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2003.11.13
講座・講演録
部落解放研究128号(1999.06.30)より

地域における成人教育

上杉孝實(龍谷大学)

1 社会教育と成人教育

 教育というと、子どもの教育が念頭に浮かびやすいが、それは、どちらかといえば学校が発達してきた近代におけるとらえかたともいえる。意図的・計画的な学習が教育と呼ばれるものであり、その営みは古代ギリシャにおいても、中国においても、決して子どものことに限定されていたわけではない。人間が生きる上で絶えざる教育を必要としていたのである。近代になって、組織労働への準備のために、子どもがおとなから隔離され、学校で教育を受けるべき存在とされるようになって、教育がもっぱら子どものものとされるようになるのである。

 しかし、一部の富裕な階級を除いて、多くの人が不十分な教育しか受けることができなくて、近代の主要な産業に従事し、近代的な生活を営むのに必要な識字をはじめとする知識・技術の習得を妨げられていた成人が、教育の保障を求めての運動を展開するようになる。19世紀前半にイギリスにおいて選挙権の拡大を要求したチャーティストの運動は、同時に成人を含めてのすべての人への公教育の保障を求めるものでもあった。職人や労働者がその運動の担い手であった。産業革命によって、新しい労働力を必要とする経営者にとっても、教会から離れがちな民衆に聖書の普及をはかる宗教家にとっても、成人教育の必要性が意識され、成人学校を開くなどの試みがなされるようになるのである。

 19世紀後半になると、労働者や女性教員の要請により、大学も地方に出かけて講義を行うようになり、20世紀に入ると、労働者と大学をつなぐ労働者教育協会が結成されて、少人数で3年かけて学ぶことによって、労働者に高等教育レベルの教育を提供するチュートリアル・クラスが開かれるようになる。また、独立した労働者教育機関として労働カレッジもつくられ、社会主義の立場に立った教育を行うのである。

 日本でも、産業革命が達成され、欧米の市民社会が注目されるようになる1920年代に入る頃から、成人教育への関心が高まり、文部省でも直轄学校を中心に成人教育講座の開設を行うようになる。ただし、日本では、それに先駆けて社会教育概念の広がりがあったことによって、成人教育は欧米モデルで語られるようになりながらも、学校教育の拡張以上に社会教育の一環としてとらえられるようになるのである。官庁用語としては通俗教育がよく用いられた時代にあっても、一般には社会教育のことばが使われるようになっていたのである。

  明治期の学校制度そのものが、欧米からの輸入の性格が濃く、教育内容も翻訳ものが少なくなく、一般の生活から距離のあるものであったことも、学校教育とは異なる社会での教育を意識することになった。また、文明化を進める立場からも、社会の「おくれ」や社会の学校への「悪影響」が問題視され、社会を教育することが課題とされるということがあり、やはり学校教育と異なる社会教育を想起することになるのである。

 社会教育が官庁用語としても採用される大正期には、国家でもなく、古くからの村でもない地域社会の形成がなされつつあり、いかに連帯性のある市民社会をつくりあげるかを列国に伍していくためにも政策課題としなければならなかったのである。

  近代的生活様式を指向しての生活改善に取り組むことが社会教育で強調され、自発的に地域づくりを進める市民の形成がめざされたのである。学校が社会教育団体などの結成援助にあたり、地域づくりに積極的に関わることが求められ、教育の社会化とともに社会の教育化が社会教育と重ねて考えられるのである(1)。イギリスの成人教育が、労働者の地位向上という社会的目的とならんで個人の発達を重視するのに対し、日本の社会教育では、地域づくりに力点が置かれる傾向があった。個人主義が、社会の無規制状態を意味するアノミーにつながることへの警戒が顕著であった。

  第2次大戦後、教育制度はアメリカの影響を強く受けたが、社会教育概念は引き継がれて、アメリカ流の職業教育にも重きを置いた成人教育概念が意識された時期もあったけれども、主流としては、地域に根ざした生活問題学習を中心とする社会教育の範疇で成人教育をとらえる傾向が強かった。

