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2003.11.13
講座・講演録
部落解放研究127号(1999.04.30)より
同和行政と人権行政
―福祉施策を中心に―

大谷 強(関西学院大学)

一 同和行政から一般行政への移行に伴う不安や懸念

 依頼されたテーマには、数多くの課題が詰まっている。この文章は、結論を出すというより、今後、議論をしていくテーマをいくつか指摘するだけのものである。

1 特別措置に根拠がある行政の終焉

 多分、編集者の問題意識は、これまで30年以上にわたり続いてきた特別措置法にもとづく同和行政が、いまや終りを告げようとしている。被差別部落の住民が抱えている生活問題に対しても、これからはいわゆる一般施策によって行政が行うことになる。一般施策になって、福祉政策の分野では、どういった可能性があるかを探って欲しいという注文であろう。

 もっとも、同和行政と一般行政、あるいは一般施策を切り分ける発想自体が問題であるという正論もある。これまでも、本来の行政のなかに差別を解決するための施策を位置付けるように求めてきたのは地域住民のほうであり、行政が分けていただけである。しかも、別の行政と位置付けたために、かえって新たな問題を生み出してきたという批判もある。ただ、施策の根拠になる法律が一般法とは別に成立しており、財源の確保についても別に立てられていたために、行政としても別個に運営してきた。国も自治体も早急に重点的に取り組む必要があるという意味で、「特別措置」として別立ての行政で行ってきた。そうである以上、やはり一般行政(これも被差別部落以外ではわざわざ「一般行政」とは言わない)と同和行政(名称はさまざまであったとしても)がそれぞれ別個の制度として存在してきた現実はある。

 その特別措置の根拠法がなくなってしまえば、すべての地域、すべての住民に等しく適用されている政策が、被差別部落地域や住民にもおよぶことは当然である。しかし、これまで一般行政の施策は被差別部落ではほとんど実施されず、むしろ適用を避けており、地域住民の上を通りすぎていたのではないか。行政施策の空白地帯になっていたからこそ、特別対策で重点的に底上げや優遇政策が必要だったはずだ、という意見もある。

 特別措置によってやっと生活環境も改善され、個々の住民生活についても他の地域との格差も縮小してきた。個々にはさまざまであっても水準としてみると、ほとんど違いが見えなくなった。特別対策ではない行政になることで、せっかく格差を是正した成果が消えてしまい、競争社会のなかで生活の格差がふたたび拡大するおそれもあるのではないか。いわば、特別措置という上着を剥ぎ取られてしまうと、社会の荒波にもまれて、また底辺に落ちてしまう心配がある。被差別地域の多くの住民は、今の社会のなかで対等に競争できるだけの力をまだ身につけていないという現状認識が、そこにはあるだろう。

2 一般施策の優先的適用論

 それに対して、被差別地域に優先的に一般行政を適用させ、行政の空白地帯を生み出さないようにする取り組みも、行われている。積極的に施策を被差別部落に引っ張ってきて、他の地域の模範になるような高い地域水準を実現する試みもある。しかし、そこでも一般行政になってしまえば、被差別部落の人びとへの差別を解決するという重要な課題が他の課題の中に埋もれてしまい、深刻な差別は残ってしまう危険性があるのではないかとの不安もある。これまでの一般行政は差別をむしろ生み出し、拡大する傾向をもっているではないかとの疑いもある。

 そこで、政府や自治体の政策をそのまま取り入れるのではなく、人権行政として施策そのものを再構築していき、部落解放の課題を実現していこうという考え方がでてきたのだろう。それにしても、人権行政という概念はまだ馴染みが少ない。行政がはたして人権尊重という基本理念を盛り込んだ政策を立てることができるのか、また、期待できるのか、基本的な疑問もある。

 一方で、差別は人間関係の歪みや断絶を示しており、はたして、行政の施策で差別がなくなると考えてよいか、それじたいも議論の対象である。また、行政が差別の解決に取り組むとしても、どのような内容であるか、どういった役割を果たすのか。差別からの解放を行政施策にすべて委ねていいものか、その限界を見極める必要があるではないかといった視点も重要だ。


