癩病と中世の非人
10代の終わりに、北条民雄『いのちの初夜』(1936年)を読んで感動したことがある。らい病棟に入所させられた絶望と再生を綴り、川端康成に激賞されて文学界賞を受賞した作品である。もともと感染力の弱いハンセン病が不治の病ですらなくなって半世紀余も経た2001年5月、熊本地裁は患者・元患者への強制隔離という人権差別を続けた国の責任を問う判決を下し、決着した。
ハンセン病の歴史は古く、日本史でも古代から史料に登場するが、癩者が不浄の罪を背負った存在として差別されるのは、律令制の解体が進行した平安時代のことらしい。『今昔物語集』には、比叡山の僧が仏事を妨害したため仏罰によって「白癩」にかかり、「片輪者」が集まる清水坂の下に移り住んだが、間もなく死んでしまうという話がある。清水坂といえば、奈良坂とともにあまりにも有名な非人の集落地であった。
中世の非人は、癩者・乞食(こつじき)・穢多(えた)・濫僧(ろうそう)・庭者(にわもの)・清目(きよめ)・獄囚(ごくしゅう)・犬神人(いぬじにん)などと実に多様であるが、同一の集団でも重複して様々に呼ばれることが多い。また暮らしの場が共同体から排除されていたが故に河原者・坂者・散所者などとも称された。近年では声聞師(しょうもじ)・傀儡師(くぐつ)・千秋万歳(せんずまんざい)・猿楽・曲舞(くせまい)・舞々(まいまい)・猿飼など多様な芸能民も注目されている。もっとも、非人を河原者(穢多)や散所・芸能民等とは区別する限定的なとらえ方もあり、単純ではない。
考古学と被差別民衆史の接点を求めて
ところで、被差別民の歴史を、考古学で研究するのは可能なのだろうか。正安元年(1299)の『一遍聖絵』には、白頭巾を被った人々(癩者を含む)をはじめ、非人の姿も多く描かれているが、彼らの住居となると、板を斜めに立て掛けただけのものや、粗末な小屋、また四天王寺では特異な車輪付きの小屋などが描かれている。これでは発掘調査をしても遺構を認識するのは無理であろう。歴史学の一分野とはいえ、考古学では賤民史は射程外なのだろうか。だが、もし何か特徴的な遺物が出たらどうだろうか。例えば牛馬の骨である。10世紀の『延喜式』によれば、京都の鴨川べりに牛馬を解体する「屠者」がおり、『左経記』長和5年(1016)正月2日条では彼らは「河原人」と呼ばれ、また永仁4年(1296)成立の『天狗草子』では「穢多童」が登場する。近世初頭の高津本『洛中洛外図屏風』にも、鴨川の三条河原で牛馬を解体する河原者の生々しい様子が描かれている。
ここで、発掘調査の実例を見てみよう。
和泉国南郡麻生郷の一角に成立した中世の「嶋村」は、近世には岸和田藩の「皮田村」となった被差別のムラである。「かわた」とは死牛馬を解体し、皮を剥いだ人々のこと。まさにその旧嶋村に位置する貝塚市東遺跡で被差別部落の起源に重要な一石を投ずる発見があった。1997年2月の発掘調査で、遅くとも14世紀に成立した中世集落の北端が確認され、その少し外側で直径3〜4mほどの大きなごみ穴(14世紀)がみつかった。ここから多量の牛馬骨が散乱状態でぎっしり詰まって出土し、この中世集落の人々が牛馬の解体に従事していたことが判明した。文献史では、嶋村などの和泉の被差別ムラの成立は16世紀とされてきたから、これは研究者の予測を超えた発見であった。近世の遺構からも獣骨が出土し、牛馬とともに歩んだ嶋村の歴史の一端が垣間見えた次第である。