  戦前・戦中の中央集権に対する地方分権の確立、住民自治に基づく民主主義実現の課題が、このことを支えたといえる。大学開放講座や初等・中等学校を開放した学級・講座も一時期盛んであったが、近年になるまで成人教育の主流をなしたとはいい難い。地域における公民館での学習や、地域に基盤を置いた社会教育関係団体の活動が、成人教育として意識されることが多かった。

 一方、学校型の成人教育が中心であったイギリスでも、1970年代に入る頃から、コミュニティ教育の名で地域開発や地域行動と結びつけての成人教育が盛んになってくる。教育機関に人を集めること以上に、地域に入りこんでのアウトリーチ活動が重視されるのである。その背景に、労働者教育を標榜しながら、労働者、とくに底辺状況に置かれた未組織労働者・移民などの参加が少ない伝統的成人教育への批判があり、住宅問題や失業問題など生活問題をとりあげての学習を地域で広げ、解決のための行動につないでいくことが指向されている(2)

 社会教育の場合、成人教育だけでなく、学校の教育課程外の青少年教育も含まれるが、欧米では、青少年の学校外活動は、社会事業の一環であるユースワークとしてとらえられることが多かった。しかし、青少年を社会的に隔離することは、その社会的成長を妨げるとの論が強くなり、コミュニティ教育の広がりのなかで、青少年の活動において地域活動を重視し、成人教育と青少年教育を統合する動きも顕著になっている(3)。ある意味で、日本の社会教育に接近した動向が見られるのである。


2 地域成人教育の意義

 このように、地域における成人教育は、人びとの生活課題の共通性に着目し、その課題を解決するための実践に関連した学習を身近な地域で展開するところに特色がある。生活を担う人びとにとって、まず直面する問題をどのように解決するかに関心が寄せられるのであり、学習を伴うことによってよりよい解決の道が見いだされるのである。とくに被抑圧の立場にある人びとにとって、切実な問題に取り組む学習と行動をつなぐことが必要不可欠となるのであり、地域でその機会をもつことが保障されなければならないのである。

 ただし、地域成人教育のすべてが、真の問題解決に寄与するものであるとはいえない。歴史的に見れば、個人の自発性を抑える古い共同体の解体ははかられながらも、地域への情動的一体感をもたせることに重点を置いて、階級的な利害対立を覆い隠す機能をもったものも見られたのである。地域づくりそのものが優先して、もっぱらそのために住民の協力を促すことに収斂するものもあった。

  高度経済成長に伴う地域の変貌により、従来行政の下請けや住民自助の機能を果たしていた地域組織の弱体化が進んで、住民の行政要求が強くなったことから、新たな自助体制の構築をはかるためにも、コミュニティ政策が展開されたが、そこでもしばしば、それに貢献する教育が期待されたのである。戦前の内務行政においては、自助を自治ととらえ、行政への働きかけを含めての自治から目をそらさせる動きがあったが、戦後においてもそのようなとらえ方がなくなったわけではない。

 生活改善にしても、近代化・合理化がめざされたが、問題を現象的に把握し、人間関係や慣習のレベルだけでおさえて、それらを規定している構造に迫ることが不十分であることも少なくなかった。近代における合理化が、しばしば形式合理主義に流され、人間性をそこなうことに目をむけることが十分でない面もあった。コミュニティスクールの取り組みに見られる地域に根ざした教育も、地域を所与のものとして、その変革の側面が弱かったり、地域を完結的にとらえることによって、広い社会とのつながりが無視されることもなかったとはいえない。

 一方、生活問題の共同的解決をはかるため、地域で話し合いを進め、適切な行動を導き出す共同学習が、1950年代半ばから青年や女性を中心に繰り広げられた。1960年代に入ると、「社会教育は大衆運動の教育的側面である」とする枚方テーゼ(4)が出され、従来の社会教育関係団体の枠を越えた多様な団体の運動と結びついた学習の重要性が強調された。当時の雑誌『部落』がいち早くこれを取り上げたのも、解放運動と社会教育の結合をもたらすものとして注目したためである。