二 経済的判断からは限界がある福祉政策

 これまで福祉政策を研究してきた者や、とくに障害者・高齢者・子どもなど、さまざまな生活問題を抱えてきた人たちは、「同和行政から一般福祉行政への移行」という表現に触れると、福祉政策に期待し過ぎではないかと感じる。なにか納得できない、いぶかしい気持ちである。

1 経済的に乏しい福祉予算

 福祉施設や個別の事業単位でみると、人員配置の基準や設備面などの予算単価は、同和事業で行った事業のほうが高い。人手が多くて設備が良いからといって、ただちに利用する人の自立にむけたサービスの内容がよりすぐれているとは言えないだろう。しかし、平均的にはコストをかけないときよりも、質が悪くはならないはずだ。しかも、住民が利用にあたって払う自己負担額は、同和事業で実施したときのほうが、もともと低所得である人たちを対象とした施策であるために少なくて済む。

 同じ種類の福祉施設であったとしても、同和事業で実現していた水準は厚生省基準の一般施策では達成できない。事業費の単価を引き上げ、人員をより多く配置するように、福祉サービスを利用する住民たちも予算要求の運動をしてきたが、まだ低い水準のままに残っている。この格差については、保育所や子どもたちの活動する児童館、高齢者施設などで、よく指摘されてきたところである。

 これまでの日本の福祉政策については、医療や年金制度は先進国なみの水準に到達しているが、社会サービスはきわめて低い水準に抑えられていた。福祉制度の利用者には、地域の市民の標準的な生活水準よりも低い生活が営めればそれで充分だという劣等処遇の考え方が、80年代までも拭い切れていなかった。そのために、予算単価が切り詰められていて、少ない人員や設備で運営されてきた。現在でも、特別養護老人ホームや障害者の療護施設など入所施設が4人部屋を基準としていて、個室になっていないことは、その集中的な表れである。

 同和行政から一般行政への移行では、現状の予算単価や事業の運営基準を前提にすれば、住民に提供されるサービス水準はかなり下がるであろう。とくに、同和事業の場合は財源面で国庫負担の割合が大きく、自治体は他の一般施策の負担よりも少なくて済む。これに加えて、自治体ごとに国基準に上乗せしている場合には、一般施策に移るとともに、より大きく引き下げられた感じになる。

 現段階で同和事業から一般施策へ移行することは、住民にとってはサービス水準が低下することになる。一般福祉行政によって地域の福祉サービスを充実しようとしても、経済的メリットはない。

2 計画的福祉政策の時代に

 たしかに90年代に入って、高齢者介護をはじめ、障害者や子育て支援、福祉のまちづくりなど、福祉政策に新しい動きがでてきている。高齢者保健福祉計画や介護保険事業計画、障害者計画、子育て計画など、各自治体ごとに計画的にサービス数量を引き上げる政策が採られている。メニューも広がってきた。その点では成長産業の一部になってきている。これまでの社会福祉法人だけでなく、民間営利企業や市民の自主的な事業、NPOなど、新しい事業主体が各地で積極的にサービス提供に乗り出している。

 政府の福祉関連の予算規模も80年代までの動きから見ると、飛躍的に拡大している。介護保険のように、住民から保険料を集めて公費による財源の制約を取り払って、財政規模を拡大していくことも始まろうとしている。ヘルパーで現状の2倍から3倍、デイサービスでは10倍近くに一挙に伸びるはずである。その事業を被差別部落に引っ張ってきて、住民へのサービス量を拡大するとともに、地域経済の発展や雇用の機会の確保に活用したいという発想はうなづける。

 また、被差別部落ではこれまでの集中的な行政投資によって、環境改善や生活水準が引き上げられた結果、多くの住民の寿命が延びてきた。そのために、すでに改善された住居や建築物、地域の生活環境が高齢者の暮らしに対応できなくなっている。医療への依存から解放されて介護にニーズが移ってきているが、その変化に地域の生活支援のシステムが立ち遅れているために、新しい生活不安が拡大している。障害者も地域で暮らしつづけるようになったが、それを支える支援の政策はほとんど整えられていない。そうした点からも、生活支援の福祉政策のほうに、政策も事業も、運動も、力点を移すことが求められているという事情もある。

