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2004.01.09
講座・講演録
部落解放研究139号(2001.04)より

大きく変容しつつある部落のまちづくり
―人権のまちづくりを中心に―

内田雄造(東洋大学)

要約

 筆者は1975年から部落のまちづくりにかかわり、部落、とくに同和地区のまちづくりこそ、日本のまちづくりの先行的・先進的な事例であると考えてきた。
 一方、1980年代後半以降、筆者はアジアの低所得者階層居住地のまちづくりにかかわりその実態に触れることができた。また1990年以降、アメリカ合衆国においてコミュニティ デベロップメント コーポレーションによってスラムや荒廃地区のコミュニティ デベロップメントが多様かつ活発に展開されている。
 そして世界のさまざまなまちづくりと交流する中で、部落のまちづくりも1990年代から大きく様変わりしつつある。
 本報告では部落のまちづくりの新しい潮流を整理し、そのまちづくりの実態、とくにまちづくりで取りあげられるテーマとまちづくりのスタイルを紹介することを主な内容とする。同時に、部落のまちづくりを世界のさまざまなまちづくりと比較対照し、その位置づけを試みている。そして、部落のまちづくりが今後の日本のまちづくりに示唆する内容を抽出し、整理することができればと考えている。

1 「まちづくり」ということばとその含意の変容

 私がはじめて部落のまちづくりに関わったのは、高知県土佐市の戸波(へワ)の計画で1975年のことである。戸波の計画にかかわる中で、部落のまちづくりは日本のまちづくりの先行的かつ先進的な事例ではないかと考えた。大学院時代に学園闘争を経験したが、当時の都市計画に対してはずいぶん変だという思いがあり、もっと身近な住環境を中心に住民と組んでまちづくりをやっていきたいと思っていた。

 また対象としては木造住宅からなる密集市街地の整備が必要だと思っていた。そういう観点から、部落のまちづくりというのは非常に先進的な事例だと考えたのである。部落のまちづくりがどうしてうまくいっているのか、そのあたりを調べてみたいという思いを抱きながら、戸波のまちづくり、その後高知のまちづくり、北九州市の北方のまちづくりにかかわり、2、3年に1度は、大阪の部落のまちづくりを勉強させていただいた。振り返ると1970年代の後半からずっと部落のまちづくりにかかわってきたことになる。

 1980年代の半ばぐらいから、日本の部落のまちづくりにかかわっているなら経験交流のためにアジアに出てこいということで当時からNGOで活躍していたホルヘ・アンソレーナさんや国連にいた穂坂光彦さんらに呼ばれて、今はアジアのまちづくりにもかかわっている。

 今年に入って部落のまちづくり、アメリカのスラムや荒廃地区(これらは一般的にはマイノリティの居住地区である)のまちづくりを扱った本が相ついで刊行された。1冊は部落解放・人権研究所の『人権のまちづくり 参加・交流・パートナーシップ』であり、部落のまちづくりの事例報告とまちづくり論が収録されている。もう1冊は反差別国際運動日本委員会の『IMADR-JCブックレット(5)アメリカの人権のまちづくり 地域住民のチャレンジ』で、アメリカのスラムや荒廃地区(ブライテッドエリア)のまちづくりを扱っており、(ブライトというのは木の葉っぱが病気になって枯れてしまうイメージである)コミュニティ デベロップメント コーポレーション(CDC)によるまちづくりの紹介がなされている。

 この2冊の他に発展途上国の低所得者階層居住地(スラムという言葉を使いたくなくて、ローインカム セツルメントといっているが)、低所得者階層居住地のまちづくりを扱ったホルヘ・アンソレーナさんと伊従直子さん共著の『スラムの環境・開発・生活誌』(明石書店)が出ている。

 さらに穂坂光彦(日本福祉大学)さんの『アジアの街 私の住まい』を加えると、1990年代以降のまちづくりの全体像をおおよそつかむことができると思われる。そして近年におけるまちづくりの世界的な動向の中で、『人権のまちづくり 参加・交流・パートナーシップ』をあらためて読み直すと、部落のまちづくりが大きく変容しつつあることが実感される。

 私は急速に変わりつつある部落のまちづくりの特徴として第1に、まちづくりのテーマとスタイルが90年以前のそれと比べて大きく変化したこと、第2にアメリカのマイノリティにおける居住地区やアジアの大都市におけるまちづくりとほぼ同一のテーマとスタイルのまちづくりが展開されており、部落のまちづくりが国際的な潮流の一翼をになっていることがあげられると考えている。こういう問題意識で以下述べていきたい。

 まず、「まちづくり」ということば。岩波新書から田村明さんという元横浜市の企画調整局長をされた方で、私にとっては非常に親しい先輩が『まちづくりの実践』という本を出版されている。その10年位前に同じ岩波新書から『まちづくりの発想』という本を書いておられるが、とくに『まちづくりの実践』には、いろいろな「まちづくり」の事例が紹介されており非常に読みやすい本だと思う。その中で彼なりにいろいろ「まちづくり」という言葉を意味づけているのだが、私たちの世代は、かなり意識的に「まちづくり」という言葉を使用している。

 私はちょうど大学院在学中に東大闘争だったわけだが、その当時私たちは日本の都市計画はあまりにも道路や鉄道などの都市のインフラ施設が中心におかれていること、あるいは日本の都市計画は、歴史的には富国強兵・殖産興業の都市計画だと考えていたこと。城下町に師団司令部がおかれた関係もあって、師団司令部を結ぶ形で道路や鉄道はできていた。

