はじめに
二〇〇二年三月をもって、地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律(「地対財特法」)は失効した。一九六九年に同和対策事業特別措置法が制定されて以来、特別法に基づく同和行政が行なわれ、後述するように多大な成果を上げることができた。これは、歴史的実績として評価されねばならないだろう。
しかし、現実には様々な差別事象が依然として各地で度々発生するとともに、同和地区においては教育、就業、福祉などの面で未だ多くの課題を抱えていることも事実である。
このような状況下で特措法が失効したが、一部にはもはや同和行政は必要ないのであるとか、いやむしろ行なってはならないのであるという誤った考えを持つ向きがある。そして目的意識のはっきりしない一般的な人権啓発として講演会、標語、ポスターなどで「体裁を整える」ことが、地方自治体で行なわれていないだろうか。これらに効果が全くないとは言えないが、同和問題、さらに広く人権問題を考えたとき、とられなければならない施策は、もっと違ったアプローチを必要としていないだろうか。
そもそも行政は取り組むべき課題が存在する限り、優先順位の問題はあるが、特別の財政措置が講じられていようといまいと対処しなければならないことは当然のことである。特に同和問題については、一九六五年の「同対審」答申で次のように述べていることを再確認しなければならない。
同和対策は、日本国憲法に基づいて行なわれるものであって、より積極的な意義をもつものである。その点では同和行政は、基本的には国の責任において当然行なうべき行政であって、過渡的な特殊行政でもなければ、行政外の行政でもない。部落差別が現存するかぎりこの行政は積極的に推進されなければならない。(下線引用者)
さらにこの答申を受けて、一九九八年の地対協の意見具申では次のように述べている。
特別対策の終了、すなわち一般対策への移行が、同和問題の早期解決を目指す取組みの放棄を意味するものでないことは言うまでもない。一般対策移行後は、従来にも増して、行政が基本的人権の尊重という目標をしっかりと見据え、一部に立ち遅れのあることも視野に入れながら、地域の状況や事業の必要性の的確な把握に努め、真摯に施策を実施していく主体的な姿勢が求められる。
この二つの審議会の意見からも明らかなように特別対策は、当時の社会や行政の状況に鑑み、早急に同和問題の問題を解決するためにとられた手段であり、特別対策=同和対策ではない。この点をしっかりと確認することが出発点である。
二〇〇一年七月一〇日に、自由民主党政務調査会長に提出された同党地域改善対策特別委員長見解では、同和問題に取り組む基本的姿勢として「一般対策があるものはその一般対策で対応し、一般対策があるものの工夫が必要なものは、法律改正等を含めて積極的に工夫を加えて対応し、受け皿となる一般対策のない場合は臆することなく一般対策を創設し、必要な場合は立法措置を講じるべきであると考える」と述べているが、右の審議会と考え方を共有している。
同和問題や人権問題の根本的解決のためには今が極めて重要な時である。この方向を誤ると、長い間多くの先達が流してきた汗を一気に無に帰してしまう恐れがある。
このため、今日の時代に適合した堅固な哲学を確認し、基本的な方向を明らかにすることが絶対的に必要である。
一 現状の認識
同和問題については以前からたくさんの実態調査が行なわれ、その結果に基づき対策がつくられてきた。一九二一年の内務省による「全国部落統計表」の作成を最初として、戦前は一九三五年に中央融和事業協会によって、戦後は一九五八年に厚生省によって行なわれ、さらに「同対審」答申の基礎になった一九六三年の同和対策審議会による調査は包括的なもので、今日でも大変貴重である。その後、一九七一年に総理府による調査などいくつかの調査が実施されている。
同和問題を論ずる場合、このような科学的な調査データを基礎に行なわれなければならない。これにより問題点が浮き彫りになり、国民の共通理解がすすみ、効果的な対策が構築されるのである。感覚的、情緒的な議論に終始することは、排除されなければならない。幸い過去の綿密なデータは蓄積されており、これは十分に活用するに値する。
直近の全国的なデータは、一九九三年度に総務庁(当時)によって行なわれた同和地区実態把握等調査である。私は総務庁地域改善対策室長としてこの調査の責任者であったが、非常に思い出深い仕事であった。地区概況調査は、地対財特法の対象地域全数(四六〇三)、生活実態調査は、対象地域内の同和関係世帯の五分の一にあたる約六万世帯、意識調査は、この六万世帯の世帯主と対象地域外に居住する約二万四〇〇〇人、をそれぞれ対象とする膨大な調査であった。
