、その管理に手をこまねいた所長の強い要望からできたものである。その後この法律は何度も改正され、1931年に大幅改正されて旧「らい予防法」となった。
この法律によって全ての患者を隔離することができるようになった。つまりホームレスになった患者の取り締まりではなく予防が目的となり、絶対隔離、撲滅政策を目指すものであった。だから一度病気だと診断を受けると、自宅で療養できる程の軽症であっても退所規定のない療養所に強制収容して一生閉じ込めておくという、いわば残酷無慈悲な法律であった。特に外出の制限は厳しかったといわれている。
許可を取って帰省していても戻るのが一日でも遅れれると、罰として別棟に数日間監禁され、食事も減らされた。更に当時は外出するのに保証人を立てなければならず、もし本人が遅れた場合は保証人も同様に罰せられた。また法律では、入所者たちの職業選択の自由を大きく制限しており、実際に生きていくためには農業しか残されていなかったのではないだろうか。
それ以外にも生活全般が法律によって厳しく制限されていた。療養所の中での治療や食事、職員による処遇は劣悪なもので、病気を治すところとはいい難かった。そのため、入所者に不満が溜まっていた。大島青松園では1931年に入所者たちの不満が爆発し、所長の罷免と17項目の待遇改善の要求書を作り、入所者はストライキに入った。そしてそこから自治会が設立された。当時、どこの療養所でも自治会の活動が比較的盛んに行われており、互いに手紙のやり取りで情報交換をしていた。しかし1935年頃を境に自治会への締めつけは厳しくなっていった。
療養所の運営は職員の数を極端に抑制し、軽症の患者を労働力として利用するという安上がりな方法で隔離政策を維持していた。病棟看護や付添看護、給食作業等といった園内の管理的な作業のほとんどは、軽症者が煙草銭程度の手当てによって支えていた。本来は病気を治すために入ったのにそういった仕事をすることでかえって病気を悪くして、取り返しのつかないことになってしまった人はたくさんいた。しかし、わずかといっても小遣いを送ってもらえない人にとっては貴重な収入源であったため、当時の施設当局は巧妙に軽症者を利用していたといえる。療養所に入って、治って帰っていくのは夢のまた夢というのが当時の状況であった。
「らい予防法」廃止に向けた運動
戦後になると先にも触れた新薬のプロミンが登場する。プロミンは1941年に米国で開発され、戦後日本にも入ってきた。そしてそれぞれの療養所で一部の患者に試験的に使われた。それが非常に良く効くということで希望者が急増して薬が不足してしまい、プロミン獲得闘争に発展した。その結果、1949年頃から全入所者にプロミンが行き渡るようになった。この薬の登場によって患者は将来に希望が持てるようになり、園内の雰囲気が変わったといわれている。このプロミン獲得闘争を契機に園内に、不当な形で患者の人権を抑圧する予防法の改正運動を展開し始めた人々が入所者の中から出てくる。そして1951年、全国ハンセン病患者協議会(全患協)が組織され、運動が本格化していった。しかし一方で、この年に療養所の所長が参議院の厚生委員会で予防法の規定強化や、患者の家族にも断種を勧めるといった無謀な発言を行っている。このことから当時の所長たちの考えがよく分かる。
ハンストや国会での座り込みなどの血みどろの闘いが続き、旧「らい予防法」は1953年に改正された。9項目の付帯決議はついたが、結果的には私たちの要求は取り上げられなかった。当時を振り返ってみれば療養所という閉ざされた中での闘いであり、世間に知られることもなく終わってしまったといえる。その意味でもこの時期の予防法闘争は敗北ではなく、病気を患う身であり力が弱くても団結すれば何とかなるということを身を持って体験できたことが、その後の運動を進めていく上で非常に勉強になったといわれている。
1956年のローマで開催されたらい患者の保護および社会復帰に関する国際会議や、1958年に東京で開催された第7回国際らい学会会議において、プロミンの開発によりハンセン病患者の隔離は必要ないという決議がなされた。しかし、残念ながら日本政府は予防法を改正するような行動を起こさなかった。また、全患協は1963年にも学者等による科学的裏づけに基づく予防法の改正要望書を提出していたが、このときも厚生省は動かなかった。全患協の運動は、それ以降施設内での生活待遇改善に重点を置くようになっていき、予防法改正要求運動は停滞することになっていった。
しかし、1991年になって全患協は3度目のらい予防法改正要求書を厚生大臣に提出した。当時の全患協のほとんどの人は、法律の改正を望んでいたと思う。しかし、個別の条項を一つずつ変えていけば予防法としての体裁がなくなってしまうため、一層のこと廃止してしまった方が良いのではないかという意見が1992年頃から出始めた。予防法を廃止する意見が急速に浸透していき、1996年にらい予防法廃止の法律が制定された。
国賠訴訟と今後の課題
らい予防法が廃止されたことで私たちの頭上にあった暗雲は晴れた。しかし一方で、国が謝罪や補償しないことに対する不満は残った。つまり、政府が国としてハンセン病患者に行ってきたことを反省しないまま予防法を廃止することに対して、ハンセン病患者に不満が残ったのである。それが今回の国賠訴訟をするに至った要因である。