 部落解放運動の高まりのなかで、部落における解放学習も盛んになる。1970年代に入る頃から、京都府各地で行われた「ろばた懇談会」も、地域にある問題について話し合い、解決の方法を探るもので、行政関係者も資料提供者として巻き込むものであったが、部落内学習がヒントになっているともいわれる。各地で展開された部落解放総合計画づくりも、地域教育としての側面をもつものであった。

 イギリスのコミュニティ教育のリーダーの一人であるトム・ラベットは、住民の教育への接近を容易にする地域組織化・教育モデル、地域の資源を活用し、リーダーの育成に力を入れる地域開発・教育モデル、地域の問題解決の行動と学習を結びつける地域行動・教育モデル、地域を超えた社会の問題に取り組む社会行動・教育モデルの四類型をあげている。

  当初彼は前の三類型のみをあげていたが、地域問題が広い社会の問題とつながっていることを重視することによって、社会行動・教育モデルを付け加えたのである(5)。日本のコミュニティ政策では前二者が顕著であり、ろばた懇談会は地域行動・教育モデルの面が強く、部落解放運動では社会行動・教育モデルがあてはまると見ることもできる。今日地域の問題の多くは、広い社会の規定を受けているのであり、学習によってそれを把握することが、解決にとって不可欠のこととなっているのである。

 運動に教育的側面があることは事実としても、教育においては多様な考えに触れる必要があり、運動では意思統一が必要となることが多いから、完全に運動と教育を同一視するわけにはいかない。運動のなかで直面する問題について学び、多面的考察を経て運動を進めるというように、両者の特性を生かしながらつなぐことが、運動も効果的になり、学習も現実に即したものになる。実践―学習―実践―学習といったサイクルが重要となるのである。

 問題解決には共同の力が必要である。とくに社会的に不利な状態に置かれたものにとって、団結なしには解決は難しい。このことから、実践における集団的取り組みにつながるものとして、教育においても集団学習が重視されてきた。集団で学ぶなかで、多角度の見方があることに気づき、支えあって学習が進むことになる。コミュニティ教育には、このような連帯による学習の推進の意味合いがこめられていることが少なくない。ただ、類似の者が集まっての学習は、容易であり、情緒的な満足も得られやすいが、それだけに異なった見方に触れ、そこから新たな知見を得るということが困難になりがちである。多様な人びとから成る集団の方が学習の発展をもたらすということも考えなければならない。

 日本の地域にあっては、町内会・自治会をはじめ網羅的組織が支配的で、家単位のものが目立つ。自治機能を果たしていても、自治体と異なるのは、個人が単位となっているとは限らないという点である。そのなかで男性優位があったり、名望家支配が行われたりしてきた。住民の運営する公民館分館組織や社会教育関係団体でも、その例を見ることができる。ひとりひとりが生かされるためには、目的に応じたさまざまなアソシエーションが結成され、ゆるやかなネットワークでの活動が求められるのである。

 子どもも、家庭や学校で学ぶだけでなく、地域の中で自主的な仲間集団の活動を通じて自立の道を歩み、親以外のさまざまなおとなと触れ合うことによって、生活体験の幅を広げることができるし、そもそも家庭や学校自体が地域の中にあるのである。このような地域の教育力を左右するのが地域のおとなであり、子どもの教育に関わる成人の学習の意味が大きいだけでなく、成人の生活姿勢や地域の環境づくりが子どもの成長に影響することからも、成人の地域学習や実践が注目されることになるのである。


3 成人教育としての把握

 地域成人教育を進める上で、社会教育概念が重要であることは、これまでの考察からもうかがわれるが、成人教育概念を用いることの意味についても考える必要がある。従来からも、社会教育をおとなの学習に限定して用いるべきであるとの主張はあった(6)。しかし、現実には社会教育は学校外の青少年教育を含んで用いられるのが一般的であり、地域での子ども・青年の成長を支える上で、相互教育に力点を置き、生活学習を重視してきた社会教育概念を用いることの有効性が認められる。地域の世代を越えた交流による学びあいの重要性を考えるとき、このような広がりを持った社会教育概念の効用には捨てがたいものがある。

