大阪の部落史委員会(上田正昭委員長)は、1995年から全十巻の計画で『大阪の部落史』の編集作業を進めている。2004年3月には
第六巻(史料編・近代3)が発刊され、現代二巻の史料編に続き、近代三巻の史料編が出そろった(部落解放・人権研究所発行、解放出版社発売)。近代の編集を担当されている北崎豊二さんに、
第四巻(史料編・近代1)を中心に『大阪の部落史』史料編・近代の内容、特徴などについてうかがった。(編集部)
■大阪府域を総合的に
−『大阪の部落史』は、どのような編集方針のもとに作業が進められているのですか。
北崎 全国を対象にした「部落史」は、通史もさまざまにつくられているし、渡部徹・秋定嘉和編『部落問題・水平運動資料集成』や原田伴彦・渡部徹・秋定嘉和監修『近代部落史資料集成』(ともに三一書房)などのように、資料集も出ています。一方、大阪府内でも、それぞれの被差別部落の地元でその地域の「部落史」はさかんに編纂(へんさん)されています。しかし、大阪府全体を包括した「部落史」は、『大阪の部落史』の準備作業の一環として発行された『新修・大阪の部落史』(上・下、解放出版社)以外はありませんでした。
『大阪の部落史』はそれをやろうとしているわけです。大阪府として「部落史」をまとめていくと、これまで明らかにされてきた地元の動きと大阪府全体の動きが重ね合わされて、さらに理解が進むと思います。これは近代においてはとくに大事です。
もうひとつは、部落史の研究といっても、これまでは部落解放運動史や同和教育史、同和事業史というふうに、縦割りで行われていました。大阪府レベルでも、そういう通史や資料集はありました。
それに対して『大阪の部落史』は、それぞれの時代を総合的に、トータルに見ていこうとしています。したがって、対象領域も、運動だけでなく、部落の実態、行政、事業、教育、芸能・思想、宗教などを設定し、時代の全体像をっかむ努力をしています。ここに『大阪の部落史』の特徴があると思います。
−史料の収集はどのようにされたのですか。
北崎 近代についていうと、『大阪の部落史』の編集作業が始まるまでにも、秋定嘉和先生らが収集されてきた史料の中に、大阪の史料も一部はありました。しかし、基本的には、どこにどんな史料があるのかわからないという状態から出発しています。また、大阪府内の各自治体で、部落のあるところでは自治体史の編纂作業のなかで部落問題関係の史料も集めておられましたが、それが把握されていませんでした。それで、大阪市史編纂所をはじめとする各自治体の市史編纂室から史料の提供を受けましたし、大阪府立・大阪市立の公文書館や図書館、それに西本願寺などの史料も調査して、関係史料を収集しました。また、朝日新聞や毎日新聞、大阪時事新報など大阪で発行されていた新聞や雑誌から、編集委員会事務局の方が関係記事を拾ってくださいました。こうして、膨大な史料を収集することができましたが、史料集に掲載できたのはその一部にすぎません。
■「五カ条の誓文」の役割
−先生は、近代のなかでも第四巻(近代1)を主に担当されましたね。
北崎 四、五、六巻が近代の史料編になります。そのうち第四巻が対象とした時期は、1868(明治元)年から1922(大正2)年まで、つまり、明治政府の成立から大阪府が救済事業に本格的に着手する時期までです。
では、なぜ1868年から始めて、「解放令」が出された1871(明治4)年から始めなかったのか。これについては編集委員会でも議論がありました。しかし、私は1868年説を強く主張しました。というのは、これは「五カ条の誓文」に関係します。ご存じのように「五カ条の誓文」は、明治天皇が維新政府の基本方針を天地神明に誓うという形式で公表したもので、その中に「旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ、天地ノ公道二基クベシ」という条項があります。これがその後の部落問題の展開にかなりの影響を与えていると思われます。
たとえば、1914(大正3)年に帝国公道会という融和団体ができますが、この「公道」という名称は「五カ条の誓文」からきていますし、融和団体が1930(昭和5)年以降、「国民融和日」を「五カ条の誓文」が出された3月14日に設定しています。つまり、運動の側も「五カ条の誓文」を重視していたということです。