 また中央本線を引くときに、東海道線というのは鑑砲射撃に弱く、海岸線から離し中央本線を敷設するといったことを一生懸命行った。神戸の震災時、六甲山地の下の狭い平野部に幹線道路や鉄道、新幹線もすべて通っていたが、戦前なら弱いということで、軍がコントロールしただろう。戦後は富国強兵、すなわち軍事との結びつきはおもてから退いているが、都市計画は、産業基盤整備に特化した。さらに日本の都市計画は地方分権の問題ともかかわるのだが、1919年に定められた都市計画法では「都市計画は主務大臣これを定む」と規定されていた。

 当時は内務大臣、戦後は建設大臣だが、計画をつくるのは国で、地方はお金を出し事業を実施するという役割分担だった。私たちはそういう都市計画は変だと思っていた。

 一方で当時のアメリカの都市計画の情報も得ており、日本の都市計画をもう少し変えていこうという思いがあった。身近な住環境整備を中心に、ハードに特化している日本の都市計画からもう少しよりソフトな分野を重視し(といってもその頃はあまり実感がなかったのだが、今はだいぶわかってきている)、住民参加や市町村が中心になる「まちづくり」に変えていきたかった。そういう思いを込めて今までのは「都市計画」、私たちのイメージは「まちづくり」だという形でかなり意識的に「まちづくり」を使用してきた。

 一方で「部落のまちづくり」にかかわっていると、世界的なコミュニティ デベロップメントの流れを無視することはできない。コミュニティ デベロップメントというのも社会学の分野の中では「まちづくり」あるいは「コミュニティ開発」と訳されている。コミュニティ デベロップメントということばは、1950年代以降発展途上国のとくに農山村や漁村のコミュニティの活性化のために国連が盛んに使った。アメリカ国内でもコミュニティ デベロップメントということばを使っていて、これはどちらかというと農村部の開発に使っていた。

 とくに国連でいうコミュニティ デベロップメントとは、1950年代ぐらいから今に至るまで若干アクセントが違っているのだが、当時はコミュニティ オーガナイゼーションがトップにあった。コミュニティ オーガナイゼーションというのは、上からの組織化という意味が強いこともあって使用されることが少なくなり、今日では、住民のイニシァティブや参加がうたわれるようになった。そして仕事づくり・所得保障、公衆衛生、上水の確保、生活改善、家族計画、学校教育あるいは識字教育、住宅供給という内容を国連ではコミュニティ デベロップメントといっている。

 コミュニティ デベロップメントの源泉として20世紀の初頭、イギリスのイーストロンドンなどでスラムのセツルメント運動が華やかに展開されたことがあげられる。セツルメントということばは隣保と訳され、セツルメントハウスというのが隣保館になったわけである。アメリカでもシカゴなどでセツルメント運動が行われていて、当時の内務省の社会局のエリートは近代派というか、ある種の改革派だったわけで(内務省の社会局がやがて厚生省に昇格した)その内務省の社会局の職員がイギリスに渡ったりアメリカに行ったりして、このようなセツルメントの運動を熱心に調べている。戦前の融和事業の体系は、このセツルメントをかなり意識的に取り入れていった。

 セツルメント、とくにセツルメントハウスというのは今の隣保館の前身だが、そこにセッツラーが住み込んでスラムの住民に全人格的な教化を行うというイメージだった。一方で、有名なタゴールらの農村地域再建運動などインドではさまざまな運動があって、それもコミュニティ デベロップメントの1つの源流をなしている。このような経緯をふまえ、第2次世界大戦後のコミュニティ デベロップメントというのは、国際的には開発途上国の農漁村、ある いはアメリカでは農村部の開発というところで使われている。

 1980年代の後半以降、新しい動きがおこっていて、1つはアメリカの都市部のスラムやブライテット(荒廃地区)のまちづくり、2つには開発途上国の大都市の低所得者階層居住地(ローインカム セツルメント)あるいは「スラム」のまちづくり、そして3つめに日本の部落が主なものであり、これらが1980年代後半のコミュニティ デベロップメントの新しい流れを作っていると思っている。


2 部落のまちづくりの経緯と特徴

 部落のまちづくりの経緯として見落とせないものの1つとして、戦前の部落改善運動があげられる。これはどちらかというと、差別の原因を一方的に部落民が引き受ける生活改善運動であり、自分たちで公衆浴場や学校をつくったり、貯蓄運動などを展開した。一面では非常に評価すべきものだと思うのだが、結局差別・被差別の大きな枠組みを充分とらえきれなかったし、行政に対しての責任追及もなかったので、これはやがてしおれている。

 つぎに融和事業、これは米騒動が1918年、1922年が全国水平社と共産党の創立の年にあたるが、融和事業は、米騒動のあと当時内務省の社会局が中心になって、今でいえば同和対策事業だが、高度に政治的な意図をもって融和事業を行った。これの1番まとまったものが、1935年の中央融和事業協会(内務省の外郭団体)によってつくられた融和事業完成10ヶ年計画である。

 これは、分野ごとの計画を積み上げ、それに対する財政計画まで作ったが、結果的には戦争に巻き込まれて、ほとんど実現できなかった。この融和事業には、欧米のセツルメントの影響を非常に色濃く感じる。例えば部落の組織化、それは結果的には融和団体の育成になるわけだが、補助金を支出し、学校教育でも奨学金制度をつくったり、あるいは子守り学級をつくったりしている。それから上水の確保、下排水路や共同便所や道路の整備、これらは地方改善事業である。