 社会教育をおとなに限って用いることの主張は、青少年を含むことによって成人も未熟な存在として扱われ、主権者であり、成熟した自立的存在であることを前提としないで、教育を与えられるものとした歴史的経緯を批判してのものである。この指摘は重要であるが、それならば社会教育だけでなく、成人教育の概念が積極的に用いられてよい。もとより、成人教育概念は、本来社会教育と同じでなく、青少年教育に対するもので、学校教育をも包み込み得るものである。欧米にあっては学校教育の拡張の意味合いが濃いものであったことは、すでに見たとおりである。

 成人教育として把握することは、それぞれ生活経験を重ねている成人の主体性を重んじて、相互に教えあい学びあいをなすことによって、自律的な教育を展開し得る存在としてとらえることである。単なる学習者でなく、教育を担う存在として扱われなければならないのである。

  ペダゴジーと呼ばれる教育学が、主として子どもの教育について考察してきたのに対し、おとなの教育学としてアンドラゴジーが提唱されたりしている。その中身は生活経験を重視し、主体的・自律的な学習に重点を置いたものである(7)。もっとも、青少年の教育においても、経験重視や主体的学習の尊重の考えはあり、成人教育と対立的に把握するのは必ずしも適当ではないが、これらは成人の学習において格段に重要性をもつものであり、また可能性に富むものである。

 さらに、成人教育としては、生活経験に基づく学習が大きな比重をもつものの、体系的な学習の保障も十分視野に入れることが求められ、必ずしも計画的でないインフォーマルな教育や、計画的であっても制度的には定まることの少ないノンフォーマルな教育のみならず、教師や教材を整えたフォーマルな教育も含めることになる。身近な問題でも広い社会の規定を受けていることを見抜くには、体系的な学習が必要であることが多い。空間的な把握以上に、社会の歴史的規定など時間的な把握を行うには、経験を超えた学習が必要になる。

 社会教育の講座や学級の中には、テーマを掘り下げるのでなく、概括的な主題を掲げて多様な内容を互いに関連なく並べ、講師も毎回変わるいわゆる「ごった煮プログラム」も少なくない。大学などの公開講座でも、連続講演会に過ぎないものが結構多い。これでは、知識・技術が身につくとはいえないし、まして態度の変化は期待できない。さまざまな生活背景を持っている成人であるだけに、一つのテーマについても少人数で回数を重ね、講師と受講者相互の人間関係を深めて学ぶことの必要性が大きいのである。先にあげたチュートリアル・クラスは、チューターによる個別的な指導も十分なされ得る小集団で、長期に学習に取り組むものであり、それによって高等教育レベルの学習も可能になるという信念に基づくものである。

 識字教育についても、学校教育か社会教育かが問われてきたが、本来学校教育で保障されるべきとしても、移民や外国人労働者のことを視野に入れるとき、成人教育においての保障が必要であり、部落解放運動の中での識字運動が示してきたように、成人にあっては生活経験と重ね、その交流を通じて指導者も学習者もともに学ぶことの意味が大きいことから、成人教育としての独自の内容・方法が構築されるべきものである。

  近年は、識字も含めて、成人として生活を営む上で必要不可欠な知識・技術をすべての人が身につけるための教育を、成人基礎教育として、ユネスコをはじめ国際的な広がりのなかで推進する動きが強まっている。情報化の進む時代、コンピュータについての基礎的な知識や操作技術もコンピュータ・リテラシーとして習得の機会が提供されなければならないのである。

 社会教育にあっては、農業への取り組みを除くと、労働問題や職業教育への取り組みが十分でない面が見られた。1948年の労働省と文部省の協議で、労働者の職業技術教育は労働省の所管とされ、社会教育行政から外れたことも影響している。しかし、生活を営む上において、個々の人間に帰属するかたちで職業技術を身につけ、労働を自らのものとして把握することは、きわめて重要である。企業内教育への依存は、特定企業への従属を強め、他の職場への応用を保障するとはいえない。いわゆる終身雇用制が崩れつつある今日、成人教育として職業教育の機会を拡充することが大きな課題となっているのである。