1998年7月に九州の療養所2園の入所者13名によって熊本地裁に「らい予防法違憲国家賠償請求事件」が初めて提訴され、翌年東京・岡山地裁にも順次提訴が行われた。その間、原告の人数も13名から3倍近い779人に増えた。そして、2001年5月11日に熊本地裁で、ほぼ原告の要求通りの判決が出されたのである。この判決と国の控訴断念は様々な支援活動のおかげであり、政治的に好条件にあったからだといえる。法廷での闘いはこれで決着がついたため、今後の課題は、判決の内容をどのように具体化していくかということになる。すでに設置されている協議会で、全面解決要求書に基づいた細かい協議が行われていく。
協議項目内容は、在園保障や社会復帰者に対する生活支援の問題、あるいは入所者の高齢化に伴う看護・介護の問題である。また、これまでの隔離政策によって生じた差別・偏見からの名誉の回復などと、非常に広範多岐に渡る内容となっている。そのため今後はワーキングチームのようなものを作り、個別に取り組んでいくことになる。しかしそうはいっても1〜2年で片づくような決して簡単な問題ではない。そのため長期的スパンで協議会に取り組み続けていかなければならないと私は思う。
質疑応答
Q: 日本のハンセン病患者に対する歴史的な流れの中で、医療者と宗教者の果たした役割について。
A: 医療者・専門家の責任について今回の訴訟では明らかになっておらず、恐らく今後設置される真相究明委員会の方で明らかにされるだろう。医療者については、当時ハンセン病の権威といわれ、療養所の所長のほとんどを弟子とした光田健輔氏が絶対隔離主義を一貫して主張したことが原因であることは分かっている。患者が退所しても、まともな仕事に就けず、差別と偏見の中でホームレスになるということが隔離する理由であったと一部で言われているが、なぜ彼が頑固なまでに隔離主義を主張していたのかは私には分からない。宗教家の責任については、各療養所の所長が入所者の精神的安定のために宗教を奨励しており、その意味で関わりは深いといえる。真宗大谷派は予防法廃止後に隔離政策に関与したとして、教団として謝罪をした。その後も園との交流が続いている。他の宗教については詳しくは知らないが、キリスト教も予防法廃止後に謝罪を行っている。
Q: 以前に青松園の近くの庵治町で町営の公衆浴場で患者の利用拒否という問題が報道されたが、現在はどうなっているのか。
A: これは町の方から療養所入所者の浴場利用は、一般の人が利用しない休みの日にして欲しいという申し出があり、私たち自治会としても町民の空気を察して利用を自粛しようと呼び掛けたことが新聞に取り上げられた。休みの日に利用しろという考え方は確かに間違っているが、それ以前に住民の空気を敏感に感じて入所者は誰も利用しなかったのではないだろうか。
しかし町としての偏見・差別に対する取り組みは変化してきている。例えば以前からも少しはあったことだが、庵治町の小学生が定期的に青松園を訪れるようになった。それ以外にも町主催の小さなフォーラムも開かれている。
しかし、偏見・差別という問題は根が深く、簡単には解決できない。だから私たちとしても庵治町の啓発はまだこれからだと考えている。またさまざまな取り組みを通じて少しずつハンセン病に対する理解を深めていくことが重要だと考えている。それは、地方自治体の取り組みとしてだけではなく、国として大々的に啓発活動を行っていかなければならないと思う。
Q: 戦前に「無らい県運動」というものがあったと聞いている。それが起こったきっかけや、その運動が社会や患者に与えた影響はどのようなものだったのか。
A: 私も書物を通じて勉強しただけだが、昭和の初期に愛知県のある団体が長島愛生園の所長に県内のハンセン病患者を収容することを要請したのが始まりであるらしい。それが運動として国や予防協会といった団体の後押しを得て、各県に広まっていった。先の光田健輔氏もこれを積極的に後押ししていたことも明らかである。
この運動が最も盛んに行われたのは、1935〜41年頃で、戦後も同様の運動が恐らく1950年頃まで行われていたといわれている。具体的には医師が、時には警察の案内で自宅療養している患者を検診に周り、そして後から保健所の予防課の職員が訪れるという、形を変えた強制収容である。つまりその強制収容に県も明らかに加担していた。こういったことが、国民に偏見・差別を助長したとして先の判決でも責任が明らかにされており、それに携わった自治体の知事が療養所を訪れ、謝罪するということが最近新聞等で報道されている。私達としては現在の知事や大臣に謝罪してもらうことに対して釈然としない思いもあるが、そうやって実際に療養所を訪れることは啓発活動として意義があるのではないかと私は思う。
Q: 政府や政策ばかりを批判しがちだが、その政府を選び、その政策を後押ししたのは私たち世間一般である。だから私は本来問われるべきは私たち自身なのだと思っている。
A: 隔離政策に対する国民の責任については、戦前の個人の人格を尊重できなかった全体主義の中では仕方がなかったのではないかと私は思っている。私自身ももし、病気でなければ、きっと差別者の側になっていただろう。だから私個人としては一般国民が悪いという意識はなく、ただ国が政策として強い力で隔離を実行してきたことがこれだけの被害をもたらしたのだと考えている。
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