実は類例は1992年、大阪市でもみつかっていた。旧船場北部の道修町で、牛馬骨をまとめて捨てた中世後期の土坑が発見されたが、当時は私もその意味が理解できなかった。淀川の旧本流である大川沿いのこの一帯は、中世には「渡辺津」と呼ばれ、熊野街道の起点であった。この地の人々が、秀吉による大坂城と城下町船場の建設に伴い、周縁に追いやられて何度も移転させられ、近世の渡辺村(現浪速区)に落ち着いたのだが、その人々の故地周辺にも牛馬の解体者がいたわけである。
こうして中世の大阪府下では、卑賤視された屠者の集団が点在したとの見通しが得られることとなった。見逃せないのは、これら獣骨廃棄土坑が小河川・大溝などのほとり、つまり河原のごとき場所でみつかったことで、牛馬の解体と皮なめしに多量の水が必要だったことがよくわかる。
近年、注目を集めているのは動物考古学である。そのパイオニアは古代の牛馬骨出土例から動物の利用、解体処理集団、肉食などの実態に迫った松井章氏。若手には久保和士氏がいた。久保氏は近世大坂の骨細工資料を他の中近世都市の資料と比較し、17世紀第一四半期までは城下町の周縁地域に排除されていた骨細工が、その後船場など城下町の中に進出したこと、その背景に分業を前提とする牛馬の解体処理・骨の流通システムが大坂の豊臣期(1580-1615)かその直前に成立したことを精力的に追及された(『動物と人間の考古学』)。道修町では中世に牛馬解体者がいたことを想起すると、開発によってそれが都市外に追いやられ、今度は骨だけが手工業の原材料として流入したことがよく理解できる。かくして久保氏は中近世都市論にまで踏み込んだのだが、期待された彼の突然死が惜しまれてならない。
考古学と現代
「人の世に熱あれ!人間に光あれ!」と結んだ1922年の水平社宣言から約80年を経て、なお部落差別は今日に残っている。かつて全国で6000部落・300万人と称された実数も、1993年には4442箇所・約90万人分の同和事業対象地区が残っていた(総務庁調査)。
以前私は、嶋村や道修町の例を取り上げて毎日新聞の学芸欄に小文を書く機会があった(「考古学が明かす差別の歴史」1999年8月27日夕刊)。その時、否応なく意識したのは、このテーマを叙述する事自体が現代史だということであった。部落史の関係者によると、「これまでは秀吉以後、政治的に作られたのが被差別部落であり、それゆえ部落解放運動は政治課題として闘う、と合意できた。だけど部落の起源がそんなに根深く、しかも職業起源説になってしまうなら、当事者たちは元気を無くしてしまう。」とのこと(もっとも、太閤検地や刀狩りなど秀吉の身分統制を近世被差別部落の直接的起源とみる通説に立つ限り、中世の実態如何に左右されることはないはずなのだが)。そこで、貝塚市の部落解放団体と電話で何度か話し合った。先方は真摯であった。「発掘で出たものに学術的に対応するのは当然だが、全国紙に書くとなると、読者は一般市民。現代の地名をあげることには慎重であって欲しい。」との要望を受けた。被差別の地域が特定され、悪名高き『部落地名総鑑』と同じ轍を踏むことになりかねないからだ。
多かれ少なかれ、埋蔵文化財を扱う我々はこの問題に直面することがある。例えば報告書や論文に引用する古地図や絵図に被差別部落の地名が載っていたら、どうするのか。以前はそこを白い塗料で消したものだが、所詮、隠蔽にすぎない。
考古学が中近世分野に進出して久しいが、「ついに部落史まで課題になってきたか」と言われたことがある。文献史に比べ、考古学の側がこのテーマに対して鈍感・無自覚な現状をよく示すものだ。大阪府では「大阪の部落史」というプロジェクトに、1996年から考古学の者が少数参加しているが、実はこれも文献史側からの要請であり、こうした試みはまだ始まったばかりなのである。遅まきながら、かくして考古学の新たな可能性が試される。そのためにはタブー視をやめ、自由で積極的な議論が望まれるのである。