  人生の途上において整った教育機会をもつというリカレント教育で、職業に関する再教育が大きな位置を占めているのも、変動する産業世界のなかで、絶えず学び直すことが避けられなくなっているからである。

  従来、性別役割分業のもと、子育てなどで職業生活を中断せざるを得なかった女性が少なくなかったが、そうした人びとが再び職業に就いたり学校に入り直したりすることを助けるセカンドチャンスのコースも、成人教育の中で重要な位置を占める。そこでは、自分を発見したり、自信を取り戻したり、女性学に触れることによって社会的に問題をとらえる力をつけることが行われている。日本でも、再就職準備講座や社会参加講座が試みられているが、本格的な展開はまだこれからである。

 成人教育は、保健、福祉、労働など諸分野において行われるものであり、欧米に例をとれば、看護士教育にあたる人、ソーシャルワーカーの訓練にあたる人、成人の職業訓練を担当する人、刑務所での教育担当者、軍隊での教育者なども、成人教育について教育・訓練を受けることが期待されている。

  刑務所や軍隊においても、矯正教育や軍事教育でない、市民としての一般的教育がなされるものなのである。日本でも、農業改良普及員・生活改良普及員や保健婦の活動が、社会教育において注目されてきたが、成人教育者としてのとらえ方や教育・訓練は十分意識されてきたとはいえない。社会教育の講座や学級で講師の役割を務める人も、しばしば客人扱いされる。イギリスなどでは、チューターとして、実習を含めて成人教育についての教育・訓練を受けることが求められているのである。


4 地域における成人教育の今日的課題

 地域成人教育といえば、地域づくりの教育が念頭に浮かぶし、そのことは重要であるが、それに限られるものではない。先に見たように、さまざまな成人教育が地域で行われることによって、多くの人のものになるのである。成人教育はくらしを変える力となるものであり、生活関連の学習を進めることによって、自らのもつものを引き出し伸ばすことが重要となる。

 イギリスでも、移民や失業者の多い地域を教育優先地域として指定するといった政策を展開してきた。労働者階級を中心とした女性解放のための教育に力を注いできたジェーン・トンプソンは、セカンドチャンスのコースを担当して、社会的に不利益を受けてきた女性を優先して受講者とすることを試みている(8)。成人教育の受講者を決めるときに、面接などによって、受講動機や生活背景を把握することに努めるのである。学習においても、それぞれが経験や思いを表現する機会を多くし、連帯のなかで解決に至る力をつけて、問題の根源に迫るのである。

 失業は、生活の経済的基盤を奪うだけでなく、自己評価を低めることになりやすい。しかし、これらの人びとも職業技術や労働体験を持っているのであり、失業者の立ち寄るセンターで、それを互いに交換しあう学習の機会を用意することによって、新しい知識・技術を獲得するだけでなく、自己の有用性に気づき、自信を取り戻すことができるようにしている。イギリスのリーズ大学の成人教育部は、パイオニア事業として、困難な状況に置かれた人びとの教育に取り組み、関係団体・機関との連携を進めて、適切なところに事業を引き継いでいる(9)。

  地域づくりの教育は、日本において盛んである。長野県の松川町では、健康問題への取り組みから、健康が決して個人的な問題でなく、地域の労働や生活様式に規定されていることを調査などを通じて明らかにし、健康を軸とした地域学習を展開し、健康の町づくりにつないでいる。

  社会教育職員としてこの学習を進めた松下拡は、各地で保健婦の成人教育についての学習も援助して、住民が主体的に健康を考える保健活動を支えている。福祉を軸とした地域づくりとしては松本市の例がある。ここには、中学校区や旧村単位に地区公民館があるほか、町内会単位に町内公民館がある。地区公民館ともつながるかたちで「地区福祉ひろば」としての拠点整備がなされ、健康・福祉づくり相談、ふれあい健康教室、地区福祉ひろばを語る会、福祉サービスの学習・相談会、ボランティア講座、給食ボランティアの集い、朗読ボランティア活動、地域の福祉施設との交流、世代間交流事業、サークル活動への支援、「福祉ひろばだより」の発行などが行われている。これらは、福祉・保健・教育が密接につながった活動である。

