講座・講演録

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2004.05.31
講座・講演録
第250回国際人権規約連続学習会
世界人権宣言大阪連絡会議ニュース261号より

国際人権法からみた日本の人権をめぐる諸問題

江橋崇さん(平和フォーラム代表・IMADR理事・法政大学教授)

イラク人質問題から見た日本社会の人権意識

  先日、国際NGOのIMADR(反差別国際運動)から出されたイラクの人質問題に対する声明の作成に私も関わってきましたが、この間のイラクで起こっていることへの日本政府・社会・運動の対応がとても変だと思うのです。皆さんはどうでしょうか?

  最初に3人の日本人が人質として捕らえられた映像を見たときは、非常にショックでした。なぜなら私たちのような国際人権に取り組む人びとは、これまでにあのような形で多くの仲間を失ってきたからです。1980~90年代は特にひどい時代で、南米の軍事政権をはじめ、アフリカや韓国などの様々な国で多くの人権活動家が権力、あるいはそれに反対する勢力によって拉致され、拷問を受けて殺害や行方不明にされてきたのです。

  私からすれば今回のような行為は人身の自由を奪い、生命の危険をもたらす国際人権法違反のまさに拉致犯罪であって、真っ先に出てくる言葉は「やめてくれ」以外にないと思います。

  ところが日本社会の反応は政府も反政府も今回のイラクの人質問題を人権問題として捉えなかったのです。日本政府が人質の解放を求めて犯人に送ったメッセージは「そんなことをすると結局損しますよ」や「日本人はあなた達を嫌いになりますよ」という、損得勘定と好き嫌い問題でしかなかったのです。

 つまり「国際人権法に照らしてあなた達は間違っているのだから人質を解放しなさい」という固い論議で犯人に迫ろうと誰1人としていなかった、情けない状況なのです。

  こういった事件が起こった原因はアメリカ合衆国にもあって、その政策を支持・追従した小泉政権も悪いと、自衛隊の撤退を求めて首相官邸にデモをする運動もあります。確かにそれはひとまず落ち着いたらきっちり議論しなければなりませんが、拉致が起こったときにそれを言ってしまえば拉致犯と共闘する立場になってしまいます。

  実際拉致犯は当初自衛隊の撤退を要求しましたが、その後は全く触れられていないことからして、彼らの要求は完全な思い付きによものだといえるでしょう。しかしそうであっても犯人の要求に意思が相通じて自衛隊の撤退を求めてデモをしています。こういった行為をアメリカでは事後従犯あるいは便乗犯となります。普通の誘拐事件で子どもを誘拐された家に、犯人以外の人間が便乗して身代金を要求しているのと同じことなのです。

国際的なNGO活動の妨害となる人権侵害

  これに対してIMADRは声明の中で、「イラクにおいて、国際的な人道支援活動を行なっているNGO活動家等が誘拐され、生命の危機にさらされ、その活動を遂行することができなくなっている事態は極めて遺憾である。IMADRは武装勢力に対し、日本を含む各国の市民社会や『イラク・ムスリム・ウラマー協会』の呼びかけに応え、身柄を拘束されている人びとを一刻も早く解放し、活動現場への復帰を保障することを求める」と主張しています。

  確かにこの事件の背景にはアメリカ合衆国がファルージャで無茶苦茶なことをやっていて、誘拐事件を通じてその事実を国際社会にアピールしようとしていたこともあるでしょう。しかし、あそこで起こっていることはグローバルな人権侵害であって、人権侵害である以上その目的や国籍を問わずIMADRはこのグローバルに批判しているのです。この視点が欠けると、「日本人の人質さえ解放されれば、あとは関係ない」ということになるのですが、それではあまりにも情けないと私は思います。

  また声明では『今回の事態の結果として、イラクにおけるNGO活動が停滞し、それらが関与してきたイラクの諸地域やそこに住む人びとに対する人道支援が途絶えることは、断じて避けられねばならない』とも主張しています。例えば医療活動をしているNGO関係者が医薬品を調達しに行った帰りに拉致されてしまいました。

  この場合、誰が困るかといえば当然拉致されて生命の危機にさらされている本人であり、そしてそれと同様に医薬品を待っている人びとも困っているのです。戦争によって大変困難な状況になったイラクを救うために救援活動をしている人を現場から引き抜いてしまえば、一番困っている人が結局は何もないままに放置されることになります。

  つまり拉致事件は人権侵害であると同時に、国際的なNGO活動の妨害にもなっています。イラクで人道支援をしていると言いつつも日本ではこういったことが全く伝えられていませんし、イラクの人のことなど本当は考えてもいません。残念ながらそれが日本のマスコミ、そして運動の現実なのではないでしょうか。従って全ての問題は国際的な問題として起こっているのだからIMADRは、人質の解放も現場での支援も全て国際的に解決すべきだという立場を取っています。

  国際人権に取り組むNGOならばこういった考え方になって当然なのですが、そうでないのが日本社会の人権意識であって、国際的に人権という普遍的な原理において市民社会が連帯していくにはまだまだ日本の人権運動が頑張っていかなければならないといえます。

北朝鮮問題とイラク問題の共通点

  このような点でイラク問題と重なっているのが北朝鮮問題です。私は日本の人権運動は北朝鮮問題に対して反省すべきだと思っています。拉致被害者の家族会がこの問題を取り上げる際に被害者だけの人権問題として捉えていますが、たった1人の人権問題を黙殺してしまうのが日本社会であるならば、私たちも拉致被害者の人権問題に十分対応できているでしょうか。