 地方改善事業のうち、さまざまな事業を活用し、部落の住環境の面的整備を行う事業は地方改善地区整理事業と称され、大阪では住吉で実施された。住吉ではスラムクリアランスというか不良住宅を取っ払い、道路をつくって宅地割りをし、公営住宅をつくった。

 地方改善地区整理事業には、厳密には、住宅建設は含まれていない。だから住宅は別個事業としてつくったわけである。住吉の事例に関していえば住吉村が大阪市への合併を控えて、かなり政治的になされた事業だが、日本全国でみても代表的な事業である。そして住宅供給、たとえば住吉や奈良の東の阪などでも地方改善地区整理事業と住宅供給を行っている。部落民を対象とした授産事業などもずいぶん多様である。ただ環境整備の分野で融和事業がうまくいったかというと、なかなか評価が難しい。上からかなり恩恵的に行ったのでまたスラム化してしまったというのが多い。たとえばアパートをつくってもそれが荒れるとか、長屋なども十分に維持管理がされない。東の阪の場合には、途中で住宅を払い下げた。そのためにかえって維持管理が良好になされたという経過がある。

 1922年に全国水平社が創立された。部落民がみずから立ち上がった部落解放運動で、今、流行の言葉でいえば「自尊感情」(セルフ・エスティーム)、要するに部落民という存在自体をプラスなものとしてとらえてうって出たわけである。しかしまちづくりという面でいえば、当時の運動は糾弾が中心で、部落改善への取り組みは弱かった。

 しかし1928年以降、部落委員会活動という形で、ずいぶん行っている。しばしば融和事業と水平運動は対立的にとらえられており、確かにその事実も多いが、一方で実際調べてみるとかなり地域で重なり合ってうまくやっている。また戦時統制経済の頃は、大阪の西浜もそうだが、部落産業を守るという点で水平運動はずいぶんがんばっている。

 戦前に不良住宅地区改良事業が実施されているが、たとえば不良住宅地区改良法や住宅組合法など1920年代に内務省の社会局が中心となって、日本の住宅政策あるいは社会福祉政策を展開している。公営住宅ではないが、国のお金を無利子で貸し付けて、自治体あるいは公的な団体に、公的な住宅をつくらせた。住宅組合というのはヨーロッパのコーポラティブ住宅をまねたものである。ヨーロッパのコーポラティブ住宅とは、今でいう日本のコーポラティブとは違っていて、住宅組合という公的な組織があって、これはもともと労働組合の運動の一環としての生活協同組合運動の中で出てきたものである。

 生活協同組合の中での住宅組合であって労働組合が出資し、あるいは地方公共団体が出資・助成するシステムである。何人かのメンバーがまとまって組合をつくり、その組合に住宅資金を融資する。その組合が例えばアパートをつくるとその組合がアパートの所有権をもって組合員に対して利用権を提供する、あるいは利用権を組合員はもつ。組合員が転居する場合には組合員の権利を次の人に譲るという形であり、組合が所有権をもっていて、利用権を組合員がもっているというのが典型的なハウジング コーポラティブである。

 日本の今のコーポラティブ住宅は、みんなで作るというのは似ているが、組合に対して法的な人格を認めて融資するという制度は非常に弱い。また組合が、所有権をもつという制度も認められていない。戦前のことだから日本でも、個人に対して住宅融資などはなかった。今でもアジアやアフリカでは個人に対しての住宅融資は、お金持ちは別だがない例が多い。今、台湾や韓国でどんどんやりはじめていて、あるいはいくつかの国でモデル的にやっているが、一般的にいえば庶民にお金を貸してくれることなどない。日本も戦後、住宅金融公庫ができてはじめてできた。

 戦前の住宅組合法というのは、たとえば職域のグループが多いが、組合をつくらせる。お巡りさんの組合や教師の組合をつくり、その組合にお金を貸し、組合員に連帯保証をさせる。だから連帯保証をさせて融資するというのが住宅組合法のねらいだった。家はだいたいみんな戸建ての住宅を建てるという点では今のコーポラティブと異なっている。

 戦前の不良住宅地区改良事業といえば、神戸の新川、大阪の下寺・日東あるいは名古屋の王子などいくつかある。戦前の内務省社会局の方針では、大都市のスラムおよび部落は不良住宅地区改良事業でやる、地方都市や農村部の部落は地方改善事業でやるとされ、後者の中で面的整備は、地方改善地区整理事業であると位置づけられていた。

 不良住宅地区改良事業は戦争に巻き込まれて中途半端で終わり、結局7地区ほどで終わった。新川なども再スラム化した。住宅の規模が非常に小さかったということや、運動として管理されたわけではないということもある。戦後になると公営住宅事業として番町などから、部落の住宅改善が行われていく。ただ公営住宅建設事業というのは新しく建てる事業であって、不良住宅を取り壊すことはない。ところが戦前の不良住宅地区改良事業というのは、手続きがズサンである。

 戦前のことだから住民の意向を聞くとか、ちゃんと手続きをふむなどということはなくて、一方的にこれはスラムだあるいは不良住宅だという形で上からやってしまう。もう1つは補助率が低かった。戦後の公営住宅の方が補助率が高いということもあって、もう不良住宅地区改良事業は使えないということで、1960年になって新たに住宅地区改良法を制定し、住宅地区改良事業を新しく作りなおし、住環境整備は徐々に進んだ。