 成人教育においては、地域づくりの問題を明らかにし、それを担う市民の形成を進めることが肝心である。部落解放運動においても、連帯のなかでの住民の自立の促進と地区内外の交流が大きな課題になっている。隣保館・解放会館でも、住民のための講座・学級を開き、近年は地区外にも対象を広げて文化・教育事業を展開しているところが多くなっている。

  通常趣味・教養といわれる茶華道、料理、手芸といった講座も、人びとのニーズがあり、奪われてきた文化を取り戻し、さらには職業保障につないでいくという意味があった。しかし、今日さらに、子育て、健康、介護、環境、職業、食生活、人権、男女共同参画などの課題に迫る学習活動を支えることが重要である。これらの学習を通じて地域づくりを考え、地区内外共通の問題に対して共同での取り組みを進めていくことが求められるのである。趣味・教養の講座にあっても、それぞれの学習を通じて、文化を規定する社会に迫り、民衆の立場から文化を再構築することが課題となる。

 「人権教育のための国連10年」のなかで、人権文化を築く教育がクローズアップされている。日常の生活文化を見つめ直し、慣習やものの見方・考え方が人権に即したものになっているか、民主主義を実現しているかを検討して、思考や行動様式を新たなものにすることが、成人教育での重点事項となっている。子どものさまざまな問題もおとな社会の変革なしには解決困難である。

  核家族では、人間関係を豊かにし、広い社会に生きる力を身につけることは容易でない。地域における共同での子育ての意味は大きいのである。家族における子育ての知恵の継承も難しくなっている今日、親の共同学習が必要になっている。同時に、その学習は、おとなのあり方を考える学習にいきつくのであり、子どもの育つ地域のありようを探る営みに帰結するのである。

 高齢社会にあって、すべての人が生きやすい社会にするには、バリアフリー、ジェンダーフリーのまちづくりを促進することが必要であり、その観点から地域を点検し、改革の道をたどる学習が欠かせないものになっている。国際的にも、まだ元気な実年を第3年代としてとらえ、社会に出る準備期の第1年代、働き盛りの第2年代に対して、自己の充実を期する第3年代においては、格別学習が重要になってくると考えられ、そのための「第3年代の大学」のような教育事業が盛んになっている。外国語の習得や体育活動などにおいては、この年代としてのペースが必要になるのである。もとより、各世代がともに学ぶことがおろそかにされてよいものではない。

 ユネスコの1985年の国際成人教育会議では、学習権宣言が出され、1997年の同会議では、成人教育は権利であるだけではなく、21世紀の鍵であることを表明した宣言が採択された。社会への完全な参加をもたらすには、成人教育が必須の条件となるのである。環境問題をはじめ多くの問題が地球規模で存在し、それが地域に及んでいる。地域で行動するにあたっても、地球規模で考えなければならないことが少なくない。人類の生存は、成人の学習がどのようになされるかにかかっているといってもいい過ぎではないのである。



  1. 川本宇之介「教育の社会化と社会の教育化(其の1)」『社会と教化』第1巻第7号、1921年、11頁。
  2. cf.T.Lovett et al.,Adult Education and Community Action,Croom Helm,1983
  3. cf.Department of Education and Science,Youth and Community Work in the 70s,HMSO,1969.
  4. 枚方市社会教育委員会議『枚方の社会教育úY2 社会教育をすべての市民に』枚方市教育委員会、1963年。
  5. T.Lovett,Adult Education,Community Development and the Working Class,Ward Lock Educational,1975,T.Lovett et al.,op.cit.,pp,36-40.
  6. たとえば、島田修一・藤岡貞彦編『社会教育概論』青木書店、1982年、2頁。
  7. cf.M.S.Knowles,The Modern Practice of Adult Education/Follet,1980,
  8. J.L.Thompson,Learning Liberation,Croom Helm,1983,pp.148-195.上杉孝實 他訳『解放を学ぶ女たち』勁草書房、1987年、228ー311頁。
  9. K.Ward and R.Taylor,Adult Education and the Working Class,Croom Helm,1986.