民間運動団体の全面的な協力、関係地方自治体の努力、そして当時の地域改善対策室の職員の昼夜分かたぬ勤務により、回収率は極めて高く、調査は成功裏に終わった。集められた調査からは、大変信頼度の高いデータが得られた。
この調査結果は、その後の同和対策の企画、立案の基礎になったが、今日でもこれからの同和対策を考えるのに極めて貴重である。
この調査の分析、評価は、地対協の中に設置された小委員会で行なわれた。小委員会の報告は、一九九五年六月に行なわれているが、今日でもその内容は重要で貴重である。その内容は結論的に言えば、次のようにまとめられる。
- 生活環境の改善をはじめとする物的な基盤整備がおおむね完了するなど着実に成果を上げ、この結果、様々な面で存在していた格差は大きく改善された。
- 他方、教育、就労、産業など格差がなお存在している分野がみられる。差別意識は解消に向けて着実に進んでいるものの、結婚問題を中心に依然として根深く存在している。人権侵害が生じている状況もみられ、その際の人権擁護機関の対応はなお十分なものとは言えない。適正化対策もなお不十分な状況にある。
問題は、この状況が、一〇年経過した現時点でどのように変化、改善されているかである。失われた一〇年と言われている。日本の経済は、バブル経済の崩壊後、今日まで下降線を辿り、容易に立ち直れない。この打撃は、より社会的に弱い層ほど大きいと考えるのが自然であろう。
失業率は、現在五%を超え、右の調査が実施された一九九三年よりもはるかに悪化している。同和地区では、一九九三年の調査では表1のとおり不安定就労の割合が高いので、雇用状況の厳しさは他より増していると考える方が自然だろう。
人権意識も必ずしも向上しているとは言えない。例えば、二〇〇一年一〇月にまとめられた栃木県同和対策審議会の意見具申は、次のように述べている。
県民意識については、平成十二年意識調査によって把握された。たとえば、「今の日本は基本的人権が尊重されている社会であるか否か」に対して「そう思う」が二五・二パーセントにとどまるなど県民全般の人権問題についての理解・認識はもとより関心が低い状況にあると言わざるを得ない。
以上のように同和地区の問題は、相当部分について未解決になっていることを前提にしなければならない。
二 基本的哲学と方向
同和問題の解決のための基本哲学は、「同対審」答申に明らかになっている。私は、次の二点に集約できると思う。
- 同和問題は、人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、憲法によって保障された基本的人権にかかわる問題である。
- 同和問題の解決は、国の責務であり、国民的課題である。
「同対審」答申の策定に中心的な役割を果たされた磯村英一先生から、生前、私は何回となく<2>の文言を入れる時の苦労話を聞いた。答申をまとめるにあたって最も苦労されたのが「国の責務」と「国民の課題」の二つの言葉であったという。この言葉だけで三日間議論された。今日においてもその根本的哲学的価値は揺るがない。(注1)
部落差別が、市民的権利、自由の侵害をもたらしてきたことは、異論のないことであり、前者の考えは、当然のことであろう。この延長線上にあるのが、一九九六年の人権擁護施策推進法であり、二〇〇〇年の人権教育及び人権啓発推進法である。この観点から国、地方自治体では、人権啓発が行なわれている。
問題は、人権についてどのように考えるかである。人権は、人間の長い歴史における闘いの中で確立されてきたものである。自然権の観念といえどもそうである。人権は現実の社会や生活と深く結びついているので、そのコンテクストで考えなければならない。
一七八九年のフランスの人権宣言では「人は自由にして、権利において平等である」と書かれてあるが、その解釈・適用も、歴史の中では恣意的であった側面は否めない。例えば、人権宣言が制定されても、男女間の不平等は長く続いた。人権宣言の適用は、当時は男の世界に限定されていた。
またフランスは、一九〜二〇世紀においてアフリカやアジアで植民地経営に乗り出したが、植民地化される以前から居住する人々に対するフランス人の行為は、人権宣言の精神からは大きく離反するものであった。
このように人権は、恣意的、選択的に解釈運用される可能性を常時抱えている。近代社会学の創設者オーギュスト・コントも、「もし、人々が十分意識しなければ、人権は観念的かつ恣意的になる」と二〇〇年前に警告しているのである。
したがって、人権は現実の社会や生活の中で個別的具体的にとらえていかなければならない。人権を観念的抽象的にとらえると、正しく理解することができず、誤った方向に進む可能性がある。これは歴史が証明するところである。
