はじめに
2003年、和歌山の水平社は創立から80年を迎えてその総括もふまえながらの話をしたいと思います。1871年に「解放令」が出されてから、和歌山県内では解放令反対一揆は起きていません。ただし有田や日高など紀中地方で解放令の日延べ(延期)を求める請願運動が役所の官吏を中心に起きたという記録は残っています。また、平民と同等たるべしという解放令を受けて被差別部落民に集団で「禊(みそぎ)」や御祓いを受けさせたという記録も残っています。
岡本弥と融和運動
和歌山の同和(融和)運動の歴史を語るときに岡本弥という人物の存在は欠かせません。彼は、若い頃から部落の経済的自立や教育の重要性を訴える活動をしていました。中でも水平社創立以前に起きた日本赤十字社の差別事件や浄土真宗本願寺派の布教使が部落外の住民に対して部落の住民を「陰獣」と例えた上で、普請と信心を説いた差別事件に対して厳しく抗議しています。水平社と部落解放運動における糾弾は、差別事件に対してそれが起きてくる要因や背景に迫っていく、またその事件をきっかけに組織の体質まで追及していくという戦術をとってきました。彼の行動は、糾弾という視点でいえば、弱さを持っているものの水平社創立以前の差別が大変厳しい時代にあって、抗議行動を徹底的にやった岡本はやはり先覚者として評価していいのではないかと思います。
部落改善運動
明治の終わりの頃の話ですが、ある日、子どもが亡くなりました。そして、警察官と監察医が村に入り、死因を「伝染病」としました。前にも村人が死んだ際に「伝染病」だとされて検疫のために住民は村から一歩も出ることができない状態になりました。行商や日雇い労働で生計を立てている人は往来を禁止されて大変困ったのですが、数日後「伝染病」の判断が誤りだったことが分かります。
この一件で怒っていた村人は、またしても子どもが「伝染病」と言われて抗議しました。村から一歩も外に出られないことは死活問題だからです。この抗議に対して警察官はサーベルを抜き、村人を斬りつけて警察署に逃げ帰り「暴動だ」と歪曲した報告をしました。警察は騒擾事件だとして署員を総動員し、たくさんの村人が逮捕され裁判の結果、全員が有罪になります。しかも有罪の理由は「共同謀議の上、扇動」した「残忍な不心得者」だと決めつけたものでした。そして当時の新聞は、部落の住民のことを「陰獣のごとき存在」だとした上で警察官のとった行動を支持しました。
このように当時の社会では部落を予断と偏見に満ちた目で見る風潮が公然とまかり通っていたのです。こうした中で行政が、部落民を「矯正」していくという考えに基づく「部落改善運動」が行われていきます。町内をきれいにする、きれいな服を着る、風呂に入るなど衛生や風紀を改善しなさいと指導します。中でも税金を納めなさいという指導が一番きつかったそうです。行政と警察によって和歌山県内の部落に部落改善のための「矯正」組織が作られていきます。この取り組みがどうなったかというと、部落を改善するのは理屈では分かるけれど現実の生活からすると到底無理なわけです。仕事に毎日行きなさいと言われても仕事が毎日あるわけではありません。子どもも含めて総出で働かなければ食べていけない現実があるのです。もっと問題なのは、さきほどの岡本が指摘した「部落にばかり更正を求めてもだめだ。部落を受け入れない周辺住民の意識の問題があるではないか」ということでした。
大逆事件と米騒動
1910(明治43)年に起きた大逆事件では和歌山のいわゆる熊野グループも逮捕されました。熊野グループとは大石誠之助をはじめとした社会主義団のことです。和歌山県内の部落はだいたい田辺辺りまでは浄土真宗本願寺派で新宮にいくと真宗大谷派が多いです。記録をたどっていくと、そうした寺において部落の子どもたちに勉強を教えたり、娼婦廃止の運動に取り組んだという記録が残っています。また、米騒動についてですが、和歌山ではそれほど起きていません。一説には騒ぎを聞きつけた米屋や地主が、騒動が起きる前に米の安売りを始めたからだといいます。しかし、岸上村では米の価格差をめぐって騒動が起き、その責任として村から2人の死刑囚が出ます。後ほど調べるとその2人が騒動に関与したという証拠はまったく出てきません。今から考えると、死刑は見せしめのためだったと思えます。
和歌山県水平社結成前夜
紀伊毎日新聞への投書