 個人にとっても、事業者にとっても、一般的な福祉政策を採用することは経済面からは従来の水準が下がるとしても、住民の切実なニーズに応えるためには取り組む必要性に迫られている。一般施策を意識的に被差別部落に誘導することは他の地域でも行われている福祉事業を、そのまま地区内でも同じように進める移行ではない。先進的なモデル事業を積極的に開発し採用して、福祉の後発地域であるからこそ、最先端に飛び出ていこうという意欲的な試みである。障害者や高齢者・子どもなど、虐げられてきた人びとの人権を尊重する新しい地域社会を作っていくことが、理念として掲げられている。


三 人権無視のこれまでの福祉政策

 同和行政を人権行政に転換させようという意図から福祉政策を見ると、避けて通ることができない問題がいくつか存在している。

1 社会の秩序を維持するための特別対策

 これまでの福祉政策は住民が主体的に参画して自分たちのために作ったものではない。政府が体制を維持するために、社会の安定化を図ろうとして対策として取り上げたことが発端である。現在の社会秩序を乱す恐れがあると判断したり、社会の効率的な運営を損ねると判断した人たちを、社会から排除するところに、政策の意義があった。

 一般社会の人びとが自分たちよりも劣るとみなした「弱者たち」を荒波から「保護」すると称して、施設への入所を強制した。その個人の利益のためであるよりも、他の住民が安心して暮らしていけるように、社会を防衛するために合意された措置であった。または、特定の人びとを能率主義で運営されている現在の社会に適応するように「治療」や「訓練」、「教育」を施すために、それにふさわしいとみなした場所に収容してきた。地域社会から切り離された施設に、同じような状態の人たちばかりを集め、個人の自由が発揮できない生活を強いた。

2 当事者の自発的な権利を無視した措置制度

 福祉政策は、本人の意識とは無関係に、社会の運営から特定の対象者を排除する目的で行われてきた。実施にあたっても、その意図を行政職員や専門家が「住民のために」を大義名分にして、制度を構想し、財源の調達方式を考え、実施してきた。仕事の現場においても、申請・利用の手続きの仕方から具体的なサービスの実施にいたるまで、行政職員や専門家だけが、決定し実行してきた。

 特定の対象者を政府が自ら作った基準で選び出し、住民としての権利を認めない代わりに、最低の水準であっても生存だけを国家が認める制度であった。行政処分である「措置制度」は当事者の権利を否定する国家の意図を表現していた。これまでの福祉政策は、個人から権利を奪い、社会から排除して偏見を生み出すという差別の政策であった。

 この特別措置行政は、対象者が決定を自ら覆すことができないし、他の選択肢を選ぶことができないなど、住民の権利を認めない構造になっていた。むしろ、対象になった人を判断も行為もできない「無能力」とみなし、社会にとって負担をかける存在という位置付けであった。そのために、施設が準備されてきた。その後は地域で生活する人びともでてきたが、政府が認める生活水準は、他の住民よりも低くなるのは、他の住民の税負担で財源をまかなっている以上当然であった。政府が公式に責任を認め、法律で裏打ちして、住民が生活していく権利を持っていることを前提にした同和行政とは、大きな違いがある。

3 生活の管理を強める政策の危険性

 住民の運動があり、福祉政策に重点が置かれるようになり、たとえ高い水準の保健・医療・福祉のサービスになったとしても、中央政府が政策を決定し、一方的に提供する関係のもとでは、住民の自立生活を支援する意図は達成できない。

 住民にとっては決められた枠内で生活を管理や規制され、社会秩序を維持する国家の意図が強調される。あるいは住民が自分で力をつけてチャレンジするように支援するかわりに、権威ある存在への依存や自分たちの力で解決すべき生活課題からの逃避を強める方向に流れてしまう。

 福祉施策の水準がとくに人員配置で低い実態を改善するために、同和行政が実現してきた人員基準を標準と認めさせる取り組みがある。たしかに貧弱な水準を引き上げるきっかけにはなるであろう。しかし、それで十分だろうか。

