「水平社宣言」という伝説
10年前の「全国水平社創立」70周年の際、私の勤めるリバティおおさかで水平運動に関する特別パネル展が催され、そこで私は水平社当時の資料を目の当たりにした。そのときに初めてこれまで語られていることと、その資料を読んでの自分のイメージとのギャップに気づいた。そうして最近、部落民と名乗って生きている私が今後の解放運動や部落問題を考えていくために、水平運動を通して学んでいきたいと思うようになった。
今回も「水平社宣言」という素材を見ながら、自分自身の部落問題に対する考え方や姿勢を含めた関心をさらに広げていきたいと思う。
私は「水平社宣言」というように必ず「」を付けている。これは歴史的事実としての全国水平社創立宣言と、歴史的記憶としてーある意味で物語化した「水平社宣言」―には違いがあると考えているからだ。
私は「水平社宣言」とは作られた伝説だと思っている。その理由にはこれが西光万吉が1970年に亡くなってから、多くの人に注目されるようになったということがあげられるだろう。戦後の歴史を調べても1960年代まで「水平社宣言」が強調されることはほとんどなかったのだが、なぜ1970年代に入ってから注目されるようになったのかについては、部落解放運動の中に原因を求めるべきだと私は思う。
ご存知の通り1965年に「同和対策審議会」答申が出され、その評価をめぐって部落解放運動の中でも意見が分かれてしまった。そしてそこに社会党と共産党という政党間の対立の背景もあり、ここから部落解放運動は分岐していった。そして、その後の諸々
の事件でその分岐は固定化していった。運動が分裂すると必ず一方は他方を批判するもので、そこでは運動の原則や原点が問われるものであった。
全国水平社の歴史と伝統を引き継いでいるのが部落解放同盟とするならば、水平社創立の精神が解放同盟に問われることになる。では何をもって水平社創立の精神とするか。それが宣言と綱領に他ならないのである。つまり「水平社創立の精神」は(=)「水平社宣言」であり、(=)「それを書いた西光万吉」となる。つまり、西光万吉を語ることが水平社の精神を語るということになっていき、ここからある意味で事実を超えて誇張された西光万吉像が作られていった。そしてそれらを部落問題に関心のある者だけではなく一般社会に広めていったのは、小説「橋のない川」を書いた住井すゑだと思う。どんな現象でもそうだが、人が生きているのは事実だけではなく、むしろ記憶やイメージ・伝説・物語の中で生きているものである。だから「水平社宣言」や西光万吉像が一般社会に広まっていく過程でも、それらは事実を越えて誇張されてしまったと私は思う。
歴史的事実としての全国水平社創立宣言
しかしだからといって歴史家が「事実はこうだった」と小説を批判しても意味がないと思うし、同時に作られたイメージや像だけで語られることにも違和感がある。つまりこの両者が相まってこそ意味のあるものであり、像というものと事実というものとの間の緊張関係の中で私たちが何を選択するのかが大事だと私は思う。そのためには現代の解放運動との距離を意識しながら運動から相対的に自立し、例え批判的なことであっても間違いは間違いとして部落史の事実を確定していかなければならない。また人は思想だけで生きているわけではなく、運動も思想や理論ではなく人が動かすものだと私は思っている。だからこそ「全国水平社創立宣言」も思想史だけに偏るのではなく、運動史を通して人の動きの中からも見ていきたいとも思っている。そのためには新しい問題意識による新しい史料を発掘していくことが必要になるのではないだろうか。
史料に触れる前に「全国水平社創立宣言」についての私の考えを一つ紹介したい。私は創立宣言が部落民像をどう描いているのかが大事ではないかと思っている。
一つは宣言の中の「エタであることを誇り得るときがきたのだ」という部分で、それまで差別的に投げ掛けられてきたエタや特殊部落ということは自分たちに何ら責任のないことであって、むしろそのことが意味ある存在だとしたことに私自身は一番共感している。しかしこれだけでは画期的な文章ではなく、多くの人に感動を与えることもなかっただろう。実は「全国水平社創立宣言」では10回も「人間」という言葉が使われているのだが、そこから分かるように人間であるということも強調しているのである。エタであることの誇りと、人間であること。これがどちらか一方では駄目だっただろうが、この2つが「全国水平社創立宣言」の中ではうまく統一されていると私は思う。
全国水平社創立宣言の事実確定
それではいくつかの史料を検討しながら、全国水平社創立宣言の事実確定をしていきたい。
「水平社宣言」として部落解放同盟がこれまで公式に使っていたのは皆さんも目にしたことがあるだろうが、黒字に白抜きの宣言文である。
私も含めて多くの人はこれが京都の岡崎公会堂での全国水平社創立大会で配られたビラだと思っているようだが、実際はそうではない。これは全国水平社創立50周年のときに作られて本の扉に使われたもので、1922年に平野が関東水平社名で出したパンフレット『よき日の爲めに』をもとに作られたのである。実際に岡崎公会堂で配られたビラは今でも京都市立崇仁小学校に2枚所蔵されている。これは大会直前の2月28日夜11時頃に京都の宮本旅館で西光万吉によって起草され、平野らの手直しを受けて作られたとされている。
3月3日の創立大会の参加人数は3000人といわれているがそれは雑誌『水平』の創刊号に書かれた数字であって、実際には700〜1000人程度であったと思う。それだけ配られていても現在残っているものとして把握できているのはこの2枚と、あとは兵庫県にもう1枚だけである。こういったことなどから私の友人の中には大会当日、実際にはこのビラは配れなかったのではないかと主張する者もいる。私はそうは思わないが、どちらとも論証できていないのが現実である。
