講座・講演録

部落問題・人権問題にかかわる講座情報、講演録を各カテゴリー毎にまとめました。

Home講座・講演録>本文
2004.12.01
講座・講演録
(部落解放研究第37回全国集会講演より)
(『部落解放』2004年2月増刊号(530号)
「部落解放研究第37回全国集会報告書」、解放出版社)

阪神・淡路大震災と「虹の家」のとりくみ

八木俊介(あしなが育英会)

五百七十三人の震災遺児

「あしなが育英会」は、親を亡くした高校生や大学生に奨学金を出したり、心のケアのプログラムを提供する活動をしています。全国に約四千名の奨学金を受けている高校生や大学生がいます。全国三万人のご支援を得て、毎年千名から二千名が進学を果たしています。あしなが育英会の事務所は東京でしたが、一九九五年の阪神・淡路大震災のあと、職員が神戸に残り、神戸事務所を設けたり、その四年後には「虹の家」(レインボーハウス)を建てたりしました。

阪神・淡路大震災では六千四百三十三名の人が亡くなりました。子どもたちを相手に仕事をしていますと、たくさんの方が亡くなった場合、残された子どもたちはどうしているのか、ということが、まずは心配なことの一つでした。私たちは新聞の死亡者名簿を片手に一軒一軒訪ねて、亡くなった方にお子さんはいませんでしたかと、聞いて回りました。避難所や疎開先にも回って、五百七十三人の震災遺児がいることがわかりました。

震災遺児の心の傷

震災遺児というのは奇跡的に生き残った子どもたちです。親といっしょに寝ていて被災したわけですから、他の遺児と違って、親の最後の瞬間を見てしまったり、親の変わり果てた姿を見たりといった体験をしています。くわえて、子どもたち自身も家屋の下敷きになったり、何時間も生き埋めになったりして、自分も死んでしまうのではないかという体験をし、心に大きな傷を背負っています。

震災のことを今でも忘れないという子がたくさんいます。忘れられないというのではなく、身体にしみついているのです。たとえばトラックが家の前を通ると、その揺れに反応したり、狭いところや暗いところに行けないという子、たとえば映画館に行けない、電気をつけていないと眠れない、エレベーターに一人で乗れない、トイレのドアは開けっ放しにしているという子がたくさんいます。また、突然地震のことを思い出して涙が出てきたり、混乱してきたり、あるいは地震の夢を見たり、怖い夢を見たりといった、地震が忘れられないという子がたくさんいます。

また、地震で親を目の前で亡くしたものですから、刹那的な考え方をもったり、生きることへの不安感、人間は簡単に死んでしまうものだというはかなさ、といった感覚から、勉強に手がつかない、やる気が起きない、無気力になるといったこともあります。

あるいは、親は自分のせいで死んだのではないかという罪悪感をもつ子もいます。地震が起きた瞬間、おとうさんやおかあさんが、子どもの上に覆いかぶさって、その上に屋根や梁が落ちてきた。そのようにして助けられたものだから、自分のことを守っておとうさんは死んだ、自分のかわりにおかあさんは死んだんだという子がたくさんいます。なかには、おかあさんが覆いかぶさってきて、初めのうちは話ができたけれども、だんだんおかあさんの声が聞こえなくなって、冷たくなっていくのが背中でわかったということを語る子もいます。

また、地震の前日の一月十六日におかあさんにひどく叱られたという子がいます。その子は十六日の夜に、「そんなに叱るおかあさんなんか死んでしまえばいいのに」と思って、泣きながら寝た。するとほんとにおかあさんが死んでしまった。「おかあさんなんか死んだらいいのにと思ったから、おかあさんは死んでしまったのではないか」と、ずいぶん長い間悩んでいた子もいます。

また、ある高校生の女の子は、十七日の朝にクラブの練習があるから朝早く起こしてと頼んだので、おかあさんが十七日の朝、五時半ごろに起こしてくれた。でも眠くてすぐに起きなかった。おかあさんは、「しょうがないわね」と言いながら、台所で朝食の準備をしていたら地震が起きて、おかあさんが台所で下敷きになって亡くなってしまった。その子はいま社会人になっていますが、いまでも、「あのときすぐに起きてクラブに行けばよかった。そうすればおかあさんはこんなことにならなかったのではないか」と、悔やむ気持ちをもっています。

自殺願望をもっている子もいます。中学生の女の子で「私は死にたい」と書く女の子がいました。その子は地震で両親を亡くし、祖母が引き取って育てていました。カゼを引いたとき、祖母がカゼ薬を飲みなさいとすすめましたが、「私は薬を飲まない、治らないで死んでしまって、早くおとうさん、おかあさんのところへ行きたい」と言うのです。

「虹の家」のとりくみ

震災遺児は、阪神間に散らばっていて、自分と同じように震災で親を亡くした子どもがまわりにいない、という問題があります。そのために震災遺児は、自分たちだけがこんなに不幸なのではないかと、孤立感をもっています。地震にあった子はたくさんいても、地震で親を亡くした子は学校の友達にはいない。地震で親を亡くしたことを言ってしまうと、自分がかわいそうな人間なのではないかと思ってしまって、なかなか自分が震災遺児だとは言えない。

そんな心の傷をもった子どもたちに、「虹の家」、レインボーハウスでは、二つのことをしています。一つは、子どもたちが思っていること、感じていることを、好きなように表現するということです。小さな子なら、模型を使って地震ごっこをしたり、砂場に人形を埋めて、お葬式ごっこをします。家や学校なら、「そんな気持ち悪いことはしてはいけない」と止められるようなことでも、子どもが表現したいことを表現する。お葬式に参加したときに、こう思った、たとえばお葬式に参加したくなかったとか、お葬式のときはたくさんの人が来て楽しかった、といった、さまざまな感情を表に出し、それをボランティアの大人たちがしっかり受けとめるということをしたい。