また、大阪府が、「解放令」が出された直後に「解放令」に関する諭告(ゆこく)を出していますが、ここでも「五カ条の誓文」の「旧来ノ陋習ヲ破リ……」をその説明に使っています。実際、この「旧来ノ陋習ヲ破リ……」が、明治元年以降、部落問題の分野だけでなく、さまざまなところで、封建的なものを否定し、近代化政策を推進するために使われているのです。
そして、このことが、部落の運動のなかでもまさに諸刃(もろは)の剣(つるぎ)として機能することになります。一方で、明治天皇は開明君主だというかたちで、天皇にすがる傾向を強めることになり、他方で、「差別は天皇のご意志に反する」というかたちで、部落差別への批判を有利に進められたということです。
したがって、「五カ条の誓文」を無視してはいけないという理由で、「近代1」の時代区分を1868年から始めたわけです。
■「非人番」のその後
−「近代1」にはどんな特徴・内容があるのでしょうか。
北崎 特徴のひとつは、対象として、被差別部落の問題だけでなく、かつて「非人」や「乞食」といわれた人たちもとりあげましたし、スラムに関するルポルタージュなども紹介しました。また、「近代1」ではなく、あとの巻になりますが、在日朝鮮人の問題もとりあげ、在日朝鮮人と被差別部落のあいだの競合と共生の関係などを明らかにする史料も入っています。
行政を扱った「地方行政のなかの部落」の章では、江戸時代の「非人」「乞食」「非人番(ひにんばん)」などが近代に入ってどうなったか、それを追いかける史料を紹介しています。私は「非人番」に関心をもっていますが、「非人番」というの一は、江戸時代、まさに警察の下部組織のようなものでした。大坂では、「四ヶ所(しかしょ)」の「長吏(ちょうり)」のもとに、数カ村から数十カ村を支配する「小頭(こがしら)」がいて、そのもとに「非人番」がそれぞれの村にいました。もっとも、なかには一人の「非人番」で小さい村数カ村を担当するということもありました。
「非人番」は村抱えですが、給米などの一部を「非人番」は「小頭」に、「小頭」はさらに「長吏」に上納するという関係になっていました。
近代に入っても、この組織はすぐには廃止されません。1871(明治4)年ごろまでは支配が錯綜(さくそう)していてややこしいんですが、「四ヶ所」の「長吏」を支配していた大坂町奉行が廃止されると、「小頭」や「非人番」を藩とか大阪府が任命したりしている史料が最近、発見されています。「解放令」後、「非人番」はなくなっていきますが、しばらくは「廻リ方(まわりかた)」と名前を変えて存続します。おもしろいのは、この「廻リ方」が、江戸時代と同じように村抱えで、村が給料を負担していて、そのうえ、給料の一部を府に上納していることです。その後、これが「番人」に変わり、さらに「邏卒(らそつ)」になっていきます。のちの「巡査」ですね。
そんななかで、かつての「非人番」の人たちは完全にその仕事を失っていくのかというと、そうではなく、一部は警察に「雇い」として雇われ、江戸時代のように探偵の役割を担いました。これが明治20(1887)年ごろまで続きます。中には、かつての「小頭」クラスの人で警察署長になった人もいます。そんな史料の一部もここで紹介しています。
■辛未戸籍
北崎 明治政府になって戸籍が作られます。1871(明治4)年の戸籍法にもとづいて1872(明治5)年に全国的に編製された壬申(じんしん)戸籍が有名ですが、堺県(泉州、河内)はそれ以前、1871(明治4)年に辛未(しんぴ)戸籍を編製しています。これは、1869(明治2)年に政府が「府県施政順序」という法律で「戸籍の編制」を府県に命じていたからです。ただ、「府県施政順序」には実施時期が定められていませんでしたから、編製したところとしていないところがあります。堺県の辛未戸籍について、その「編製規則」と雛形(ひながた)の一部、具体的には「非人番戸籍」「穢多(えた)戸籍」「小家住非人戸籍」の雛形を掲載しました。この辛未戸籍には、それぞれの者が所有している土地、家、財産なども詳しく書いてあります。