 一方、部落解放運動の中では国策樹立運動が展開されて、1965年に「同対審」答申にこぎつけるわけである。その後、なかなか国が責任をとらないで、やっと1969年に同和対策事業特別措置法が制定されたわけである。この時に部落解放同盟は基本法的性格をあわせもった特別措置法と総合的な部落解放対策の樹立と10ヶ年計画の策定、要するに戦前の融和事業完成10ヶ年計画と同じようなものを要求していた。これに対して国は、基本法ではなく、同和対策事業特別措置法を制定し、同和対策事業に対して財政的な優遇措置を定めた。

 国レベルでの総合計画というのはできなかった。その理由は1つは財政的な目途が立たなかったことと、地方自治との関係である。戦前は実質的には地方自治などないから内務省の計画がそのままいった。この時期は建前としては地方自治になっていたし、実際の事業というのは全部地方公共団体が行うわけで、そこまで国がコントロールできなかったということもあって、結局事業名を列挙しただけに留まった。

 実は、第1期の特別措置法では何が同和対策事業かというのは厳密には決まっていなかった。だから大阪を中心に、何が特別措置法に該当するかというので荒れたわけだが、つぎの改定の時は政令で特別措置法に該当する事業名を限定している。これに対して当時の部落解放同盟は、地区レベルの部落解放地区総合計画(総計と称されることが多かった)をつくって対置したわけである。これは大阪が主導したと思うが、「国に対していくら総合計画を作れといってもだめだ。むしろ地区レベルから総計を積み上げてやろう」ということを考えた。

 総計というのは世界的にみればコミュニティ デベロップメントだが、単なるコミュニティ デベロップメントではなくて、地区レベルの部落解放同盟が中心になってつくるということが強調され、同盟の組織確立・拡大の有力な手段とされたのである。当時の大阪府連の資料などを読むと、総計の組織論や運動論が熱心に論じられている。部落白書づくりやたとえば住宅要求者組合、保育所要求者組合など、さまざまな要求別組織をつくり、それらが全部集まる結集軸として総計の委員会を位置づけ、それが中心になって大衆的な運動を行っていくのだということが主張されている。

 総計は建前としては総合計画なのだが、現実には当時の住宅難を反映し、住宅地区改良事業、あるいは公営住宅建設事業による公的な住宅供給が中心になっており、西成でも浅香でも住吉でもこの時期の部落解放運動は住宅からはじまって、住宅で伸びてきた経過がある。それに対して、農村の部落は都市と違うわけである。

 都市の部落あるいは都市のスラムというのは規模の大きいものも多く住宅が密集しているが、農村の場合にはそんな大きな部落はない。あるいは密度もずいぶん低いところが多い。自分で建て直したという住宅もずいぶんある。

 住宅地区改良事業というのは条件がかなりきびしく、たとえば密度が80戸/ha以上なくてはいけないとか、不良住宅率が80%以上でなくてはいけないと定められているし、住宅地区改良事業の場合には全面的にクリアランスして、そこに改良住宅という公営住宅をつくるわけだが、そういう意味で田舎はどっちでもない。

 小集落地区改良事業というのは、小さな部落でよいし不良住宅率も50パーセント以上ならよい。不良住宅を買収除却してもらい、改良住宅に入居してもよいし、自分で家を建て直してもよい、あるいは家を建てるのではなくて家を修繕するのでもよい、現実的には修繕はほとんど行われないが、そういう非常に融通むげな手法だった。

 たとえば高知市の長浜は1000所帯を超えるような大きな部落であるが、ここも小集落地区改良事業を行っている。この計画を建設省の住宅局へもっていくと、「小集落ではなくて大集落ですね」といわれた。実際のところ、大か小かという問題ではなく、住民にとっては戸建て住宅は許されるし、改善型のまちづくりであることが評価されるわけで、北九州市の北方も結局これでやったのである。総計のうち仕事保障や部落産業の振興といった非物的な計画というのはあまり進捗をみなかった。

 これはいろいろな問題があると思うが、そもそもこういう計画が行政になじむかという問題もある。正直なところ仕事保障せよといわれても行政にとっても、公務員で雇うなら別だが、できる余地は少ない。また部落産業の振興についても皮革産業などが大きく変わりつつあるわけで、非常に難しかった。

 一方、物的な環境整備というのはお金をそそぎ込めばそれなりのものができる。それからこれはよくも悪くも大阪の影響が全国的には強かったと思うが、各地で大阪をまねて大きな解放会館や公共施設をつくったが、これらの公共施設があまり使われないという例も結構あり、農業関係の施設なども使われないのが多かった。農業振興や漁業振興というのは難しいが、箱物をつくるのは簡単なわけである。行政はものをつくっていれば、1生懸命同和行政に努力しているようなポーズはとれるし、運動体も歓迎することがあったように思う。物的な環境整備はかなり進んだが他の分野はなかなかうまくいかなかった。


3 人権のまちづくり

 1990年代からまちづくりの内容がどんどん変わりつつある。これがなぜかということであるが、部落を取りまく状況が変わってきたことと解放運動にかかわる住民や運動体の主体的な選択が変わったという面がある。周辺の状況でいうと、バブルがはじけて、同和地区への公共投資が抑制され、さらに削減されるということが起きている。