レインボーハウスには、そのように子どもたちが模型を使ったり、砂場で遊んだりする部屋以外にも、サンドバッグを叩いて暴れる部屋、「火山の部屋」と言いますが、火山が噴出すように感情を吐き出してもいいという部屋があります。そこで子どもたちは、ストレスを発散する。他人を傷つけたいとか、人を殺したいという感情もはきだすことができます。

子どもたちのなかには、憎しみの気持ちもあります。レインボーハウスには、いまは震災遺児しかいませんが、今後、たとえば犯罪によって親を亡くした子どもたちも来ると思います。その子たちは自分の親を殺した犯人を殺してやりたいと言い出すかもしれない。人を殺すのは、もちろんいけないことですが、でも人を殺したいという気持ちさえも、一度は受けとめる。そして、ゆっくり時間をかけて、それはしてはいけないことだと理解させるということも必要だと思います。

いろんな気持ちを絵にかき、暴れ、ごっこ遊びをすることで表現して、中学生、高校生、大学生になれば、言葉で表現できるようにしていく。レインボーハウスはそれらの表現で受けとめる場所でありたいと思っています。

震災遺児同士のつながりを

もう一つのレインボーハウスの役割は、震災遺児同士が仲間になる、家族のようになることです。孤立感をもっている震災遺児を、学校や地域をこえてレインボーハウスに集め、一人ではないということを、身体でわかってもらうようにすることです。子どもたちには、家庭で言えないことがたくさんあります。生き残った家族には言えないようなことをたくさんかかえています。学校の友達にも言えないことがあります。それをレインボーハウスに来て、同じように、おとうさん、おかあさんがいない子どもたち同士が仲良くなって、その子たちしかわからない話をして、仲間をつくる、これからもいっしょに生きていく。遺児同士が、それぞれ、おにいさんがわり、おねえさんがわり、父親がわり、母親がわりをして、家や学校では味わえないものをレインボーハウスで味わうことができればと思っています。

震災でおとうさんを亡くした西本大智くんに自分史を語ってもらいたいと思います。西本くんはいま大学二年生、地震のときは小学校五年生でした。彼はいま弟と妹、おかあさんと暮らしています。彼のようにがんばってボランティアをしてくれたり、海外の遺児の面倒を見てくれたりする子どももいます。

しかし、まだ立ち直れない子も多い。中学校を卒業しても進学せず、働かずにぶらぶらしていたりします。亡くなった親が生きていれば学校に行っていたんだろうなと思う子が、たくさんいます。ぜひ、これからも震災遺児のことを思い出していただきたいと思いますし、また、事故や事件、あるいは身近で若くして病気で亡くなった人を知られたりしたときには、残された子どもたちのことを想像していただき、あしなが育英会のことを思い出していただければと思います。


[仲間に支えられて]

(あしなが育英会大学生ボランティア・震災遺児)

地震が起きたとき、ゴゴーというすごい音がしたので危険だと思って、ふとんを頭からかぶり、気がついたら埋まっていました。

身体が動かず、目の前がまっくらで、何がなんだかわかりませんでした。弟と妹は大丈夫かなと思って声をかけたら、二人とも大丈夫でした。

近所の人が瓦礫をかきわけて、ぼくと弟と妹の三人を助け出してくれたんですが、父は大黒柱にはさまれて死んだと聞きました。母は、新聞配達の仕事で家を出ていました。記憶があいまいで、母から聞いた話ですが、父は救急車が来れなくて、消防車で運ばれたとか、妹と弟とぼくが助かったのは奇跡のようで、倒れた箪笥と箪笥の間に空間ができていたからだということでした。

震災のことが身体にしみついて忘れられないという八木さんの話がありましたが、ぼくの場合は、木の匂いです。崩れた家の木の匂いが残っていて、その匂いをかぐと涙が出て、いまでもたぶん動揺すると思います。

家のまわりも完全に変わってしまったし、父もいなくなってしまった。なんだか、父を残して、ぼくたち家族がどこかに引っ越してしまったような感じです。

そんなときに、あしなが育英会からキャンプに来ないかという話がありました。香住に海水浴に行って、楽しかったことだけ覚えています。スキーに行ったときに、八木さんに怒られたのを覚えています。理由は覚えていないのですが、いままで本気に怒られたのは、おとうさんに怒られたのが一回しかない。それで八木さんに怒られて、悔しくて泣きましたが、うれしかったという気持ちもありました。

レインボーハウスが建って、ぼくのところからは少し遠いのであまり行けなかったのですが、行ってみると、学生寮に病気や災害で親を亡くした大学生の人たちが住んでいて、話も聞いてくれるし、居心地のいい場所だというのを身をもって経験しました。キャンプのときも大学生の人がリーダー的な役割で、班に入ってくれます。

ほかの人の話を聞いたりすると、同じように感じているのだなと思って安心したりしました。親を亡くしたことを人に言うと、何か違った目で見られるだろうとか、変に気をつかわれたりするのではないかと思ってなかなか言えませんでした。学校の友達にもなかなか話せないことがありますが、レインボーハウスやキャンプでは、みんながそうだから、あえて言わなくてもわかってくれます。

いまぼくは大学生で、あしなが育英会で募金活動を手伝っています。いっしょにやっている仲間というのが、ぼくにとって、かけがえのないもので、みんながいるから募金ができるし、みんながいるからキャンプで楽しくやっていけると思いました。

レインボーハウスに行くと、ものごとをすごく前向きに考えられるんです。みんなが一生懸命やっていけるのはあしなが育英会の支えがあったからです。ぼくは、あしなが育英会に感謝しています。恩返しをしたいと思っています。

著書