米騒動以降、全国の部落の中では奈良の燕会や九州の松本治一郎などをはじめとして様々な動きが出てきます。和歌山では、1918年に紀伊毎日新聞に1つの投書が載ります。投書には「俺らはまず平等な人格的存在権、平等な生存権を社会に向かって要求するのだ。俺らは今日まで奪われてきたものを奪い返さなければならないのだ。暴動がいけないのなら他の正当な方法をきかしてくれ、正当な方法による要求を容れてくれ(概略)」と書かれていました。この投書はさらに次の投書を呼びました。この投書の頃には、和歌山でも青年を中心として様々な勉強会や互助会ができ、このメンバーたちがやがて和歌山県水平社の原動力につながります。1922年の水平社創立大会にも和歌山県の活動家が参加し、各地に水平社ができていきます。この頃衆議院議員の田淵豊吉が華族会館で差別発言をしました。田淵は部落差別撤廃を訴えて当選した議員でしたから部落住民の怒りはすさまじいものでした。こうした中でついに1923年5月17日に和歌山県水平社が結成されます。
和歌山県水平社の結成
この5月17日というのは、「和歌祭り」という紀州徳川家を奉る祭りがある日です。大会は和歌山城のそばで開かれ、「徳川氏の爵位返還」を求める決議をして、申し入れに行くなど徳川氏への抗議をしっかり意識してやっています。和歌山県水平社はその活動としてあちらこちらで演説会を開いています。和歌山で60年史を作ったときに当時の活動をしていた方に話を聞きました。和歌山弁で「かたげの若い衆」という言葉があるそうで、なかなか糾弾会に来ない若者をふとんごと会場に運び込んで参加させたというエピソードからです。
結成以後の歩み
当時、「労・農・水」の結合と連帯といういわゆる「第2期運動」が謳われていました。労働闘争や小作争議への共闘を水平運動の柱にしていくという考え方です。1925年の第3回大会では、高橋、道浦、筒井といった和歌山県水平社の中心メンバーが「それは目指すべき水平運動と違うのではないか」と言って激論になりました。この方針をめぐる意見対立は以後も続き、大会が開催できないという事態にまで発展します。
さて、この第3回大会では「寺院を解放せよ」という決議が提案されています。部落内の寺を集会所として貸して欲しいのに貸してくれないというのです。ただ単に貸さないのではなくてその部落には寺が2つあって貧しい村の中でも随一のお金持ちです。そのお寺が自分たちの要求を聞き入れてくれないのです。しかも態度がきつくなって「なんで寺を攻撃するような水平社に貸さないといけないのか」と言ってきました。この寺側の態度に憤慨した部落の檀家は7割方離脱して、近くの別の寺や本山にまで相談に行きます。しかし、請け合ってもらえずにやっと京都の浄土真宗の興正寺というお寺から布教師を送ってもらえることになりました。紆余曲折があって、最後には自分たちでお寺を創ろうということで、当時は水平本願寺ともいいましたがお寺を創ります。
この間、沖野々事件など数多くの差別事件がおきて糾弾が展開されていくわけですが、なかなか差別がなくなりません。そうすると鬱憤(うっぷん)もたまってくるし、一方で生活のしんどさは変わらない。互助会や生協のような自助組織はできてはいるのですが、なかなか全体に広がっていかない時期なのです。こうした中で少しずつ戦争の足音も近づいてきて、多くの水平社が自然消滅してしまいます。
部落解放運動の再生
戦前の和歌山の部落解放運動は1947年の海南での会議にはじまります。水平運動や融和運動の活動家が集まって「自由新生同盟」が結成されますが、実質的な活動ができません。部落解放委員会への結集はその2年後の1949年になります。
責善教育運動
1947年に「二・一ゼネスト」をめぐる和歌山県教職員組合の議論の中である役員が「このゼネストを一部少数同胞も支持している」という発言をし、同席した役員から差別だと指摘されました。これをきっかけに組合内に「責善部」が置かれます。1950年に白崎小学校、ここは部落の学校ではないのですが生徒による差別発言が起きました。これに対して校長が責善教育を徹底しようとしたところ、住民が反発して校長の解職を求め同盟休校をするという事件がおきました。県が収拾に乗り出しましたが結局この校長を窮地から救うことはできませんでした。
また、この頃紀南地方を中心に、県の厚生嘱託員をしていた人たちが中心になって「人権尊重推進委員会」という組織ができます。紀南地方は戦前からの水平社の活動家である栗栖七郎の影響下にある地域で、そういう意味では独自に取り組みがされていたところだと思います。
西川県議差別事件と大水害