 部落への公的な投資というのは高度成長期に財政の一部を振りむけたという側面はあらそえないし、それが高度成長から低成長になるなかで非常に厳しい状況になった。また、部落のまちづくりは、公営住宅あるいは改良住宅が中心だったわけだが、その家賃体系も従来の低家賃が改められ、応能応益家賃体系になった。応能というのは所得に応じて、応益というのは便益に応じてという意味で、所得に応じてというのは、家族の収入に占める住居費ののぞましい割合(アメリカでは、適正家賃という言葉を使う)を、15パーセントから18パーセントぐらいと想定している。応能家賃を中心にして、かつ住戸規模や新しいかどうか、立地条件によって家賃をかえている、これが応益家賃である。

 たとえば4人家族で所得がこれだけというと、まず基本家賃というのが決まって、つぎに、たとえば住戸規模が50‡uだとすると、70‡uを基準にして70分の50すなわち基本家賃の7分の5が応益家賃の規模係数になる。そして大阪は立地条件がいいから1.5、新しいと1.2という形で応益家賃の立地など係数が決まっていく。そうなってくると、部落の家賃は今後どんどん上がっていく。

 私は当時も極端に安い部落の家賃は変だという立場だった。もう少し社会的にリーズナブルな線をいったほうがよいのではないかと考えていて、将来的には日本の公営住宅というのは応能応益家賃体系に移行するだろう。だからその前に大阪から部落の応能応益家賃を提案すべきだと主張したが、現場での了解が得られなかった。そうなってくると部落の公営住宅というのはどうなるのだろうという問題がある。はっきりいって国あるいは大阪市が今の公営住宅をこれ以上建てる能力はほとんどない。あるいは建てる能力というよりも建て替える能力もない。これだけ膨大な住宅を部落で抱えているが、これを本気で建て替えることはできなくなっている。

 東京都などの場合、建て替え事業をやるよりスーパーリフォームなどという形の大規模な修繕に傾斜している。そういう中でいままで公営住宅をつくり改良事業をやろうという旗印で進んできた総合計画は、やはりそこでひとつの壁にぶつかった、あるいは見直しの時期にはいったと思っている。一方で部落住民の生活水準向上にともなって、生活要求も多様化した。そういう中で面積もせまく、設備も不十分な1律の公共賃貸住宅でよいのかどうかという疑問もでてきた。

 結局、今大阪府市が部落の実態調査を行っているが、部落の中堅の所得層がどんどん地区外へ転出している。部落の人口構成をみると、中堅所得層が非常に減っている。たとえば学校の先生や市役所に勤めている人などが出てしまう。どういう理由で出るかというのは部落差別も絡み議論があるところだと思うのだが、住宅問題が絡んでいるのは間違いない。

 たとえば多人数家族では今までの住宅には住めない。子どもが大きくなってきたなどの問題がある。公営住宅の家賃が今後どんどん上がっていく中でメリットがないとすれば、むしろ今のうちに安いマンションを買っておこうと考える。しかも問題なのは、同和向け公営住宅や改良住宅で空き家ができる場合は一般公募することになる。今度、応能応益家賃のもとで公営住宅に入れる方は、所得階層25%以下の方になっている。所得階層が全国で25%ということは、大阪などでいえばもう10何%だ。また、世帯主が50歳以上の方に関しては33%以下で入居可であり、今後公営住宅では、どんどん低所得かつ高齢の居住者が増えるのは確実である。

 改良住宅はどうなっていくかというと、これはもう悲劇的で、所得階層12.5%以下の人しか入れないという建設省の方針である。12.5%は大阪でいえばもうほとんど生活保護とボーダーレスである。そういう人たちがはいってくると、結局部落がスラムにどんどん変わっていくということになってしまう。そういう状況の中で、一体どうするのかが大きな問題になってきた。それは建て替えの問題とも絡むわけだが、私は今のままでいったら部落はスラムになってしまうと思う。それに対してどうするのか。

 建設省でいえば、自治体にもう建て替える能力がないということもわかっていて、一方で住民の要求もあって、多様な住宅供給を容認しはじめている、それは住民の要求と建設省の事情と両方の中でつくられたアイデアである。一番典型的な例は、たとえば公営住宅や、改良住宅を建て替えるにあたって、大阪市の改良住宅の場合、公営住宅をつくっていく必要性ももちろん大阪市としても考えているが、この土地に公有地に定期借地権を設定して、安く貸し出し、そこに住民やNPOがコーポラティブマンションをつくってくれて結構だといっている。

 そうなると、結構安くマンションを供給できる。西成の例でいうと、定期借地権を設定したマンションは、こんなに安くいい住宅ができるのかという感じである。コーポラティブだからかなり好きにデザインできるし、いろんなタイプができる。公営住宅だと住戸面積の上限が決まっていたり、これ以上の設備はつくってはいけないなどいろいろ規制があるわけだが、それらの規制からは自由になる。

 一方、大阪市からいえば公営住宅なり改良住宅を建て替えたりすれば、莫大なお金がかかるわけだが、その土地に定期借地権を設定してコーポラティブ住宅をつくってもらえば、地代が入ってしかも自分で投資しなくてすむわけである。

 私からいえば、その分を振りむけて部落の必要な公営住宅なり改良住宅に投資すべきだと思っているが、現実にそういう動きになっている。その中で今までの公共住宅中心主義とワンセットになっていた総合計画も変わらざるをえなくなったというところがある。

 それからもう1つ、部落解放運動が第3期を迎える中で、従来の格差論に基づく行政要求闘争中心主義では不十分だという見直しが進んでいる。たとえば部落解放同盟は、公営住宅などあるいはまちづくりの運動もずいぶん展開してきたと思うのだが、結局行政が住宅供給するなかで、行政に対する依存が生じたというのは明らかだ。あるいは日本の行政、とくに厚生省、そして社会局の流れをくむ建設省の住宅部局には、部落のことを俺が責任をもってみてやる的な後見主義が根強く存在する。

