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2004.06.18
講座・講演録
第251回国際人権規約連続学習会
世界人権宣言大阪連絡会議ニュース262号 より

人権とメディア報道

平川 宗信(中京大学法学部、法学研究科教授)

メディアの危機的状況

   「人権とメディア報道」を考える場合、大きく分けて二つの側面があるといえます。一つは、メディアによる人権擁護という側面で、もう一つが、メディアによる人権侵害という側面です。メディアは人権侵害を意図した機関ではなく、メディアとしての本来の役割があるのですから、メディアはどのようにして人権を擁護するのかを議論するのが本筋です。

  しかし、今日、「人権とメディア報道」といえば、メディアがどのように人権を擁護してくれているかというよりも、まずメディアによる人権侵害をイメージされてしまうのが現状といわざるを得ません。実際に、かなり前のアンケート調査ですが、メディアは警察よりも人権侵害をし、警察の方が人権を擁護していると一般市民には思われているという結果も出ています。つまり、「警察や権力から皆の人権を守るんだ」と言っているほどには人々に信頼されていないのが、今日のメディアの現状なのです。

  このような関係は、メディアと市民の間に溝ができてしまう危機的状況だと私は思っています。そして、これを背景に、権力からメディアに対する規制が強まってきています。メディアによる人権侵害の防止・救済を口実に、法律によるメディア規制が権力によって企てられ、それが人権擁護法案をはじめとするメディア規制三法案となって現れてきています。そして、さらに最近では、有事法制の中にもメディア規制が盛り込まれようとしています。これも、メディアにとって危機的状況であることは明らかです。しかし、私は、メディア関係者がこれらの事態に対して危機感を抱いていないことこそが、メディアにとって最大の危機的状況だと思っています。

人権侵害としてのメディア被害

   皆さんは、最近「報道被害」という言葉をよく耳にするのではないでしょうか。これはメディアによる人権侵害を表現する言葉ですが、この言葉をメディア関係者、特に幹部の人々は非常に嫌っているようです。メディアの活動から実際に生じた被害をこのように表現するのは何ら間違いではないのですが、彼らは、「正義の味方」であるメディアがあたかも悪者であるかのように言われたと感じて心外に思い、反発しているのでしょう。確かにメディアは人権侵害を意図した機関、「悪者」ではありませんが、自分たちの活動から被害者が出ているのは事実なのですから、このような受け止め方は、その点に関する加害者意識が欠けていると思います。

  この「報道被害」という言葉は分かりやすい言葉ですが、「報道」というと、テレビニュースや新聞記事のように表に報道されたものがイメージされ、それ以外のものが漏れてしまうという問題があります。ニュースや新聞記事によって人権が侵害された場合はまさに「報道」被害ですが、メディアによる被害には、もう一つ、メディア・スクラム(集団過熱取材)に代表されるような「取材」被害という問題もあります。「取材」も広い意味での「報道」に含めるならば「報道被害」と言っても良いと思いますが、「メディア被害」の方が正確だとはいえるでしょう。

  さて、メディア被害の加害者すなわちマスメディアは、いうまでもなく大企業であって、立法・司法・行政に次ぐ「第4の権力」とも言われるほど大きな力を持っています。他方、被害者は、多くの場合一般の市民で、お金も組織もない力の弱い存在です。つまり、メディア被害は大企業と個人が加害者と被害者になる構図になっており、この両者の落差を念頭に置いておかなければこの問題をきちんと考えることはできないのです。

メディア被害の実態

  メディア被害の実態としては、まず取材被害でのメディア・スクラムが上げられます。これは、多くのメディアが事件現場や関係者の所にどっと取材に押し寄せることで、場合によっては、巻き込まれた人が一時的に自宅を離れなければ日常生活すらできなくなることもあります。報道被害の方では、実名・顔写真や自宅が報道されて迷惑を被る、些細なことを大きく報道される、センセーショナルな報道をされる、事実と異なった報道がされるなどの被害があります。

  この典型的なのが「松本サリン事件」の河野さんのケースではないでしょうか。彼は、初め第一通報者として実名が報道され、その後、逮捕もされていないのに犯人であるかのような報道がされ、被害者であるのに脅迫や嫌がらせを受けました。彼の場合は翌年の地下鉄サリン事件で無実が明らかになったわけですが、それまでに受けた被害は実に大きいものでした。また、疑惑が晴れたとはいっても、現在でも彼が「オウム」と関わりがあると疑っている人は、全くないわけではないようです。

  このように報道の影響力は非常に大きく、最近の例では、鳥インフルエンザの問題で養鶏場の会長が自殺した事件について、地元では「マスコミが殺した」と言う人もあるようです。また、刑事事件の場合は、報道が裁判に影響して冤罪事件を生み出したり、量刑を左右する可能性も十分にあるといえます。特に、5年後には裁判員制度が導入され、一般市民が裁判に関わるようになるため、メディアも刑事事件の報道のあり方を再検討する必要があります。

メディア被害問題の推移と現状

  では、なぜこのようなメディア被害が発生するのでしょうか。それは、一部に「駄目な記者」がいるからではなく、メディアの構造的な問題があるからです。活字離れ、多チャンネル時代におけるシェアの奪い合いという競争から安易なセンセーショナリズムに流されている、テレビの場合は下請けプロダクションが安い制作費で買い叩かれている、週刊誌の場合はライターの研修の場がなく質がまちまちである、新聞の場合は警察など官側の情報に依存し過ぎている、警察取材が新人研修の場にされているなどの構造が、メディア被害の根底にあるのです。