現テキストと原テキストを比較するといくつかの違いが見受けられる。まず原テキストにはないが、現テキストにはルビがふられている。また最初の「全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ」という文章が原テキストでは大きな文字で書かれているのに対して、現テキストでは他と同じ大きさで一字下げて書き出されている。やはり原文を見ないと当時の運動の状況はわからないといえる。加えて最後の部分が原テキストでは「水平社」となっているが、現テキストでは「全国水平社創立大会」となっている。私はこの「水平社」という言葉に意味があると感じている。他にも細かい違いはあるがそれを無視しても、当時の運動の状況を思い浮かべようとすると、新たに作られた現テキストよりも原テキストでの方がよりイメージしやすいのではないだろうか。そして何よりも綱領と宣言がセットで原テキストには印刷されているということに意味がある。やはり綱領と宣言を分けて論じるべきではなく、これらを一つのものとして受け止めることが「全国水平社創立宣言」を評価する上で大事な視点ではないかと私は思っている。
では「水平社宣言」は誰が作成したのか。起草者は西光万吉であることは間違いない。しかし、彼は晩年に「『水平社宣言』について」という手紙で、平野がかなりの部分で宣言を添削したことに触れて詫びている。よって起草者が西光万吉、添削者は平野、そして文章責任は水平社の創立者全員にすべきだと私は思っている。なぜならこれは個人の功績にすべきではない運動組織文章だからだ。
部落民という歴史的構築物
まずはフェミニズムで著名なジュディス・バトラー「触発する言葉」という文章を読んでもらいたい。
これは非常に良い文章で、なぜ自分でもこのように考えられなかったのかと思っているほどである。要するにここで書かれているのは、部落民はエタなどの差別的・侮辱的な言葉を浴びせられてきたが、差別される側がその差別的・侮辱的な言葉を自らの論理で使い始めたときに初めて意味を持つということである。この発想を差別発言や落書きに対して活していけないかと私も今考えているところだ。
先日私の記事が顔写真入りで毎日新聞に載ったのだが、その際に記事をまとめた記者が「朝治さんは部落出身であることを公表されているがそれを書いても良いか」と電話で尋ねてきた。私は迷いながらも結局それを承諾したのだが、やはり自分が部落出身であるかどうかは自分の言葉で話すべきであって、他人から話してもらうべき筋合いのものではないと今は反省している。それをリードの数行で書かれてしまえば、「やはり朝治は部落やからか…」と思われかねない。だから他者に責任はなく、自分の対応の甘さを後悔している。またある意味で部落民とは自覚的な存在といえるだろうから、自分が部落出身であることを他者からいわれることと、自分が語ることとでは全然違う意味があるはずだ。そこを今後、歴史の中で考えていきたいとも思っている。
平野以前に、部落民を名乗るということについて調べてみると、私が知る限り1916年の三好黙軒伊平次「偶感偶語」が最も古いようだ。しかし彼はこの中で「我は穢多・新平民なりと叫べよ」と書いているが、やはり融和主義者の三好らしく部落民の中でも技量のある者がそう名乗るべきで、そうすれば社会の部落に対する見方が変わるだろうとしている。これは部落一般に対していっているわけではないが、私は画期的な文章だと思う。ただこれを融和運動と見るべきか、その時代背景では意味があると評価すべきかはこれから考えていかなければならないと思う。その次は1918年に「紀伊毎日新聞」に載った「俺等は穢多だ」という文章ではないだろうか。これはよく知られた文章で、部落民自身が平等な人格的存在権や生存権を社会に要求する内容となっている。このように平野以前から徐々に水平社につながる思想が出ていたといえる。
平野に焦点をあてて
では、「全国水平社創立宣言」の添削者である、平野について注目してみたいと思う。彼の書いた「民族自決團」の文書には、「全国水平社創立宣言」に紛れ込んでいる文書がいくつかある。その中で自分たちのことを呼ぶときに「民族」という言葉を使っていたことから、恐らく部落とは大和民族に征服された先住民族だと思っていたようだ。しかしこの考え方は1919年に既に否定されており、学問上では徳川時代の封建政策によって生まれたとなっていたのだが、平野にとっては大和民族に征服された穢多民族として、大和民族を激烈な言葉でターゲットにすることで自らの民族性を強調する部落問題のとらえ方だったようだ。同様に、最近出てきた史料「差別撤廃の真の叫びを聞け」でも、平野は差別に反対しているが国家、民族のまとまりを強調しており、激烈な文書だといえる。
西光の差別撤廃の仕方が部落民もそうでない者も互いの人間性を尊重することで差別の無効さに気づいていくというある種宗教的なものであったのに対して、差別を差別としてその矛盾点を相手に突き付けて反省を促すものであった。しかし、平野は「エタ」だけでなく、「人間」をも強調していることから、西光と対比させるものでもない。むしろ西光と平野の2つの考え方が相まっていたからこそ創立宣言は意味があったと私は思っている。
全国水平社創立への疾走―創立関係者たちー
水平社の創立には多くの人が携わってきた。そこにおける西光万吉の役割は今でいう宣伝部長のようなものだったようだ。水平社が運動として成立したときにそれが社会に受け入れられるよう、社会との折り合いをつけて文章が書ける人であった。これに対して平野は水平社の運動を部落解放運動として組み立てる、今でいう運動部長だったと思う。西光が社会全体に大きく目を開いていたとすると、平野は部落の中の組織化や団結を強調していたと思えるからだ。
しかし一般的には水平社といえば西光万吉ばかりが脚光を浴びているようだが、もっと平野や阪本誠一郎、駒井喜作、南梅吉らにも注目すべきではないだろうか。そうすれば今の運動も、水平社の歴史もよく見えてくるのではないかと私は思っている。