 部落解放運動も知らず知らずのうちに運動として要求するといいながらも、行政の手のひらの中でもの取り闘争をやっていることがずい分多かった。こんなことをいうと怒られそうだが、やはり格差論を前提とする運動の中では、自尊感情などは非常に育ちにくい。

 第3期の運動というのは抜本的な見直しを行おうとしているのだと私は理解している。そういう中で新しい第3期の運動にみあったまちづくりをということであって、その代表例が西成のまちづくりである。

 不完全なものだが、表・部落のまちづくり(コミュニティ デベロップメント)の変容をご覧いただきたい。横軸に1970年代の部落解放地区総合計画、今日の人権のまちづくりをならべて、縦軸にはテーマごとに参加やコミュニティの組織化、所得保障、昔でいえば、仕事保障、あるいは部落産業振興、学校教育、市民教育、住宅供給、住環境整備、環境、市民福祉、文化の各項目を比べてみると、やはりずいぶん変わったということが分かる。

 たとえば、参加やコミュニティの組織化というのは、1970年代に各地の部落解放同盟がどんどんつくられていた時期で、その中で総合計画のための調査とか総合計画は熱心に取り組まれたが、今はどちらかというと、第3期の部落解放運動の旗の下でパートナーシップやNPOとか新しい概念が提出されている。

 そして仕事保障あるいは部落産業振興などに関しても、たとえばワーカーズコレクティブ(協同組合)、ヘルパーの養成あるいは起業支援など、支援が中心になっている。学校教育も同和教育中心から人権教育へと枠組みが拡がり、一方でこれはどのように評価すればいいのか非常に難しいところがあるが、改めて学力保障が大きなテーマとなっている。

 住宅供給でいえば、かつてはとにかく公営住宅供給であったが、今は多様な住宅供給や家賃補助、コレクティブハウスやグループホームへと対象が拡がり、方法も住み手参加などに変わっている。住環境整備も、かつての全面的な住宅地区改良から改善型まちづくり、大阪でいえば校区まちづくり運動、そして北方のまちづくりでは集まって住む楽しさをテーマにした。あるいはまちづくり自体を楽しんでいこうという方向になっている。

 大きく変わってきているのは、福祉の問題でかつては隣保館をつくる、あるいは障害者施設の建設がテーマとされた。今は全国的に福祉のまちづくりがうたわれ、その内容も一時はバリアフリーが唱えられてきた。それはもちろん必要条件だがそれだけではなくて、高齢者や障害者の生活自立支援、配食サービス、特別養護老人ホームを地域内で誘致するなどいろいろな試みが行われている。

 文化の問題もまちづくりや解放運動それ自体を楽しむというスタンスにじょじょに変わっているように思う。参加と交流の面では、たとえば隣保館の位置づけも地域社会との交流の拠点となってくる。法的な位置づけも特別措置法から、一般法をどう活用するか、逆に一般法とそれに基づく行政を部落問題の観点からもう1度見直すということだと思う。そういう新しい視点がずいぶんでてきている。行政への要求闘争もNPOとのパートナーシップや自立支援という方向に変わってきている。

 1970年代後半からの総合計画と1990年以降の人権のまちづくりの差異をみると、運動重視というところでは変わっていないが、行政との関係でいえば70年代は格差論にもとづいて行政闘争で事業を実施している、後者ではむしろ行政とのパートナーシップを求めている。

 前者ではすべて行政に要求を投げかけたが、それが結果的に行政依存になったのではないかということもあって、今日では自立支援をできる限り自前でやっていこうとしている。もちろん行政に要求することは、要求するのだが。運動論として前者はとにかく地区に部落解放同盟を作り上げていくということがあるが、今日では外部への拡がりを求めている。

 たとえばまちづくりの点でいえば、周辺と1体のまちづくりが求められている、部落外との交流、これは1種の部落のまちづくりの普遍化だといえよう。

 70年代では格差論にもとづいて遅れた生活を改善するという視点が強かったが、今はむしろ部落のもっている生活や文化を評価して、それを生活の中でどうとらえ返すかという視点が意識的に導入されている。また現在の福祉のまちづくりというのは、高齢者への生活支援、多様な住宅供給、多様な住まい方の支援が中心であり、新しい文化、環境といったテーマもどんどんでてきている。そして前者では計画事業というのはやはり、やらねばならぬというところがあった。しかし今はまちづくりを1つの楽しみごととしてとらえ、もう少し違う広がりをもっている。

 それは部落民としてのアイデンティティは何か、部落解放運動とは何かという問題にも絡むと思われる。今日では部落差別は目に見えなくなっている、生活の格差も目に見えなくなっているという中で、部落民とは解放運動を中心にあらゆる面での社会的な差別をなくすことに関わることができ、そういう機会がもてるポジションというように、もう少し部落民の位置づけを変える必要があるのではないか。たまたま「まちづくり」では先駆的にそうなっているのではないかということを私は感じている。

4 世界のまちづくりの潮流と人権のまちづくり

 世界で行われているさまざまなコミュニティ デべロップメントの特徴を部落のまちづくりを念頭において考えてみよう。神戸大学の平山洋介さん、彼はアメリカのCDC(コミュニティ デベロップメント コーポレーション)の活動を住宅供給事業の面から調べて『アメリカのコミュニティ ベースト ハウジング』という内容豊かな本を書いている。私の場合、部落のまちづくりなどを念頭においているわけだが、アメリカのスラムとかブライテット、(荒廃地区)のコミュニティ デベロップメントをみていると、これはやはりNPOであるCDC(コミュニティ デベロップメント コーポレーション)の役割が大きい。