 豊かになった人員配置基準を利用者の自立生活に結びつけるためには、行政から一方的な形で利用者に「与えられる福祉」という性格を改革することが、鍵である。サービスを利用する側と提供する側とが対等になってはじめて、職員の数が多いことを自前の生活力に活用できる。利用する住民の手に、よりよいサービスを与えてあげるのではなく、住民自身が自分の力で生活を営むことができるように支援する関係が、求められている。パターナリズムが支配している関係をそのままに、より手厚いサービスを提供することは、利用者の依存する傾向をいっそう強め、無気力の「わな」からの脱出を困難にするだけである。

4 社会的なコスト負担論への批判

 こうした状況では、サービスに必要とされる社会的なコストも、出費にみあう効果をあげていないと評価される。「大きくなりすぎた政府論」が強調され、国民負担率という数字がまかりとおり、経費の削減を要求する声が社会的な主流になってくる。大きな政府が経済にとっても、住民にとっても問題だかどうかは、本来は論点ではない。大きいか小さいかの基準が明確ではないし、どのような政策を企画して実施するかが、検証されるべき点である。

 しかし、経済状態が停滞し、住民も可処分所得を維持するために税・保険料の負担の軽減を求める。産業界も企業の競争力を高めるために社会的負担の軽減を要求する。既得利益の確保にむかい、雇用している労働力のコストをも引き下げようとしている。その時期には、社会保障のコストを引き下げる社会的圧力は強い。

 住民の個人責任が前面にだされ、生活不安に急き立てられるなかで、個人間の格差は拡大する。コストのかかる社会的サービスを利用するものは、普通の住民とは違った存在として邪魔者扱いをされがちになる。社会的排除がいっそう強化され、福祉制度が差別を再生産する側面が前面に出る。

 1980年代に勢いをました新自由主義にたいして、従来の社会保障制度を守ることに専念していても、事態は変わらない。これまでの社会保障制度は、国家行政の肥大化を招き、住民を管理して自立をさまたげる面があった。福祉国家論に立脚した国家主導の福祉政策は、市民の権利という面からも国際的にも見なおしの時を迎えているのである。同和行政から一般施策の移行は、こうした時代の変化を促進する方向で進められることが望まれる。


四 住民が権利の主体者として政策作成に参画

 これまでの福祉政策を批判的に再構築して、住民の自己決定と自立生活を支援する新しい視点にたった社会的なシステムを明確に打ち出すときにきている。そこに同和行政で培った人権意識がどう有効に働くであろうか。

1 行政の計画段階からの住民参画

 障害者基本法では障害者政策を作成するときには、当事者が参画することが明確になった。各自治体では、障害者が施策推進委員会やまちづくり委員会などに参加しはじめている。既存団体の役員や家族の組織、専門家の組織が決定権を持っている構成の委員会もあれば、公募した障害者委員が参画する委員会までの開きがでている。

 介護保険でも被保険者としての住民が事業計画づくりにかかわり、条例の制定や保険運営にも発言をはじめている。被保険者代表として女性が選ばれている割合が高いところや、実際に介護にあたっている住民も参加している自治体もある。

 子どもの権利条約も批准されて、国内でも具体的な取り組みがはじめられている。すでに川西市では「子どものオンブズ制度」を条例で設置したし、川崎市や東京都でも条例が具体的に検討されている。焦点は子どもが保護の対象ではなく、権利の主体であり、差別から救済されるシステムを、どう実現するかである。

 保健や医療・福祉という住民の生活を支援する社会サービスは、当事者である住民自らがどう生きたいのか、どんな生活を営むためにサービスを活用するつもりなのかという、主体的な意思や意欲、目標設定を持ってはじめて、効果が発揮できる。自分で自分の持っている可能性を把握するとともに、必要なサービスを自分で選んで決定する過程が、利用できるサービスの内容や数量とならんで、最も重要である。

 しかし、参加の方法や内容は自治体によって大きく異なっている。住民がそれぞれ自分たちにかかわる政策に発言をして参画していく意義を把握している自治体の首長や職員がいるところほど、いろんな分野から選ばれた委員で、内容も豊かに審議され、政策の幅や深みも増している。委員会が有効に機能していれば、政策内容も豊かになり、費用負担を含めて住民理解も得られやすい。

