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第221回国際人権規約連続学習会(2001年9月21日
世人大ニュースNo.230 2001年10月10日号より

Japanese Only?
―外国籍市民の社会参加と共生社会―

トニー・ラズロさん(「一緒企画」代表・ジャーナリスト)

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単一民族国家というイメージと現実

 私は先日、南アフリカ・ダーバンで開かれた反人種主義差別撤廃世界会議に出席した後、ニューヨークに行き、そこであの同時多発テロに遭遇した。みなさんもご承知の通り、あの事件で6000人以上の方が亡くなった。そして昨日には、そのアメリカでアラブ系の人が殺されるという事件が起こっている。それ以外にも「アラブ系である」、あるいは「イスラム教徒である」というだけで多くの人が暴力などを受けている。このことは今回のテーマと大きく関係しているのではないだろうか。

 日本は「ほぼ単一民族国家」だという意識・イメージがどうも国内外にあるようだ。私が日本の多文化社会を研究する「一緒企画」というNGOで1992年から活動している中、あえて日本に住む様々な民族の旗(「アイヌ」、「琉球」など)をプリントしたTシャツを作った。実はこのTシャツを作らざるを得ない事件が7月2日に2つも起こった。

1つは札幌であった平沼赳夫経済産業大臣の「日本ほどレベルの高い単一民族で詰まっている国はない」発言。もう1つは、東京で外国人特派員クラブにおいて鈴木宗男・自民党衆院議員の「アイヌ民族はまったく同化された」発言である。日本には1997年に制定されたアイヌ新法があり、そこでは法的に日本は単一民族ではないことが認められている。北海道出身の鈴木議員は「この法律を自分で作った」と言っていることから考えても、これは大変な発言だと私は思う。 

先述の通り日本は「ほぼ単一民族国家」というイメージが強く持たれているが、調べてみると日本国内の全国紙には「単一民族国家」という言葉はほとんど出てきていない。書かれているのは案外海外のメディアであり、それも昔のことではない。また、「単一民族国家」という言葉は、国内でも政党が出している物や公的機関が出している物に見られ、内容的にはほとんどがそれを日本の強さと自負するようなものとなっている。また、朝日新聞のリベラル派である記者が書いた記事に、「日本はかつてある意味では『単一民族国家』であり、それは強さであった。しかしグローバリゼーションの時代になるとそれが弱点になった」というものがあった。このようにリベラルな人も保守的な人でも簡単に「単一民族」という言葉を口にし、それは海外から見た日本人に対するステレオタイプのイメージを生み出していると思う。

日本人がどこから来たのか。「単一民族」という言葉の流れを歴史的に考えてみても、朝鮮半島、中国大陸など色々なところから来ているといえる。しかし「単一」とか「人種的に純粋」という神話を生み出している。

 現在日本で外国人登録者は総人口の1.23%である。この数字は他の先進国に比べてどうだろうか。他の先進国では4〜10%が外国人である。第2の経済大国である日本からもかつて移民して外に出ていったように、現在も世界で働くニーズがあり、人が移動しているにも関わらず、日本には1%しかいないのはどこか不自然に思える。日本の外国人登録者の40数%が在日コリアンの人、次に多いのが中国人、日系ブラジル人の順番となっている。在日コリアンや中国人の人口が多いのには歴史的な問題背景があり、また日系人については別の問題がある。

日本は従来日本人にできる仕事は外国人にはさせないというスタンスを取ってきた。しかし少子高齢化が進む中で「日本人のしたくない仕事」に対する労働力が不足してきたため、例外として「日本の血が流れている」という理由で日系人の受入れを認めてきた。しかし、実際に日系ブラジル人でも2,3世になると日本と異なる文化・習慣を持っているため、日本社会に慣れているとは言いきれない。この状況に対して国連は、将来的に総人口の13〜33%を外国人が占めないと日本は現在の発展を維持できないと報告している。それだけの外国人が日本に暮らすことは想像できないが、私も5〜10年後には5〜6%になると予測している。