例えば医療における人権を考えてみよう。医療にあたって十分に患者の人権を尊重しましょう、と病院の経営方針を唱えることは大変結構なことである。しかしより大切なことは、インフォームド・コンセントの実行、貧富や社会的地位に関係のない最善の医療の提供などである。また、社会福祉であれば、障害者の自己実現のための福祉サービスの選択権の保障であったり、苦情の解決の確保などである。いずれにしろ個別的具体的な場における展開である。
同和問題の解決も同様である。前述のように人権侵害は未だ多い。この解決のためには、抽象的一般的な人権啓発や教育では効果が薄い。同和問題の特性に留意した方策が望まれる。
さらに同和地区では教育、就労、福祉などで未だ未解決の課題が多い。これ自体が人権問題と直結する。人権問題は実体として存在するから、これらの解決を図ることがすなわち人権の向上となる。解決を図る際には人権的視点を中核に据えることも大切である。
それでは、この基本哲学をもとに施策をどのように展開していくべきであろうか。
二つに分けて考えた方が分かりやすい。互いに密接に関係するが、第一は、人権事案への対応である。すでに述べたように同和問題の特性に留意した個別的具体的な方策である。私が総務庁(当時)地域改善対策室長に在任時にオーストラリアの人権・機会均等委員会を視察する機会があった。委員会は二百人の専属スタッフを抱え、各省の政策や法律案が人権の見地から問題がないか審査する権能が与えられていた。また、個別の人権侵害に対しても審査・調停を行なっているほか、人権教育のプログラムを作成していたが、先住民族であるアボリジニーをはじめ、女性障害者などそれぞれの問題に即した分かりやすく楽しい教材であるのに感心した。抽象的な「人権を大切にしましょう」などはなかったのである。これもアボリジニーへの迫害、白豪主義などの人権侵害の歴史的な経験から学んだ結果である。日本にとって大変参考になると思った。(注2)
第二は、教育、就労、福祉等について同和地区の抱える問題の解決である。特別対策は二〇〇一年度をもって終了したので、これからは一般対策をいかに的確に活用して問題の解決を行なっていくかである。そもそも行政は、ニーズが大きい分野に重点的に対策を実施するべきである。課題を多く抱えた同和地区であれば、一般施策の資源は優先的に投入されるべきだろう。
しかし複合的に問題を抱えた同和地区で、どのように一般施策を組み合わせて解決していくか工夫を要する。この場合役立つ手法は、まちづくりの手法であると思う。まちづくりは、その地域の自然的歴史的社会的要件を踏まえながら、住民の参加のもと地域のあらゆる資源を動員し、地域にふさわしいまちをつくっていこうとするものである。
三 ソーシャル・インクルージョンの理念
まちづくりの観点のみならず、広く人権の観点から最近の社会において特に注意しなければならないことは、社会からの排除、孤立による課題が非常に多くなってきたことである。この状況は、図1のように表すことができる。(注3)
まず社会からの排除の問題としてホームレスがある。日本では以前からホームレス問題は存在した。しかし最近のホームレスの増大は、経済的社会的な構造変化に起因することに留意しなければならない。厚生労働省の調査では、ホームレスは増大の一途を辿り二万人を優に超えているが、大都市だけでなく、全国の地方都市にも拡大している。
この要因は、近年の経済的不況ということだけでなく、建築土木業の大幅な機械化の導入、住み込み形態の仕事の減少等の構造的変化がある。また単身世帯の増加等家族機能の縮小、地域の相互援助機能の減退がある。したがって、たとえ日本の景気が回復したとしてもホームレスの減少にはつながらない。
しかしホームレス問題に対する日本の公的施策は必ずしも十分でないうえ、地域社会の対応は排除の思考に基づくものなのではないだろうか。
一方、大都会のアパートで高齢者が死後数週間経ってから発見されることも、珍しくなくなった。日本住宅公団(当時)などによって高度成長期に建設された団地の居住者が今では高齢化する一方、その子どもたちは独立して離れ、高齢者の夫婦のみや単身の世帯が増加している。また近所とのつながりも薄いため、誰にも看取られることなく寂しく亡くなっていくケースが多くなり、都市基盤整備公団でも対策に乗り出している。
図1のとおり社会からの排除、孤立の問題の種類が多いだけでなく、人数も増大している。これは、日本だけでなく先進国共通の現象である。この問題に積極的に取り組んでいる国は、フランスである。