 こうした住民参画の経験は、地域の生活の主人公は住民自身であるとして、同和行政では当然として行われてきた。差別の現実に学べと、実態調査を住民の協力のもとに行い、どんなニーズがあるかを明らかにするところから、施策づくりが始まった。この方法が今後の福祉政策に採用されると、当事者の生活実態に根ざした自立意識や意欲を尊重した政策になるであろう。

2 当事者の実態からの政策づくり

 すべての住民の生活を政策の視野に入れるためには、気持ちや意見を積極的に表明しにくい立場にある人びとの声に、とくに耳を傾けることが求められる。行政や専門職は、実際に生活している地域にでむき、積極的に暮らしの実態がどうなっているかの把握をすることから、仕事をはじめる必要がある。

 介護保険事業計画が高齢者の実態調査からはじまることに、もっとも端的に示されている。

 サービス・ニーズを調べる調査だけではない。大阪では、障害者の権利が侵害され、差別を受けてきた生々しい実態を、19もの立場や障害種別をこえた障害者組織が実行委員会を作り、調査した。1,550人におよぶ草の根の障害者について、実際にメンバーが聞き取りをしてできあがったのが「障害者の人権白書」(1998年8月)である。ここからは、市場型のサービス提供がどのように潤沢に提供されたとしても、それだけでは解決できない差別や権利侵害、無視や排除の実態が、明確に表現されている。


四 住民の権利を承認する過程

1 市場原理の採用と住民の事業参加

 これまでの社会保障政策は提供者側の論理で組み立てられていた。その枠組みを変えることを構造転換という。行政が直接にサービスを提供することが住民の権利を保障することではない。たとえ、行政が事業を行っていても、住民の意見が反映されないところには権利はない。住民を独立した人格をもつ者として、独自に判断し、決定する自由を認めることである。契約型への転換とは、かならずしも、営利企業が販売するサービスにすべてを委ねることではない。市場において提供者の思惑を超えたり、予想外に行動することもある。それも含めて自分なりの生活を送る権利を行使する中から双方の契約が結ばれる。

 市場原理とは、かならずしも営利企業がサービスを提供するだけではなく、住民の自発的な非営利組織がサービスを提供したり、行政が直接に提供することも含む。サービスを利用する住民は、提供者側の論理に左右されず、自分たちなりの基準で自由に選択し、自分の暮らしを組み立てている。

 さらには、当事者たちが権利を自己主張できるようなアドボカシー、仲間が互いに支援し合うピアカウンセリング、セルフ・マネジメントなども行っている。事業展開を自らの手で行うこともはじめている。

2 自己決定の権利の確認

 障害者をはじめ福祉サービスの利用者は、自己決定の権利を実現することを求めていた。サービス提供事業者の規制緩和による自由競争を基本とする市場経済のもとでは、サービスを自由に選択する権利、つまり消費者の権利を盛り込めるかどうかが試金石であった。

 しかし、市場の論理は自己決定の権利を自動的に保障はしない。まさに、市場経済は自らが市民社会を作ることはないというテーゼが立証された。市場経済で個人の権利を行使できるためには、前提として、あるいは制度的枠組みとして市民社会を形成する営みが必要である。あらためて人として権利を確立する活動が不可欠である。市場主義に身を委ねていては、いつまでも実現はしない。まして、企業経営者は消費者の権利も市民の自己決定権もできれば無視しようとする。労働者の労働についての自己決定権とともに。

3 だれもが当たり前に生活する権利

 障害者、高齢者も一人の人として当たり前に暮らす自由がある。普通の市民のごく普通の暮らしが基準になる。だから、介護保険でも特別な人たちを対象にするのではなく、中流の人びとであっても介護不安に応えようとして制度化がはじまったのである。

 障害者、高齢者なども特別な枠組みの人という規定から脱して、社会の一員として生活していることを認めさせる。すべて市民は社会のなかで生活していく権利を持っていることの確認がはじまりである。

 国際的な憲章や条約はすべて権利の承認からはじまっている。日本でも箕面市の「福祉のまち総合条例」で権利規定をしている。最近も川西市の「子どもの人権オンブズパーソン条例」(一九九八年一二月二一日市議会可決)で「すべての子どもは、権利行使の主体者として尊重され、いかなる差別もなく子どもの権利条約に基づく権利および自由を保障される」と規定している。各地の自治体条例から発して中央政府の法律を創り出す動きが今後の主流になる。