 先の1.23%というのは外国人登録している、つまり合法的に日本に来ている人数であり、これ以外にも「不法」に日本へ来て働いている外国人は多くいる。その多くは“闇”で働いており、「不法」滞在であるために人権も何もないというのが現状である。国連があれだけの数字を示していることからも分かるように日本にはニーズがあるため、今後合法的な外国人が数%増え、“闇”で働く人々もいなくならず、むしろ増え続けるだろう。

 そう考えると現在抱えている問題を解決しないと、1%の外国人人口が今後増えつづければ課題が何倍も大きくなってしまうだろう。外国人と日本人との共生を考えるにあたって、何よりも日本社会ために考えてほしい。だから「当事者は日本人」ということから外国人との共生について考えていってもらいたい。

国連から指摘された日本社会の問題点

 では外国人との共生社会についての課題として、国連が日本政府に対して行った指摘を紹介したい。

 第1に社会的多様性があるのに政府が十分にそれを認識しておらず、国連へ提出するレポートにもその報告が書かれていないという指摘、また日本の社会的多様性を認識し、それを広報する必要があると指摘を行っている。第2に人種差別行為が起こった場合、取り締まる法律が十分にできていないためにそれを許してしまうことがあるということである。先程アメリカでアラブ系の人が殺されたと話したが、このような事件はいろんな国で起こっており、「○○人だから殺す」という事件は日本でも起こっている。

何の罪もないブラジル系の少年や在日コリアンの少女が、「ブラジル人だから」、「民族学校に通う在日コリアンだから」ということだけで暴力を受けたり殺されたりしている。アメリカなどではこれらの事件を「ヘイト・クライム(hate crime)」といった人種差別行為として扱っているが、日本ではメディアにおいてもまた社会的にも人種差別的行為として扱っていない。つまり上記のような事件が日本のメディアまた社会で人種差別として扱われていない。そして同様に差別行為をやめさせる方法がないことが最も大きな問題だといえる。

 国連の指摘では特に朝鮮学校に通う子どもたちが被害にあっていることについて強調して指摘されている。朝鮮学校に通う生徒はその制服からしばしば暴力の標的にされている。また最近では歴史教科書問題や、少し前には北朝鮮のテポドンが発射された際に被害が出ている。これは最近アメリカでアラブ系の人が襲われている暴力のメカニズムと同じである。だからといって、在日コリアンや日本に暮らす外国人の人たち日本人と同じようにさせることは良くないと思う。

彼らはそれぞれの伝統、歴史、文化があり、その生き方が日本人と全く同じであるべきだという必要はないのではないか。民族衣装を着て、朝鮮学校に通い、朝鮮語を学んだりしてアイデンティティーを保ち、伝えていくこともあって良いはずだ。そうすることで同化せずにマイノリティーであり続けることができる、マイノリティーで良いと思うことができる。つまりお互いにそれを認め合うことが、社会的多様性を認めることになるからだ。

第3の指摘は、東京都知事の起こした問題である。国連は高い地位にある公務員の扇動は日本が加入している人種差別撤廃条約に反すると指摘している。またそれに対して日本政府が反応しなかったことも条約に反していると指摘されている。「三国人発言」とは自衛隊を前に、「東京で震災が起これば外国人が騒動を起こす恐れがあるため、それに対応してほしい」というニュアンスの発言したことである。これは大変な人種差別で扇動だ。しかし彼はこの発言に対する勧告を受けたにも関わらず、その7週間後には産経新聞の一面にコラムに「民族的DNA」について書いた。

それは「外国人特に中国人は、日本人とは異なった民族的DNAがあって、そのため日本人には物理的にできない残虐な殺人ができる。そういうDNAを持った外国人は他にもいて、それらが日本に入ってきたためにヤクザも歩けないほど恐ろしい世の中になってきた。これでは日本社会は駄目になってしまうので、そうなる前に私と一緒に手を組んで悪いものを排除していきましょう」という趣旨だ。これは明らかに条約に違反した扇動といえる。