 ノンプロフィット オーガナイゼーションすなわち非営利組織というのはアジアでも結構あって、協同組合が代表的な組織であるが他にも配当制限会社など、いろいろな組織がある。日本の生協もそうで、税が安い代わりに出資者への配当を捻出するために利益をあげてはいけないということになっているわけだ。ヨーロッパのハウジング コーポラティブもNPOである。

 アメリカの場合は、NPOがとても強い。アメリカの市民の間では「政府は小さいほうがいい」「政府は悪いことをする」といった考え方が主流といえよう。大体、われわれが接触のある行政法の関係者には社会主義法などを研究された方が多く、どちらかといえば政府は、人民がコントロールするみたいな発想が強く、あるべき政府に対して好意的な方が多いが、英米法の専門家には政府に権限を与えると政府は何をやるか分からないと考え、危険視する方が多い。

 CDCは代表的なNPOであるが、地区の住民によってつくられた組織というより、外からつくられた組織で、地区の住民に働きかけていく組織である。CDCに地区の住民が1メンバーとしてあるいは活動家として参加する例は多いが、基本的な性格は変わらない。CDCは自治体とはパートナーシップを結び、やっていることは非常に多面的で住宅供給とか仕事づくりや文化活動、地区の商業施設の活性化など極めて多様である。

 CDCに対して、地域社会からさまざまな財政援助がある。それが可能な税制になっている。日本の場合、NPOに私たちが寄付しても私たちの所得から寄付金を控除してくれない。控除してくれる場合というのは非常にきびしい制約があって、日赤などを除き、一般的な今のNPOに対しては財政的な優遇措置は少ない。将来的にはある程度優遇措置が実施されるだろうが、それもささやかなものと思われる。それはすべて自分の所へ金を集めたいという大蔵省の意向がとても強く、それ以外に認めないからである。

 アメリカの場合には、企業が寄付をするとそれが損金として所得から控除される。キリスト教の風土もあり、アメリカでは地域の企業は地域に貢献すべきだというコンセンサスがある。市や州政府は自分からはコミュニティ デベロップをあまりやらない。むしろ行政がやると効率が悪いということもあって、NPOと組んでNPOに事業委託を行ったり、あるいは財政援助を行っている。

 全国規模のフォード財団などがCDCに結構補助金を出している。またCDCに対して専門的な情報提供や職員のトレーニングを担当するインターミディアリーすなわち、中間的な組織がある。それがたとえばCDCに対してこういうふうに運営しなさいとか、CDCの職員のトレーニングなどを効率よくやってくれるわけである。このインターミディアリーの組織に対して全国規模の財団がお金を出している。

 また、アメリカの場合、地方自治が徹底している。アメリカはユナイティッドステイトであって、州はもともと全面的な権限をもっていたわけである。そして州の中の軍事権と外交権をプールしてできたのがユナイティッドステイトである。1応州も軍隊をもっている。州権はとても強い。一方で国から州へ、州から市町村への補助金が日本と違ってプロックグラントといって、まちづくりに関する1括補助金という形で幅広な補助が行われていて、自治体はそれをうまく活用している。こういう金の流れをぬきにして、アメリカのまちづくりについては、語りえない部分がある。

 アジアの場合にはまちづくりの主体はCBO(コミュニティ・ベースト・オーガナイゼーション)であり、CBOはコミュニティに依拠した自律的な組織であり、アメリカのCDCとは性格を異にする。私が加わっているアジア居住権連合(ACHR)の場合、呼びかけ文には「CBOそしてNGOの皆さん」といういい方をしている。CBOというのは自分たちが地元でやっているというニュアンスでありNGOというのは難しいところがあるが、ヨーロッパなどのお金を取ってくる、あるいはヨーロッパのお金をうまくアジアで受けとめて、地元に配分するといった役割も担っている。

 NGOにはキリスト教のミッションと結びついているケースも多く、ACHRの会員組織の中にもおれたちはNGOではない、CBOだという思いが現場では強い。一方ではNGOとうまく組んでやっていこうという動きもあるわけだが、たとえばパキスタンのオランギのまちづくりなどではCBOがものすごくいきいきやっている。

 アジアの場合には、不法占拠居住地が多い。不法という表現にもまた問題があるが、とにかく法的な意味できちんとした居住権なり、利用権が確立されていない居住地が多い。アジアでも景気のよいときに民間資本などがそういうところの住民を追い出して、そこにショッピングセンターをつくろうとか、そこに中産階層むけの住宅をつくろうなどの動きがあって、強制撤去(エビィクション)が、非常に多かった。だから私たちACHRで1番重要な活動は、エビィクションに対する反対運動である。エビィクションを監視して、みんなでそこに集まり抗議し取り止めさせるわけである。

 たとえば、バンコクでエビクションが起これば、タイの人はみんなそこに集まるし、ソウルのオリンピックの前後に悪らつなエビィクションが行われたときには、ソウルでアジア規模な大会を開いて日本からもメンバーが参加し、ソウル市長と建設大臣に抗議を行った。たまたま日本では私が責任者で建設大臣とソウル市長に抗議文を出したら、非常にスマートな返事が来た。「みなさんからの指摘はあたっているところも多いと思う。われわれは今こういうところを努力している。不十分な点はあるが、もう少し長い目で見てほしい」という堂々たるものであった。私はその後、入国禁止の措置も受けず、向こうの住宅公社の国際シンポジウムに呼ばれることもできた。最近では、アジア諸国の行政も変わりつつあって、ACHRでもエビィクションへの反対運動だけではなく、行政とも、パートナーシップでやっていこうという動きがずいぶん大きくなっている。