  一部にはアメリカと敵対するために、あるいは北朝鮮と仲良くするためになどの理由から問題を見過ごしていたところもあったのではないでしょうか。また拉致被害者の家族会が動いているときに私たちは何と言ってきたのでしょうか。「確かに拉致被害者の人権問題もあるが、人権問題は他にも多く起こっているのだから、全体的な構造の中で解決しなければならない」と言ってきたはずです。しかしもしそうならイラクの問題も同じであるはずです。

  日本人の問題だけを考えるならば、北朝鮮の日本人拉致被害者の問題だけを取り上げている家族会と同じ立場であるといえるでしょう。その意味で北朝鮮における人権問題とイラクにおけるそれはどこかで結びついていて、一方で対応を誤れば他方も誤るような関係ではないかと思います。

  これまで歴史的に見て日本で人権が叫ばれたのは、古くは明治からでした。しかし当時のそれは他国に対する対外的なものであって、法的根拠も何もない場合の最後の切り札として用いられてきたようです。これが国家的人権というものです。それが戦後に日本国憲法ができて、そこに人権が盛り込まれるようになったのですが、それは上から下へ教育・啓蒙される人権でした。

  つまり政府や法務省が人権侵害をするはずがないという前提で、国民同士の誤解によって生じた人権問題を政府が上から解決するというものです。しかしこれに対して60-70年代に政府は人権侵害をするな、社会的な人権侵害をなくすように積極的な措置を取れなどといった下からの反権力性の側面を持った人権が、部落解放同盟の運動を中心に初めて出てきたのです。そしてそれ以降人権というものが日本でも徐々に定着してきたときに起こったのが北朝鮮問題であり、イラク問題なのです。

  しかし北朝鮮に対して戦後処理も終わっていない日本政府は解決に向けた何の手立てもないために、かつてと同様に人権侵害であると主張しました。つまり国外にいる日本人に対してのみ人権を持ち出しながら国内の人権政策は無視するという、明治以降続く国家的人権が北朝鮮問題で再び顔を出してきたのです。

  そしてイラク問題です。幸か不幸か政府は人権侵害だとはまだ言っていませんが、市民の側も国際的に解決しなければならない国際人権問題だとは言っていません。もし、もう少し人質の解放が遅れれば反政府派は人質の命を救うために自衛隊の撤退を求めただろうし、政府は人権という切り札を切っていたでしょう。それはどうにか瀬戸際で食い止められたが、非常に危ない状況であったと私は思っています。

  では北朝鮮やイラク問題の解決のために私たちはどうすれば良いのでしょうか。そのカギは国際人権規約等のグローバルスタンダードをきちんと共有した、NGOや自治体の交流にあると私は思っています。また同時に国際的な人権活動家に対する人権侵害にももっと目を向けなければなりませんし、自治体やNGOの国際交流・協力における安全確保も重要な課題になってくるとも思います。しかしそれは決して自分たちだけのことを考えるのではなく、グローバルスタンダードを踏まえたものでなくてはなりません。

国際人権法が求めるもの

  では国際人権法から見て現在の日本の人権にはどのような問題があるのだろうか。やはり最大の問題は政府の施策の責任です。国際社会では政府には人権を積極的に実現していく責任があると考えられていますが、日本政府は自分たちが人権侵害者になるはずがないという前提で、憲法を制定して人権侵害的な法律を改正したことでその責任は果たしたと考えているようです。

 その結果何か問題が起きれば社会問題に問題の質を転嫁して、政府はサービスとしてその解決を図ろうとしているのです。しかしこのようなことではいけないと私自身も思っていますし、国内にも政府の施策責任を求める声が強まってきています。

  21世紀の行政は積極的な施策展開の責任とそれによる何らかの結果が求められており、そのための評価システムも徐々にできてきています。またもう1つ政府には、実効性ある個別救済システムを展開する責任があります。つまり人権に関して政府には上から見て積極的に正していく責任と、当事者の苦情申立を解決する中から全体の構造的な問題を正していくという責任の両方があるということです。

  そして人権と言っている以上、後者が基本ではないかと私は思います。人権侵害の加害者を処罰して公共の利益を守るだけではなく、被害者の人権を救済してエンパワメントさせるシステムが必要であって、そのような実効性のある救済システムが日本にはないことが問題です。これが国際的に求められている運動のあり方なのです。

  もう1つ国際的に私たちが今求められているのが、人権文化の創造です。特に国連を中心にグローバルコンパクトという形で、NGOや企業等が地域で人権を守るために協議してプランを実行していくことが求められています。ですから日本の企業にもそろそろ本気で人権について考えてもらいたいと思います。つまり企業は本体事業以外の部分で活動するメセナやフィランソロビーなどの活動に留まるのではなく、企業活動の本体の部分でCSR(企業の社会的責任)として人権を実現していってもらいたいのです。こういった観点を含めた人権教育・啓発、そして人権文化の創造が求められています。

  かつて「人権フォーラム21」は日本における人権政策の三原則として、総合的解決、地域的取り組み、当事者参画を提起しています。そして最近ではこれに地域を元気にする街づくりと人権を結びつけた、「地域の発展と人権のまちづくり」というキーワードも加わっているといえるでしょう。そこでそのカギとなるのが人権条例や自治基本条例作りです。これらの原則を踏まえて地域における人権づくりを今後も熱心に続けていくことが重要であって、それを基にグローバルスタンダードに沿った国際社会との連帯・連携、そして国際人権問題への総合的な対応が今後の私たちに求められていると私は考えています。