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衡平社創立80周年記念・(社)部落解放・人権研究所創立35周年記念
『衡平運動』出版記念講演会

韓国の衡平運動の歴史とその現代的な意義

金 仲 燮さん(通訳:高正子)


1. 衡平運動の歴史

衡平社は1923年4月24日、晋州で組織された、当時韓国でもっとも長く存続した社会運動団体であった。衡平運動は、白丁たちの身分解放運動であるとともに、伝統社会の差別克服のための人権運動でもあった。しかし、その研究に着手するまでには数多くの困難に直面した。

まず、基本的な資料が集まらず、新聞記事を収集して分析するところから始めざるを得なかったのであるが、この作業を通じて分散化されていた歴史が、一つのまとまりに再構成されていった。しかしながら、これだけでは不十分であり、実際に衡平運動に関わった人々やその子孫へのインタビューを実施しようとしたのだが、ここでも困難に直面した。なぜなら、白丁の子孫を突き止めること自体の難行に加えて、たとえ突き止めたとしても、その名を明かすことは許されなかったためである。

さて、実際の研究を進めるに当たって、いくつかの問題を設定した。すなわち、(1)なぜ衡平運動は起こったのか、(2)なぜ晋州で衡平運動が発生したのか、(3)だれが衡平運動を起こしたのか、といった問題である。

(1)なぜ、衡平運動は起こったのか

この問題については、当時、米国のウィルソン大統領が主張した民族自決原則に刺激を受けて韓国内で独立運動が巻き起こり、そういった植民地という状況下であったからこそ三・一独立運動は可能であったのと同様に、韓国そのものの経験を検討することが重要であるが、それとともに日本の水平社の影響という点の検討も必要である。名称や、その性格も類似しているとともに、時期的にもほぼ一致しており、何らかの影響があったことは否定し得ない。

白丁とは、李朝時代の身分制度のうち、最下層に置かれた人々である。その起源については諸説があるが、私は職業によるのではないかと考えている。つまり、と畜・皮革といった、一般的に忌避された職業に就かされていたことが、大きな要因であると思われる。

白丁たちは、名前や言葉、居住地、服装など、あらゆる側面で、生まれて死ぬまで差別されたが、彼らが衡平運動を起こす契機は、19世紀以降に起こった伝統社会の崩壊であった。日本が韓国を侵略した後、白丁が従事していた産業に日本人や一般人が参入し、白丁たちは屠夫に転落していく。他方で、公設市場に出店する者も現れ、白丁内部で階層分化が進んでいくことになる。

(2)なぜ、晋州で起きたのか。

晋州は、かつて慶尚南道の道庁所在地として栄えていたが、19世紀末には、陸の孤島と化していた。

「なぜ、晋州で起きたのか」、この疑問を解く鍵は19世紀以降の政治的事件に見出せる。つまり、甲午農民戦争や東学党の乱といった、反対運動の中心地がこの晋州だったのであり、さらには20世紀初頭のキリスト教伝播の際、同席礼拝拒否事件が晋州で発生している。その後も、晋州から社会運動が発生しており、仮説ではあるが、これらの運動を素地として、衡平運動が発生したのではないだろうか。

(3)誰が衡平運動を起こしたのか。

衡平社設立当初、組織委員は5名で構成されていた。その中心人物としては、姜相鎬(カン・サンホ)と、張志弼(チャン・ジピル)が挙げられる。

姜相鎬は、白丁出身者ではなく、東亜日報社に勤務した後、女性教育運動や労働運動に身を投じた人物である。他方、張志弼は、白丁出身で、日本へ留学した後、晋州からソウルへ移り、大同社へと参画した後、忠清道に移り住んだとされる。この両者は対照的な指導者で、前者は文化・教育運動の重視した穏健派であり、後者は経済闘争を志向した急進派であった。この両者の派閥闘争が、衡平社をして、ダイナミックな運動ならしめたのである。後に穏健派は晋州派と呼ばれ、慶南地方を地盤とし、急進派はソウル派として、中部地域を勢力範囲としていた。衡平社は後に本部をソウルに移転し、急進派のイニシアティブの下、運動が展開された。しかし1930年代に入り、日本政府が統制を試み、若い衡平社員を冤罪事件で検挙し、衡平運動は衰退していく。

結局1935年、大同社と改称するが、日本への協力団体、利益団体に堕していき、ここに、衡平運動は終わりを告げたのである。

2.衡平運動の現代的意義

現在、白丁という身分集団や衡平運動の痕跡は、まったく喪失してしまっているが、それは現代韓国社会の三段階の大変動に起因する。

すなわち第一に、植民地末期に、多くの人々が故郷を離れたり、徴用されたり、慰安婦とされたりしたこと、第二に、解放後の南北分断、戦争により、多くの人命が奪われ、家族が離散したこと、第三に、軍政期以降の産業化によって、都市への流入が進み、地方のコミュニティが崩壊したこと、であるが、衡平運動の持つ歴史的意義は、極めて大きい。

(1)人権運動としての衡平運動

衡平運動は、人間の尊厳と、平等な取り扱いを求めた運動であった。これらの理念を改めて捉えなおし、継承していくことが極めて重要である。というのも、韓国においては、「二重的状況」、すなわち、差別意識としての白丁差別が依然としてあり、他のあらゆる形態の差別(外国人労働者、低所得者、低学力者、女性、子どもなど)もまた存在するからである。それゆえ、実践的に実態を改善する運動が必要なのであって、その点では部落解放運動に学ぶべき点は多い。

現在、韓国では衡平運動に注目が集まってきており、その中で、衡平運動を担った人々の子孫が、自らを誇りに思うようになってきている。

(2)共同体運動としての衡平運動

個人主義化が進み、個人はますます無力な存在となっている現代社会において、衡平運動の精神は極めて重要である。すなわち、「差別をしない共同体」の追求なのである。

(3)国際的連帯の重要性

また衡平社が水平社と連帯していたように、人権とは一国内でとどまるものではなく、人類社会に必要な価値なのである。

その点、今回、80周年記念事業を共同開催できたことは、極めて意義深い。韓国では、白丁はもちろんのこと、日本の部落や、インド等のダリットといった人々は、ほとんど知られていない。今回のこの取り組みを通じて、各地で人権意識が高まれば、よりよい世界となるに違いない。

(李 嘉永)