では次に最も分かりやすく、最も驚くべき人種差別の事例を紹介したい。それはいろんな所で「Japanese Only 」などと書かれた看板を見掛けることだ。知人のドイツ人に言わせれば、今のドイツでこのような看板が出されれば5分程で撤去されてしまうらしい。当局が撤去するか、石を投げられて撤去せざるを得ないかのどちらからしい。そのような看板が日本の東京・新宿区役所から見えるところにも置かれている。

その店に入りたいかどうかは別にしても、それが与える社会的インパクトが問題だと思う。学校で差別はいけないと教育されていても、毎日「中国人お断り」の看板を見ていれば子どもはそちらの方からインパクトを受け、「差別しても良い」と理解してしまうのではないか。そしてその結果、差別が許される社会となり、外国人だけでなく全ての差別が許されてしまうことになる。要するにその看板が部落差別や女性差別までも助長して、差別をしやすくする社会にしていると私は言いたい。 

これらの看板はあまり一般の人が入らないような業種の店にみられるようだが、中にはブラジル人には商品を売らない釣具店や布団店もある。また小樽市の公衆浴場で外国人の入浴拒否という事例もあるし、同じ北海道の紋別では商店組合に加盟している200 店の約半分の店がロシア語で「日本人専用の店」と書かれた看板を注文したという事例もある。

 外国人を拒否する店や知事が中国人には「犯罪DNA」がある等と発言するのは、国連が指摘する通り差別であり、条約に反していても現在の日本で取り締まることはできない。とはいえそれに対して訴訟を起こすのも簡単ではなく、人種差別撤廃条約という国際条約から人種差別の違法性を証明するのは非常に難しいことである。唯一勝訴したのは98年浜松での事例1件だけである。しかし皮肉なことに国連から差別を取り締まる法律がないと指摘された日本政府はこの唯一の判決を持ち出して、これで救済はできているので新しい法律は必要ないという立場を取っている。

社会的多様性のメリット

 以上ような事例によって外国人と日本人の共生を妨げている。外国人を排除しようとしたりそれを扇動したりすることは他の国でもあるが、それが許されているのは先進国では日本だけといえるだろう。これだけ立派な国で、人種差別撤廃条約を加入しているにも関わらずこれだけ明らかな差別が許されて

いることに、海外からきた人は大変驚いているようだ。ぜひ社会的多様性のメリットを考えてもらいたい。外国人に限らず、アイヌも琉球も部落も全て含めて、いろんな人がいることを互いに認め合う社会について考えてもらいたい。それぞれ違った背景を持った人々が一緒に暮らすことにどのようなメリットがあるのだろうか。ここで1つの例を紹介したい。 あるクイズ企画した際のことである。10人1チームの計10チームでクイズをした時のことだ。

各チームの編成は、同じような年代、性別の人同士で構成されたチーム、バラバラの年代・性別で構成されたチームとなっていた。結局このクイズで一番強かったのは、いろんな人が構成されたグループだった。同じような人で構成されたグループは特定の問題には全員が答えられるが、違う分野では誰も答えられなかった。逆にいろんな人が集まったグループではいろんな問題に対して誰かが知っていて、答えることができた。これが多様性の強さだと思う。これはクイズでの話だが、会社でも社会生活でも同じことが言えるのではないだろうか。いろんな人が入り、それぞれの意見が尊重されれば、とても強いと私は思う。

日本にはこの問題に対して「時間が経てば善くなる」と考える安易で楽観主義が多いようだが、それは違う。この問題は自然に善くなることはない。みんなが「善くなるようにしていこう」とするポジティブシンキングが大切である。だから外国人が外国人であるために暴力を受け、排除することを扇動されていること等を皆さんが問題として早く認識して、解決してくれること願っている。また日本社会ももっと良くなることを私は信じている。