壬申戸籍は、差別的な記載があるということで、1968(昭和43)年、閲覧が禁止され法務局で保管されていますし、辛未戸籍はあまり知られていませんので、両者を混同している人もいるようですが、その違いは雛形を見ていただくだけでもわかると思います。
それから、財政関係の史料にも注意を払いました。従来、運動史関係の史料はそれなりに集められ、研究されてきましたが、村(被差別部落)の財政がどうなっていたかという研究はほとんどやられてきませんでした。財政の知識がないと、財政関係の史料を見てもわかりませんし、また、財政関係の史料そのものがあまり残っていないという問題があったからです。しかし、これをやらないと、村の状況をほんとうに把握したことにはなりません。史料集には、南王子(みなみおうじ)村(現和泉市内)の1884(明治17)年度の決算書と89(明治22)年度の予算書、西浜(にしはま)町(現大阪市内)の1901(明治34)年度の決算書を載せていますが、今回、集めた財政関係の史料を地方財政を研究している人に丁寧に分析してもらえば、いろんなことが出てくるのではないかと思っています。
■町村合併と部落
北崎 明治になると、近代的地方制度を模索して町村合併が繰り返されます。これにかかわる史料は「町村合併と部落」という一章を立てて紹介しています。
江戸時代、本村に従属する枝郷(えだごう)である場合がほとんどだった被差別部落は、明治初期には一村独立への気概を強くもっていました。
南王子村は、近世からすでに一村独立でやってきていて、1870(明治3)年、堺県から隣接する王子村との合併を命じられますが、南王子村の住民はこれに反対し、存続運動を展開して、独立村として存続します。この間の経緯は、盛田嘉徳・岡本良一・森杉夫『ある被差別部落の歴史-和泉国南王子村』(岩波新書)に描かれています。
ところが、被差別部落の一村独立は、やがて財政問題によって行き詰まっていきます。学制が公布されて、村が自分のお金で小学校を設置・運営するようになりますが、これにかかる教育費が村財政で非常に大きなウエートを占めて、一村で存立することがむずかしくなったわけです。たとえば南王子村では、1889年度の予算書によれば、教育費が予算全体の34パーセントを占めています。
その後、1929(昭和4)年、南王子村は、逆に隣村の伯太(はかた)村・信太(しのだ)村との合併を府に要望しますが、結局、南王子村の住民が一部移り住んでいた伯太村の土地を南王子村に村域変更することとなり、合併そのものは拒否されました。この史料は第六巻(近代3)に入っています。
それから、栄(さかえ)町他九カ村(旧渡辺村、のちの西浜町)の西成(にしなり)郡への編入問題(1879=明治11年)と、その後の大阪市中への編入運動の史料も入れています。これらの動きはよく知られていますが、その後、1897(明治30)年にあった、西浜町など二十八カ町村の大阪市中への編入問題はあまり知られていません。この史料もとりあげました。大阪市はこの編入を推進するために機密費を三千円も公然と予算化しています。
なぜ大阪市は、一度は郡部へ放り出したものをふたたび編入しようとしたのか。また、それがどういうかたちで編入されたのか。これらが問題になります。
市域拡張のひとつの理由は、都市の膨張です。大阪は、江戸時代でも完全に商業都市だったかというとそうではなく、搗米屋(つきごめや)、絞油屋などのほか、さまざまな製造業者も存在し、産業都市でもありました。しかし、近代に入って、明治20年代から30年代にかけて、近代的な工場が市中およびその周辺に次々でき、大きく変化してきます。そして、工場の立地や、そこに働く労働者たちが住むところも、大阪市の周辺部に広がって、衛生問題や住宅問題など、市にとっても深刻な問題が発生してきました。これに対応するということです。