元来フランスは農業国で、家族や地域のつながりを大切にする国であった。しかし戦後、国内の産業復興や都市雑業等の労働需要があったこともあり、アルジェリア等の旧植民地から外国人が移住するようになった。しかし、これらの移住者が高齢化し、不況で失業が増大してくると、社会から排除される現象が一九八〇年代後半から目立つようになってきた。社会の不満を吸収する形で、極右勢力が外国人に対する排除運動を全国的に推し進め、かなりの支持を集めるようになった。
また、不況や家族機能の縮小などにより若者の失業、ホームレス化、麻薬などの薬物中毒も増大したため、彼らも社会から排除され、孤立する傾向が表面化した。
このため一九九七年登場した社会党のジョスパン首相は、翌年、社会からの排除を防止する基本法を制定し、総合的な政策の実施を開始した。例えば、住民登録がなくても社会保障給付が受けられるようにすること、空き家にしている家主に高率の課税をして住宅の提供を促進することなどである。この政策の基本にあったのは、外国人や失業の若者を社会から排除するのでなく社会の一員に入れていくソーシャル・インクルージョンの理念である。
これは、一九九七年イギリスに登場した労働党のブレア政権にも大きな影響を与えた。イギリスでも人口の五%程度の外国からの出身者が居住し、社会から排除される状況がある。また一時は二四万人にもなったというホームレスの存在もあった。
そこでブレア首相は、単に社会保障給付を行なうのでなく、外国人・失業者等に仕事を用意することにより、社会の一員とするソーシャル・インクルージョン政策を導入した。
日本でも同様の問題を有しているが、これらの解決のためにはソーシャル・インクルージョンの理念やそれに基づく政策が極めて有効であると思う。また、まちづくりにあたっても、このソーシャル・インクルージョンの理念が重要である。
四 まちづくりの具体策
現在、まちづくりは各地で試みられている。犯罪のない明るいまち、人権尊重のまちといった宣言だけのものもあれば、かつての新産業都市、ニュータウン建設といった大規模なものもある。しかし同和問題の解決のためのまちづくりは、このようなものではない。前述したように同和問題の解決に有効な方法は、まちづくりであると私は主張してきたが、この立場上、具体的な方法を常に考えてきた。
これはなかなか難しい問題であるが、大きなヒントになっているのは、イギリスで最近多大な実績をあげているCAN(Community Action Network:コミュニティ・アクション・ネットワーク)の活動である。CANの存在を知ったのは、偶然である。私が個人的に関与している日英高齢者・障害者ケア開発協力機構が、二〇〇〇年一一月にイギリスからNPOの専門家を招いて これからのNPO活動のあり方を議論する機会があった。その時、有名なメンキャップなどの団体とともにCANという団体のメンバーが参加していた。リビー・ブレイショーという女性であったが、その話を聞いて大きな衝撃を覚えた(注4)。彼女の話の大要は、次のとおりであった。
ロンドン東部にブロムリ・バイ・ボウという地域がある。約五〇種類の言語が話されているという多くの国からの移民で形成されている地域で、失業率も高く、イギリス第二の大きなスラム街である。社会的に排除されている地域と言える。
一九〇〇年頃、この地域に公園が建設された。ここは生活環境が悪く、結核等の患者が多かったため、その改善のために建設された。建設されてまもなくは地域住民による利用者が多く、緑の中でのリフレッシュという健康上の効果を発揮した。しかし時の経過とともに手入れが行なわれないまま荒れ放題になった。それが一九五〇〜六〇年代にかけてボブという管理人が勤めるようになると、彼は大変真面目に仕事をし、公園が再び活発に利用されるようになった。これは、誰かが力を注げば地域の活性化につながるという教訓を残したが、彼の退職とともに再度荒れ放題になっていった。コンクリートの瓦礫やゴミが投げ捨てられ、雑草が繁茂し、果ては麻薬の取り引き場所に使われもした。
このようなブロムリが一変するきっかけになったのは、ジーンという若い女性の死である。ジーンは、二人の子どもを抱える母子家庭世帯で、さらにアルコール依存症の父親、心身の障害を持つ母親、知的障害を持つ弟があり、彼らの面倒もみなければならなかった。このような過重な負担が災いしたのか、ガンにおかされてしまったのである。しかしジーンは、公的な専門医療サービスや福祉サービスを受けることなく、亡くなってしまう。
そこで周りの人たちは、なぜジーンは早死にしなければならなかったのか、行政機関がなぜ援助してくれなかったのかを話し合い、行政機関に対する追及を始めた。しかし行政機関や医療、福祉の専門家は、責任回避の態度に終始した。
