はじめに
プロップ・ステーションは、1991年5月に立ち上げられ今年で12年目をむかえる。活動内容については、ITいわゆる情報技術を活用することによって障害をもつ人が、社会とつながり、ITという道具を使って働けるように支援していく活動を行っている。
発足当時は、まだパソコンというものが普及しておらず、インターネットもなかった。パソコンやパソコン通信をする人というのは企業のコンピュータ・プログラミングというような特別な部門であったり、海外と連携して研究をしている学者が使用しているだけというような時代だった。そんな時代に私たちはパソコンを使ったり、パソコン通信を中心にして、重度の障害を持つ人が社会参画し、納税者になれるようにしようという活動を始めたのである。
プロップ・ステーションのきっかけ
プロップ・ステーションでは、「チャレンジドを納税者にできる日本」というキャッチフレーズを掲げているが、これはアメリカのケネディ大統領が、1962年2月、最初に議会に提出した教書の「社会保障」の項で「私はすべての障害者を納税者にしたい」と書かれていた内容の影響を受けている。ケネディ大統領は彼自身、知的障害をもつ親族がおり、この言葉を障害をもつ人たちの尊厳、人権を守る最も重要な施策だと考えていたのである。障害をもつ人について、税金を使って○○をしてあげる対象ではなく、その人たちが税金を納められるような社会をつくるということを国の重要な施策、福祉政策の基本にしようとしたのである。私たちプロップ・ステーションではこの考え方に共鳴し、キャッチフレーズを「チャレンジドを納税者にできる日本」ということにしたのである。
もうひとつ、プロップ・ステーションを始めるきっかけとして、一人の青年との出会いが大きかった。彼は高校のラグビー選手だったが、スポーツ事故で全身麻痺になり、その結果左手の指先だけわずかに動くのと、首が少しだけ左右に動くという機能が残った。その彼がある時両親に「自分は体が動かせなくなったけれど、考える力は残されている。だからこの考える力を使っていろんな勉強をして働きたい、仕事がしたい」と相談し、そのために大学へ進学しようとしたのである。最初、大学側は彼の受験を断っている。なぜならば、鉛筆が持てない、試験場へも一人では来れない、さらに全身介護だからサポーターも必要、というような人を大学として受け入れたことがない、という理由だった。彼は試験を受けて成績が悪い結果大学へいけないなら納得できるが、試験すら受けられないというのは辛い、ワープロを試験会場へ持ち込みフロッピーで問題を出してもらえれば受験できると主張、その彼の熱意によって受験が許可され見事合格したのである。さらに彼はその後大学院まで進んでいる。
それまでは全身麻痺になって指先しか動かせない人に「働け」とか言ってはだめだと思い、そういう人はかわいそうな人、気の毒な人と考えていたが、そんな彼を見ていて、(1)本人が「働きたい」と希望し、(2)家族やまわりの人がその気持ちを応援し、(3)パソコンなど最新の科学技術(道具)を使えるようになる、この3つがそろったらかわいそうじゃなくなる人がもっとたくさん世の中にいるのではないか、そんな人たちを支援していけば「働ける人」として誇りをもって生きていく人が増えていくのではないかと思うようになった。
そこで私は彼にそんな思いを話し、グループをつくって活動しないかと提案し、いっしょにやっていくことになった。そしてグループの名前をどうするか話し合っていたときに彼が「プロップ」という名にしてほしいと提案した。プロップとはラグビーのポジションのひとつの名前で、「支柱」「つっかえ棒」「支え合い」という意味があり、とくに私は「支え合い」が気にいった。今日、障害のある人は支えられる人、障害のない人が支えてあげる人という線引きの考え方がまだ根強いが、本当に人間というものは自分の力だけで生きている人なんて絶対にいないのではないかと考えている。
文明や科学が、あるいは社会全体が、発達すればするほど生きていくためにはさまざまな人やものに依拠して生活していかなければならないのではないか。けれどもそのことが、障害があるといった瞬間に線を引かれて、こっちの人は支えてもらわなければならない人で、こっちは支える人、そういう考え方になっている。ここができない、あれができない、これは無理だと、できないところばかりを先にみて、それに対してそのできない部分を何とかしてほしい、手を差し伸べてほしい、それがこれまでの福祉のあり方だった。もちろんそれは悪いことではなく、できない部分をサポートするというのは当たり前のことである。けれどもそればかりだと、できる部分があってもその力が十分に発揮されていないことになってしまっているのでないかと思う。
当事者とのつきあいからの気づき
私には兄妹の二人の子どもがいる。妹は重症心身障害という脳の障害をもって生まれた。視力は明暗だけがかろうじてわかるがものの形は見えないという全盲、聴力は音は感じるが音の意味はわからない、声は出るけれど言葉は出ない、そして今でも私のことを母であると認識しているかどうかはわからないのである。