しかし、いちばん大きいのは、やはり築港の問題です。大阪市が繁栄するためにはちゃんとした独自の築港施設が不可欠でしたが、当時の市域のままでは、港が市外の西成郡になってしまうので、なんとしても大阪市に編入する必要があったということです。当然、編入するにあたって、部落だけを避けることは、衛生問題や道路の問題などを考えても、不可能です。西浜町が大阪市に提示した編入の条件とかそれに対する大阪市の返事などもふくめ、この編入関係の史料をかなり入れましたので、これを分析すれば、当時の大阪市の事惰、それから、編入される側の西浜町の実態などもわかるのではないかと思います。
■仕事と生活の変化
−大阪では、部落の生活実態は、近代に入ってどのように変化したのでしょうか。奈良や京都では、とくに松方デフレ(1880年代)以降、部落の貧困化が進んだといわれていますが。
北崎 それは一概にはいいにくいと思います。たしかに江戸時代に部落が特権としてやっていた仕事が剥奪(はくだつ)されていったことは間違いありません。そういう史料は「仕事と生活の変化」の章に収められています。ここは小林丈広さんが担当されて、解説にも書かれています、「解放令以後、在来産業を維持できたのは、西浜町の皮革業、南王子村の履物業(下駄表づくり)などごくわずかであった」と。
皮革にしても、大倉組が軍靴に参入するなど、いままで部落の人がやっていた仕事に財閥が手を出してくると、もう太刀打ちできません。しかし、一方では、そこに雇われていっている可能性も否定できません。西浜町の皮革業もだんだんと衰退してきますが、明治期には皮革で富豪になった人もまだ出ています。たとえば竹田由松という人は、仏教大学(現龍谷大学)に図書館建設の工費三万円を寄付しています。この史料は宗教を扱った「ゆるぎない信仰」の章に入れています。
ですから、貧困化の問題は、もう少し掘り下げてみる必要があると思います。
■自由民権運動と部落
北崎「芸能と新思想」の章では、自由民権運動期の政党である大阪自由党の機関誌『文明雑誌』に掲載された「進路ノ荊棘(けいきょく)」(1882=明治15=年)という評論を載せました。自由民権運動と部落問題にかかわるものとしては、『東雲(しののめ)新聞」に掲載された中江兆民(なかえちょうみん)の「新民世界」(1888=明治21=年)が有名ですが、この「進路ノ荊棘」は、それより時期も早いし、非常に過激でおもしろいんです。ただ、筆者はわかりません。
「君主モ人類ナリ、穢多モ人類ナリ。同ク心身ヲ備へ斉(ひとし)ク自由ヲ有シ彼此人種ト権理ヲ異ニセス」と言っていて、「吾(わが)儕(せい)ハ政府ヲ○○スルノ一途アルヲ知ルナリ」と、明治政府の転覆を主張しています。「○○」を「転覆」と読んだのは実は裁判官で、この評論の掲載によって『文明雑誌』の編集長・門野又蔵は、刑法の不敬罪と新聞紙条例違反のかどで重禁固一年の刑を受けています。この裁判記録も「自由と平等をめざして」の章に載せました。
この大阪自由党には、森清五郎ら、西浜町の人々が参加しています。やはり富裕層が多かったと思いますが、「穢多モ人類ナリ」というような姿勢に共鳴したのでしょうね。森らは、1890(明治23)年、最初の衆議院選挙に際して「南摂同志会」というクラブをつくって運動し、中江兆民を当選させています。
豊島郡吉江村(現池田市内)の森秀次(もりしゅうじ)(大阪府会議員、衆議院議員などを歴任)に関する史料も、新しい毛のを入れました。たとえば、1891(明治24)年、彼が府会議員候補になった際、部落出身なのになぜ候補にしたのかと中傷されるという差別事件が起こりますが、これについてもさらに詳しく理解できる史料が新たに出てきました。
■ここから研究を広げて
北崎 「近代1」の史料集の一部を紹介しましたが、ぜひ実際に三巻にわたる近代の史料集を手に取って、個々の史料に当たっていただきたいと思います。史料は多角的な視点で集めましたから、大阪の近代の部落史を総合的に研究しうる条件が整ったんじゃないかと思います。もちろん、史料集に収めた史料は収集した史料のほんの一部にすぎませんが、これを手がかりにして、ここから研究を広げていっていただけると思います。
そういう意味では、今後、収集してきた史料を研究者や一般の方々にどのように公開していくのか、近現代の史料の公開には、プライバシーなど、さまざまな困難な問題がありますが、これを検討していくことが課題になってくると思います。
−ありがとうございました。