  こういったメディア被害の問題は、決して最近だけに起こっている問題ではありません。かなり昔からある問題です。ただし、日本では、83年頃までは、

  メディア被害の問題は学者や専門家の間で議論はされていたものの、社会問題になるまでには至っていませんでした。しかし、84年頃以降、いわゆる「ロス疑惑」報道や浅野健一さんの著書『犯罪報道の犯罪』等をきっかけに、メディア批判が強くなり、これが社会問題化していきました。そして、90年代初めにかけて、被疑者を呼び捨てから「○○容疑者」と「容疑者」の呼称を付けるように変更する、微罪については匿名を増やす、顔写真の使用を減らす、裁判で無罪になった場合に容疑者を犯人視報道したことへのお詫びや再発防止のための検証報道を行うなどの改革が行われました。

  しかし、その後、94年の松本サリン事件や翌年の一連のオウム事件、さらには神戸少年事件や和歌山毒カレー事件などの社会的注目を集めた事件で再びセンセーショナルな集中豪雨的報道が繰り返され、報道の改革は後戻りしてしまいました。そして、そのような状況の中で、再び報道への批判が強まり、メディアの自己改革には期待できないという意見が出始め、それが法規制へとつながっていきました。

  そして、01年-02年にいわゆる「メディア規制三法案」が作られ、その一つの「個人情報保護法案」は、03年に一部修正がされて成立し、多くの問題点を残しながら既に法律になっています。人権擁護法案は、昨年自然廃案になり、今後どうなるかという状況にあります。そして、もう一つの有害なメディア情報からの青少年の保護を目的とした「青少年有害社会環境対策基本法案」は、基本法の部分とメディア規制に関する部分を切り離して、基本法の部分のみが「青少年健全育成基本法案」として議員立法でこの春に参議院に提出されています。これが成立すれば、メディア規制の部分が提出されるスケジュールになるのでしょう。

報道される側の権利と報道の自由

  では、私たちはこの問題をどのように捉え、またどのようにしてメディア被害を防いでいくのが望ましいのでしょうか。

  まず忘れてはならないのは、メディア被害者の人権と同様に、報道の自由も憲法で保障された非常に重要な権利であって、両者のバランスを保つことが大切だということです。報道被害をなくすことだけを考えて突っ走ると、権力によるメディアへの恣意的な規制を許してしまい、それによって、結局は、私たちにとって必要な情報も得られなくなります。何が報道の自由に含まれ、何が守られるべき人権・プライバシーなのかを明確にして、両者のバランスを保つ基準を設けなければなりません。しかし、これが非常に難しい問題なのです。

  現在の憲法理論では、表現・報道の自由は、市民が民主的な自治を行うために必要な情報を入手するための市民の「知る権利」のためのものとされ、民主主義社会の基礎をなす政治的権利として、他の権利よりも手厚い保護が必要な優越的権利と考えられています。しかし、優越的権利だからといって、市民の名誉やプライバシーを侵害しても常に許されるというわけではありません。なぜなら、優越的権利であっても、当然、限界はあるからです。メディアの人々は、この限界を十分に理解していないように見えます。

  先に述べたように、報道の自由は、市民が民主的な自治を行うのに必要な情報を入手する「知る権利」のためのものです。ですから、市民の「知る権利」と関係のない情報には、報道の自由の優越性は及びません。公人の場合は、その人の公的活動を評価・批判し、市民自治を行うために、氏名やプライバシーを含めて多くのことを知る必要がある場合があります。公人については、広い範囲で市民の「知る権利」が及ぶと考えられます。しかし、普通の私人の場合は、事件に関わりがあったとしても、市民自治のために知る必要があるのは事件の内容であって、その人の氏名やプライバシーではありません。そのような場合は、報道の自由が報道される人の権利に優越するわけではなく、報道の自由が引き下がらなければなりません。

メディア被害の救済・防止の方法

  以上のような考え方を前提にして、メディア被害の救済・防止システムを考えてみたいと思います。

  メディア被害の救済・防止の方法としては、まず法的規制があげられます。これは三つに分類できますが、最も厳しいのは、名誉毀損罪等で処罰する刑事的規制です。ただし、これは、効果も強い分、副作用も強いものです。刑罰で威嚇すれば、メディアが萎縮して、本来伝わるべき情報も伝わらなくなるおそれがあります。

  特別に悪質なものは別として、刑事的規制には賛成できません。次に、「メディア規制三法案」のような、行政機関や法的機関によって監視する行政的規制があります。しかし、これは、憲法が禁止する検閲になる場合もあり、メディアが権力の顔色を窺うようになるおそれもあるので、非常に問題です。そして、三つ目に、最近話題になった出版・報道の事前差し止めや、損害賠償による、民事的規制があります。ただ、事前差し止めは実質的には検閲と同じという問題があります。法的規制の中では、損害賠償が最も報道の自由に与える副作用の少ない無難な方法であると思います。

  しかし、実際には個人である被害者が大メディアを裁判で訴えるのは容易ではありません。そこで、求められるのが、メディア自身で問題を解決するための自律的な救済・防止システムです。私は、報道の自由を不当に制約せずに問題を解決するには、この方法が一番だと思っています。具体的には、取材・報道のルールを明確にした具体的・統一的な報道倫理綱領の策定と、それがきちんと守られているかをチェックするための報道評議会等の設立です。原則匿名報道も、メディアからは強い反発がありますが、先に述べたように報道の自由は普通の私人の氏名には及ばないので、是非導入すべきだと思います。

真のジャーナリズムの実現を

   初めに述べたように、現在、メディアは、危機的状況にあります。戦前のような権力による統制があっても、企業としてのメディアは生き残ることができます。しかし、民主主義は生き残ることができません。メディアの危機は知る権利の危機であって、結局は、私たち市民が被害を被ることになるのです。だからこそ今、市民の力で真のジャーナリズムの実現を求めていかなければならないのです。

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