私は、どうやって娘と楽しくすごしていくか、暮らしていくか、医者などいわゆる専門家といわれるところに相談に行った。ところが、「おかあさん、がっかりしないで」とか「元気出して」とか慰めの言葉しかいわない。「どうしたら楽しくやっていけるか」と尋ねても答えてくれない。
結局、娘と楽しく生きていくために当事者からいろいろな知恵を教わろうと考えるようになった。目の見えない人とつきあって、見えないことの不便さや困ること、見えないけれどできること、楽しいことを教わろう。しゃべることのできない人、聞こえない人とつきあってどのようにしてコミュニケーションをとっているのか、困ること、楽しいことなどを教わろう。体を動かすことができない人とつきあって、動けたらなにがやってみたいのか、何かしようと思ったら何があったらいいのか、どんな道具があったらいいのか、まちがどのようになっていたらいいのかなどを教わろうと考えたのである。
そしていろいろな障害者とつきあい、いろいろなことがわかってきた。まず、娘のような重度障害者と言うのは、障害者と呼ばれている中の一部であるということ。それ以外の障害者たちは、なんらかのやりたいこと、意志や意欲があり、不平や不満も含めて持っていることに気がついた。けれども日本は、「福祉」といってその人たちのまずできないところをみて、できるところは後回しにしているということにも気がついた。
視覚障害をもつ友人と障害者問題の学習会にいっしょに行ったとき、肩に手をおいて歩いた。「ナミねえって声を聞いていたらおばさんみたいだけれどけっこう若いね」といわれた。彼女がマッサージの仕事をしていたのでわかったのかなと思っていた。ところがその学習会会場へ行ってドアを開けた瞬間、彼女が「広い部屋なのに今日はまだちょっとしか来ていないね」といった。見えていないけれどドアを開けたときに自分の体から壁までの距離感とか広がりとかがわかり、人数についても、そこの人のわずかな呼吸などを感じることができるということだった。学習会終了後、友人が車で送ってくれることになり、車のドアをあけて乗り込んだとき、「かっこいいセダンやね」といった。車というのはドアを開けるときの重さ、質感、とくに閉めたときの感触でドアの厚さ、素材等がわかり、シートにすわったときもシーツとの感触で違いがわかり詳しい人は車種までわかるのだという。
その友人は同じように目の見えない青年と恋愛し、結婚し、子どもを産み、その家へ遊びに行ったときのことである。まず家がきれいに掃除されていた。あぶないものもゴミも何ひとつおちていなかった。さらにタンスの中や収納ケースやその中なども完全に整理されていた。目が見えないので家の中の配置も家から出かけるところまでもがきちんと図面が頭の中にあり、その図面を自分が崩したらたいへんなことになるのでいつもきちんと整理しているのだという。また、虫さされやオムツかぶれについては赤ちゃんを一日に何回も手で触るのでどんな小さな湿疹なども見逃すことがなく、発熱の場合も抱っこしたら熱ぐらいはわかるといい、もし正確な温度が知りたいときは隣の人に見てもらっているのだという。
そんな子育てや家の状況に感心していた2、3日後、その友人から役所へ行かなければならないのでいっしょについてきてほしいという連絡があったので、「育児でたいへんだから私が変わりに行ってきてあげる」というと友人は怒って「私のかわりに行ったら私がいつまで立っても一人で役所へ行けない、1回いっしょについてきてくれたらそれでいい、そうしたら次から私が一人で行ける」と言った。その人のできないところよりできるところを知って学んで、伸ばしていこうといいながら、ついついできないところを先にみている自分に気づかされ、「一人でできるような状況をつくる」ことが大切だとしみじみ考えさせられた。
チャレンジドという言葉の意味するもの
私たちは「障害者」という言葉ではなく「チャレンジド」を使っている。この「チャレンジド」という言葉は15年ほど前にアメリカでうまれた言葉である。アメリカでは障害者をハンディ・キャッパーとかディセイブル・パーソンという言葉で呼んでいたが、それはできないとか無理という、マイナス(負)を意味しているので、それに代わる新しい言葉をつくろうということから「ザ・チャレンジド」という言葉が使われるようになったと教わった。ちょうど阪神淡路大震災直後のときであった。
プロップ・ステーションの本部は東灘区の六甲アイランドにあり、私の家も震災で全焼し、仲間も全員被災者になってしまった。普通は何か困ったことが生じた場合、役所に相談に行くというのがほとんどであるが、その市役所・区役所も被災し電車も不通になるなど、みんなが被災者になってしまったのである。そのような状況でどのようにして助け合い励ましあって復興していけばいいのかという課題に直面していたときに在米のプロップ・ステーションの支援者から「チャレンジド」という言葉を教えてもらった。「チャレンジャー」ならば「挑戦者」だけど「チャレンジド」というのは「チャレンジ」の受動態で、「(神から)『挑戦』という使命や課題、チャンスや資格を与えられた人」という意味であり、さらに日本で言う「障害者」だけを意味するだけではなく、震災復興に立ち向かう人もこの範疇に入るという。つまり「チャレンジド」という言葉のなかには「すべての人間には自分の課題に向き合う力が備わっている」、だから課題が大きいときにはその向き合う力もたくさん与えられるという哲学がこめられているという。その言葉に私はとても勇気づけられた。