4 当事者としての住民の力量を支援する行政の役割

 保健、医療、福祉のすべてにわたって、これまでのサービスの提供方法が反省されている。保健についても住民の集団検診が有効性を問われている。日常のかかりつけ医師との普段の付き合いのなかで、自らの健康状態や予防に必要な情報が住民と医療機関とで、共有され、相談や助言におうじる体制ができれば、そのほうがよい。日常生活から切り離された場所や一定の集中的な管理型の検診よりも、効果があがるし、住民の自主的な健康づくりへの働きかけは、より意欲的に行われるだろう。

 インフォームドチョイス、インフォームドコンセントが医療における人間関係では当たり前になってきている。病気やけがにたちむかう主体は、患者でもある住民自身である。主体的に自分の病気やけがの状態について専門的な情報を獲得する。患者が自らの力をよりよく発揮できるように、有効に支援するのが、専門職種の仕事である。日常的な生活関係での医療サービスの中心は、地域の医療スタッフが担う。病院での手術の後は、できるかぎり早く地域に戻り日常生活を営む中で、自分なりの心身の回復を実現していくプロセスが重要である。予防サービスから、プライマリーケア、そしてターミナルケアまで地域で生活する場面で、信頼できる関係を住民と医療スタッフがもつことが基本である。

 福祉サービスについても、やっと、介護保険でサービスを必要とする状態になったときに、住民のほうから提供を求めていく権利が明確に制度として認められた。状態についての認定をもとめ、それにしたがって、提供されるサービスの限度額が示される。サービスの利用にあたっては、自分の状態にもっとも適切なサービスの種類や回数、利用する時間帯を組み合わせることが認められた。一方的な押し付けはできない。サービスの内容についても提供事業者の質に不満があれば、別の事業者に切り替えることも認められた。不服審査の要求もできる。


五 生活の基本は地域社会に

 住民にとって日常的な支援やアドバイスをうける場所は、自分が生活している地域社会である。この点についても、これまでの国家主導型の社会保障政策は、全国各地の生活環境の違いや住民の生活の個性を認めず、画一的な対応で枠に押さえこんできた。そのために、かならずしもすべての地域では必要としない事業も多く、経費もかかり、逆に地域によって不可欠なサービスであっても、予算がついていないために提供されないという矛盾が生まれた。自治体スタッフも、自分たちの地域に居住している住民の生活実態からどのような支援が求められているかを探るよりも、中央政府の指示や予算配分に従った業務をこなすことに追われていた。

 次のキーワードは分権あるいは、地域主権の確立である。住民が地域で生活していくところに密着しているからこそ、医療・保健・福祉サービスから、分権が具体化されてきている。地域によって生活の様式も水準も異なるし、抱えている課題も異なる。それを正面から見すえることができにくい状態に置かれている。中央政府が法律や制度を決定し、予算配分もしてきたことに、依存している。それが福祉を理由にした中央集権政府の権限を強化する結果になっていた。分権は行政組織としての自治体に権限があることを意味するだけであれば、中途半端になってしまう。すべての住民が安心して自分の権利を行使できる地域社会をつくる仕組みになってこそ、意義がある。

 この点でも、同和行政は地域にねざした政策を経験してきた。地域ごとの個性を尊重する政策づくりに住民の力と知恵を発揮しようとしてきた。地域にこそ、課題もたくさん存在しているが解決のためのエネルギーも大量に蓄積されている。自分たちで考え行動する活動スタイルを、住民組織がもっていたことも反映している。この方法論や試行方法を福祉政策にも盛り込むことが、重要である。自治体の人権行政に求められている役割のひとつであろう。


六 自立生活を営むために社会の支援が必要

1 自立を支援する政策と人権

 自分で選択して生きていくことは、孤立した個人の生活を意味しない。住民は誰でも当たり前の暮らしを何気なくしていくためには、社会的支援を必要としている。どんなニーズであるかは、自分の心身の状態と、その条件を引き受けてどのような生活をして生きたいかにかかっている。したがって、当事者の自立した生活で意味する内容によって違ってくる。