ブロムリの住民たちは怒りを感じながらも、明日はわが身と思い、行政に任せておけない、自分たちでこの問題に取り組まねばと立ち上がった。今から二〇年前のことである。
まず保健医療サービスが適切に受けられるように、地域住民で医療施設の建設に着手した。建物のデザインや機能は、自分たちで議論して決めた。親しみの持てる温かいデザインの、日常の保健サービスも含めた包括的な医療施設にすることにした。
資金調達も自分たちで行なった。建設費は総額一二〇万ポンド(約二億二〇〇〇万円)であったが、五〇万ポンド(約九〇〇〇万円)は、政府からの交付金をうけ、残りの七〇万ポンド(約一億三〇〇〇万円)は、市中の銀行から三〇年返済で借り入れた。この返済には、医療施設を借りて診療にあたる医者からの賃貸料収入が充てられている。
次に、荒れ放題であった公園を市から三〇年リースで借り、地域住民で管理、利用することにした。管理費は自分たちで負担することにした。この公園は住民にとってレクリエーションの場にとどまらず、相互の交流を行なうのに大変有益な役目を果たすことになる。
行動は、さらに拡大する。子どもたちのために保育所をつくろうということになった。従来の画一的な建物でなく、木材を主体とし、芸術的なデザインの明るく親しみやすいものにした。これも行政に依存することなく、自分たちで企画、実行した結果である。
さらに子どもたちのバレエ教室もつくった。たくさんの子どもたちがここで練習している。なかには国を代表するようなバレリーナになった子もおり、住民の自信になっている。教師には、かつて経験のある地域の人がなり、レッスン料の収入も得ることができた。
以上がブレイショーが述べたブロムリ・バイ・ボウのサクセスストーリーであり、まちづくりの模範例である。
そこで、この活動の中心になっているCANについて知りたいと思い、翌年CANの中心的役割を担っている指導者を招いて、大阪市、北九州市でシンポジウムを開催した。CANの創設者アンドリュー・モーソン、ブレア首相の旧友ピーター・トムソンなど四名で、CANの実情を知るのに最適なメンバーであった。彼らの話を総合すると次のようになる。(注5)
もっとも基本的な概念は、社会起業家(ソーシャルアントレプレナー)である。行政に依存することなく、自分たちで考え、資金を集め、仕事をつくる。この面では起業家であるが、社会的に有益な仕事を行なう点が、社会起業家の所以である。
次に、住民参加のもとに進めることである。サービスの受け手にとどまるのでなく、みずから活動に参加する。事業の透明性は当然の前提である。
また、利用できるものは何でも利用するというしたたかさである。それは企業であったり、行政機関であったり、著名人であったりする。英国航空、コカ・コーラ、英国ガスなど大企業に、営業上のメリットを示しながら協力を得る。見事な営業力である。地方自治体から空き施設を借りて、貸し事務所を営むこともする。
CANは、組織として正式に発足したのは一九九八年であるが、全国各地に支部があり、地域性を活かして市民、企業、行政が協働して、仕事の創出、社会サービスの提供、環境整備などを行ない、現在大きな成功を収めている。
ブレア政権もCANの活動を支援し、社会政策の一枚看板となっているソーシャル・インクルージョンを推進する有力な手段に位置づけている。
日本とイギリスとは、政治的、経済的、社会的背景において異なる面が多いが、CANの手法は、まちづくりを進める観点から極めて有効な方法であると思う。
以上のように人権同和行政は、現在、歴史的な岐路にあるが、この小論は、私の能力不足と時間的制約のため極めて考察が浅く、不十分なものに留まっている。序論と称したのはその故であるが、いずれかの機会に本論をまとめたいと思う。これからも、同和問題と人権問題に深い関心をもってその解決の行く末を見守っていきたい。
注
(1)総務庁地域改善対策室編集『同和行政四半世紀の歩み』(中央法規出版、一九九四年)九頁の磯村英一の発言は興味深い。
(2)地域改善啓発センター(当時)『アイユ』一九九五年一一月一五日号掲載のオーストラリア人権・機会均等委員会委員長の発言。
(3)『社会的な援護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会報告書』厚生省二〇〇〇年一二月八日、参照。
(4)ブリティッシュ・カウンシル『英国の市民社会』(二〇〇一年、非売品)に、CANの活動が日本語で紹介されている。本論文もこれを参考にしている。
(5)Paul Brickell 'People before Structures' Demos, 2000.