 たとえばインドネシアのカンポンというのはインドネシアンスラムと訳されているが、非計画的にできた居住地である。そういうところの改善事業であるKIP(カンポン改善事業)は、パートナーシップのまちづくりといえる。

 フィリピンのコミュニティ モーゲージ プログラムも同様である、これも不法占拠の居住地を対象とし、その居住地のコミュニティを法人化させる。法人であるコミュニティが、例えば地主と土地の譲渡の話がつけられた、あるいは地主から代替地提供の約束をとりつけたといった場合には、その土地を担保に国の出資している銀行がお金を貸すわけである。それがコミュニティ モゲージである、それを何年間かで返していく。個々人にお金を貸さないけれども、コミュニティに対してお金を貸す。しかもその土地の造成や上下水道の敷設などの住環境整備や住宅をつくることにも貸すという非常に優れたシステムである。

 同様な試みはタイでも行われている。日本でも農山村の共同体には結といった互助的な労働組織、例えば屋根をふくときにみんなでやるとか、頼母子講といった互助的な金融組織が存在していたが、今日のアジア諸国にも類似の組織が存在している。だが都市化の中でやはり弱くなっている。頼母子講は、誰かが逃げたらもう成り立たない。そういう共同体の互助組織をもう1度つくりなおそうという思いもあって、タイでは低所得者階層の居住地の住宅建設にあたり、ビルティング トゥギャザー(みんなでつくる)という組織をつくり、相互扶助を行うなどさまざまな工夫がなされている。

 最近では多くの国ぐにで、信用貯蓄運動が盛んであり、人民銀行や婦人銀行に少しずつお金を貯めて融資をうけ、とくに女性がある程度自由にお金を使えるようにするという運動や、ワーカーズコレクティブ、仕事づくりなどが追求されている。ただアジアの地域は財政的にはきびしいわけである。ヨーロッパのNGOのお金に大きくおんぶしている、これが1番弱い点である。そういう中で私がアジアに行って、たとえば北方のまちづくりをスライドをみせてこういうふうにまちづくりを行ったなどと報告するとみなさんやり方はよくわかるという。どこでも同じような問題意識でやっている。

 私自身は都市計画をずっとプロフェッショナルとしていて、そういう中で部落のまちづくりに何を学ぶかという意識が非常に強いし、逆にいえばそういう立場から部落のまちづくりに私なりに関わっていきたいと思っている。私の学生時代にはWHO(世界保健機構)の規定というのがあって、都市計画の必要条件として、安全、利便、快適、健康があげられていた、これらが都市計画のキーワードだったわけで、居住地をこの4つの項目で採点評価をしていた。しかし国連に代表されるコミュニティ デベロップメントの中では、コミュニティの組織化、住民の参加、あるいは仕事保障などとキーワードもずいぶん変わってきた。

 今日のまちづくりでいえば、福祉との連携や文化やアイデンティティ、景観の問題、環境共生もまちづくりのテーマになっている。そういう面ではずいぶん変わってきたなと考えている。

 今日の部落のまちづくりから私は、住民の自立支援、パートナーシップなど多くのことを学んでいる。

 1985年前後に私は「同和地区のまちづくり論」(若竹まちづくり研究所編、『人権回復のまちづくり論』、明石書店)という論文を書いた。その中で、一般地区のまちづくりに比べ、部落では運動としてまちづくりが行われており、その反映もあって、きめ細やかな住民参加がなされていること。部落解放地区総合計画の一環としてのまちづくりであって、単なるフィジカルプランニング(物的な計画)ではないこと。そして住民や自治体の負担の軽減措置がよく考慮されており、自治体への補助金とか、あるいは住宅改修資金や新築資金という住宅金融が行われ、かつ低家賃の公共住宅が供給されていること。さらに小集落地区改良事業に代表される非常に柔軟な事業手法があること。そういう点をこれからの日本のまちづくりは学んでいくべきだと主張した。

 実際に小集落地区改良事業をはじめにつくったときに、建設省の住宅局は部落解放同盟に押されて鬼子をうんだという感じだったわけだが、事業をやってみたら非常に調子がいいので、これを一般地区のまちづくりにどんどん適用して、今では神戸の震災復興事業などでもずいぶんこの手法を使っている。そういう面では私の主張は正しかったと思う。

 今の時点では1985年に比べて部落のまちづくりはもっと変わっていて、まちや住まいをつくる手法として参加型のまちづくりやワークショップが多用されている。あるいは集まって住む楽しさ、例えば北方などでも集まって住む楽しさを追求した。一般的にもテーマとされているが、住み続けられるまちづくりも注目される。家賃の問題もあるし、高齢者に対する生活支援の問題もある、西成地区のように商店街の活性化もテーマになっている。住民や解放団体がNPOとか行政とパートナーシップを結んでいくという試みは日本の今後のまちづくりでも一般化していくと思う。行政の役割というのはだんだんと支援になっていくだろう。

 今後も部落のまちづくりは変わっていくし、部落のまちづくりと一般地区あるいは世界のまちづくりの経験を相互に環流することを通じて一般地区のまちづくりもともに変わっていきたいと思っている。