 介護保険が理念から法律制度になるときに歪んだのは、自立概念が「要介護・要支援でない状態」と狭くなったことである。介護保険の法定給付のサービスを利用しなくても家庭内での生活がなんとかできるという意味で使われている。障害者が提起した自立生活の基本的な考え方は「サービスを利用して自立」である。むしろ、より多くの社会サービスを活用できる人ほど自立しているという見方である。

2 ニーズの客観化と社会的権利

 どのような支援が、どの程度の数量であれば、自分の目標とする生活に向かっていけるかを客観的に示す。たとえ家庭内で、あるいは地域で、本人や家族、友人たちでやりくりするとしても、社会的に必要度を明らかにする。誰もがなんらかの支援や助言を必要としていることを、社会を構成する人びとの間で相互に納得しあう過程が、権利の確立には欠かせない。

 家庭内や地域での親しい関係で実際にはサービスをまかなっているとしても、ニーズを社会化していれば基準が客観的になり、家庭内や近隣での個別的な行為が権利侵害、差別行為として明確になる。

 支援の必要性が客観的に存在し、個人の勝手気ままなわがままでも贅沢でもなく、当然のニーズであることの政府による承認(権利として社会的妥当性)。だからこそ、社会的に解決すべき課題であることもはっきりさせる(社会全体での負担による解決システム)。

 障害者・高齢者などがサービスを利用する権利があることを法律に明記する。政府や自治体はその権利に応える義務を引き受ける。サービスの種類と数量を現在よりも数倍に増やすことを政策に盛り込む。障害者プラン程度では不充分だ。介護保険の場合も現在の二倍以上にサービス量を増やすからこそ、多様な選択肢の中から組み合わせたケアプランも作成できるし、競争のなかで質が良くて価格が適正なサービスを選ぶ権利が行使できる。障害者政策でどこまでのサービス水準を当然とみなすかを厚生省は明確に打ち出すことだろう。

 それを実現するためには、コストがかかることは市民にとって納得できる。市民全体で負担するだけではなく、利用する障害者が一割の自己負担をすることもありうる。

3 個人原理から地域社会を作り上げる総合的政策へ

 障害者・高齢者などが自立生活を営む権利をもつことと、どんなニーズがあるかを自己主張でき、サービスを等しく利用する権利を認める制度になれば、たとえば、これまでのように障害の種別による縦割りの法律は意味を失う。障害の種類や程度を分類してサービスの種類や数量を決定する方式そのものが、措置型である。同じように、行政サービスを受ける権利を国籍や人種、性別、年齢などで限定していたこれまでの法体系も、見なおすべきときにきている。この取り組みは人権行政の中心的な課題であろう。

 利用者は一人ひとり異なったニーズをもっている基本に立脚すれば、障害者全体、さらに子どもから高齢者までも含む総合的な社会サービス法を見とおすことができる。市民を特定の基準で一方的にグループ化して、サービスの種類や数量、組み合わせ方を決定することが、障害者などの生活を窮屈に限定してしまう。自発的に生き方を工夫する可能性を奪ってしまう。

 地域に根ざして生活するときに、障害の種別や年齢区分はかえって不都合を生み出す。互いが連帯して地域社会を作っていくためには、制度の壁をなくすことが基本である。別建ての制度で囲い込んで特別扱いすることは社会から排除する結果を生み出す。現在の主要な課題は、どんな人たちをも社会のなかのかけがえのない構成員として、受け入れることである。

 最近はやりのインクルージョンも、教育の分野だけではなく、排除こそ差別であるという考え方に立って、社会のあり方を反省する新しい政策理念である。国際高齢者年のスローガンも、この理念を具体化している。日本の福祉政策が国際的に当たり前の基準である、個々人の権利を実現するときにきている。

 個人の自己決定の権利を尊重する社会的システムであるからこそ、社会の安定と住民的再活力を生み出し、経済的な持続的循環の効果をもつことを、あらためて提起するときであろう。特別対策の反省は、人の権利の実現を土台にして社会全体をどう再編成していくか、経済のシステムをどう福祉型に転換するかにまで、視野を広げることで、より大きな成果を生むといえる。