以来私たちは「障害者」のことを「チャレンジド」と呼ぶようになり、「チャレンジドを納税者に出来る日本」というキャッチフレーズもそこから生まれてきたのである。ただ、誤解のないようにしておきたいのは、決して「障害者」は差別用語だから使うな、「チャレンジド」を使えということではない。「チャレンジド」という言葉の持っている意味と考え方、それを少しでも広めていきたい、あるいは私たち自身がチャレンジドだといえるような生き方をしたい、ということなのである。
ITと福祉とプロップ・ステーション
プロップ・ステーションでは、この「チャレンジド」がまずIT、コンピュータの勉強をして、その学んだことの専門性についての評価を行い、そしてそのコンピュータ技術を取得した「チャレンジド」が、営業が得意な他の人がとってきた仕事を自宅や施設の中、ベッドの上など、その人が一番力が発揮できる場所でその仕事をこなせるよう、「チャレンジド」と仕事をつなげるコーディネートをしていこうという活動を始めた。
プロップ・ステーションには、パソコンができるけれど障害が重くて1日1時間パソコンを使ったら1~2時間体を休めなくてはいけない、そして体を休めたらまた1時間パソコンが使える、そういうことをしながらグラフィック・アートやホームページなどがつくれる人がいる。あるいは春と秋の過ごしやすい季節の時はコンピュータを使って創造的な仕事ができるけれども真夏の暑いときや真冬の寒いときには入退院を繰り返しているという人もいる。また精神に障害があり、調子に波のある人もいる。調子のいいときだけ切り取るような形で何かをすれば成果を出せるけれど、マイナスの状況の時にプレッシャーをかけるとつぶれてしまう。これまで日本では、コンスタントにある一定量以上働けるということが働けるということだと規定されてきた。その基準から見た場合、先の人たちの場合には「それだったら働かなくていい」と判断され「福祉の受け手」とされてきた。しかしながら、その人は「福祉の受け手」といわれて喜んでいるわけではないのである。「1日2時間だから働かなくていい」ではなく「2時間は社会を支えてね、残りは社会があなたを支えるよ」というように、みんなが出せるものを全部出していく、そういうことを考えなければならないと思う。
プロップ・ステーションでは「チャレンジド」が学んでいくことに対して、一流のプロとかエンジニア、クリエーターを先生としてサポートするようにしている。つまりプロフェッショナルな技術を伝えるのである。あわせて「チャレンジド」が取得した技術などに対してプロの立場から評価していき、仕事として世の中につないでいくという、プロフェッショナルとの連携を行っている。例えばある「チャレンジド」の落書きみたいに見える作品のなかの「ここの一角のこの箇所はすごくセンスがよくデザインに使える」、あるいは描いたキャラクターがすごくユニークでおもしろい、そういう評価から、それを3次元アニメの制作者がアニメの主人公にしていくということもある。どうやってプロの人と組んで、「チャレンジド」のやったことを仕事として世の中につないでいくかという新しい発想が必要であり、プロの人たちとの連携が必要なのである。
「チャレンジド」が働くための後押しをする法律、企業に対するインセンティブのための法律というのは法定雇用率の義務化しかない。しかしながらこれまで話してきたように働くためのいろいろな可能性がある。そのようなことついては何の後押しもなく、「この方法(働き方)しかない」というのは誤った考え方である。そして法定雇用率について、未達成企業は納付金(罰金)といわれているものを支払っているが、その罰金の250億円(年間)は法廷雇用率制度を維持・運用するためだけに使われているのが実状である。もしこれが、法定雇用率以外のいろいろな就労形態を支援するために使用してもいいという制度がひとつできただけで、「チャレンジド」の雇用に対する企業の姿勢も変わってくるだろうし、あるいは自分たちが持っているノウハウを提供しようという企業も出てくるかもしれない。
現在、プロップ・ステーションが取り組んでいることは、あくまで新しい試みではあるが、その結果、プロップ・ステーションのようなアウト・ソースの仕事をコーディネートしたり、その人のコンピュータ技術を育成したり、あるいは企業のプロフェッショナルな人とつないだりするようなグループを全国で選定して、国、自治体とでバックアップの予算・支援をしようということが2003年8月の概算要求で決定された。具体的には、2004年4月より全国約20ヶ所ほどで指定されて動き始める。プロップ・ステーションの活動がモデル事業的な役割を果たしてきたものが、やっと社会システムとして動き始めたという思いである。このようなプロップ・ステーションの活動が、今後の福祉や企業活動の選択肢の一つの考え方として、認識してもらえることを期待している。