1952年2月27日に県内で防波堤工事の竣工を祝う式典が行われ、この時、県会議員西川ヒロシが自分が招待されなかったことに腹を立て、招待されていた部落出身の県会議員松本計一を挙げながら「水平社と一体となっている。エッタボシとグルになりやがって」とがなり立てました。この事件を重大に受け止めた部落解放委員会は、「糾弾共同闘争委員会」を作って激しく糾弾しています。
和歌山県は、先ほどの厚生嘱託員制度のように戦後早くから部落問題に取り組んできた先進的な行政でした。それなのに県会議員がそのようなひどい差別発言をするとは何事だという部落の怒りと新憲法になったのに少しも変わらない劣悪な実態がこの糾弾闘争を盛り上げていったのだと思います。この闘いは、同盟休校や請願書の提出などに広がっていきますが、一方で湯浅町、由良町、御坊市などでは警察が糾弾闘争の指導者を拘束して連行するというひどい事件も起きています。そして、西川県議は一度は辞表を提出しますが次の選挙で再選を果たします。
しかし、この西川県議差別事件は、和歌山県として部落問題に改めてしっかりと取り組もうと自覚させた事件でした。
未曽有の大水害
翌1953年7月の集中豪雨によって日高・有田地方が大水害に見舞われました。特に地方の部落は壊滅的な打撃を受けます。部落解放委員会は組織を挙げ労働組合などと一緒になって救援活動に取り組みますが、「責善教育」にとらわれている県教組はそれとこれとは別だと言って積極的に参加しようとしません。県教組は、学校に来れば勉強は教えますと言います。学校に来たくても来れない子どもの事やその子の家庭の生活のことは考えないわけです。
勤務評定反対闘争
1957年に和歌山県議会で教育長が勤務評定を実施すると発言し、県教組は部落解放同盟に反対闘争への参加を呼びかけました。「勤務評定は部落差別を助長する」という理由からでした。しかし、表向きの理由はそうであっても、闘争に伴う様々なトラブルの矢面に立たせるために利用された一面もあります。事実この闘いは、県側の分断、懐柔攻撃も相まって逮捕者も続出する大変厳しい闘いになりました。結果、この勤評闘争以降、部落解放運動の勢いは急速に低下していきます。
部落解放運動の低迷と混乱
和歌山の部落解放運動は、西川県議差別事件や大水害への取り組みを通して、現実の差別をしっかりと見つめてそこから課題を見出していこうという姿勢で来ました。しかし、実際には観念的で抽象的な部落問題の捉え方に偏っていた面もあります。このような中で1963年に、信太山自衛隊差別事件が起き、その隊員が広川町出身であったことからこの糾弾闘争を通じて、もう一度和歌山の部落解放運動を再建しようという機運が高まりました。ところが、運動に関する中央本部の方針が県連の方針によって県内の支部に降りていないことや、他組織への離反が相次いでいきます。
対立そして県連の再建へ
2004年は和歌山県連再建30年にあたります。
1973年に「馬頭県議差別事件」が起きます。これに対して糾弾闘争をするべく準備していると、いつの間にか立ち消えになってしまいました。こうした県連執行部の迷走は、その年の8月に十分な議論をしないまま、県連に従わない部落の大衆を排除し、形だけの県連大会の画策につながり、結局大会は成立しませんでした。同じ年の10月に第19回定期大会が開かれ、圧倒的な部落大衆の結集の中で和歌山県連が再建されました。
この30年言ってきたのは、運動すなわち部落であり日常の生活なのだということです。その視点の抜けた運動は運動ではありません。この当たり前の感覚が、そうなっていなかった現実がありました。再建してからはこの決意のもとに、労働組合へ部落解放共闘への参加を呼びかけ、企業に対しては同企連、宗教に対しては同宗連の結成を呼びかけるなどより広がりのある運動を進めてきました。
まとめ
私たちの運動は、今過渡期にあり大変厳しい状況にたたされています。2002年に特措法が切れました。多くの市町村では、「法」の切れ目が「同和行政」の終結ということになっています。33年間も続いてきたので、同和対策事業は「法があるから」「特別措置がすべて」だと刷り込まれているのです。そして、部落の「格差是正」がすべてなのです。しかし、よく考えてみると道が狭い、学力が厳しい、仕事がないなどの問題は決して被差別部落に固有の問題ではありません。ただ、なぜそういう生活実態や環境にならざるを得なかったのかを見ていくと、そこには部落差別という原因が見出せるのです。
では、これから和歌山の部落解放運動をどのように展開していくかということですが、まず部落の総合実態調査が必要ではないかと考えています。実態調査をして今の部落の現状や課題を浮き彫りにしたいのです。同時に可能なら周辺地域の実態調査も併せて実施したいです。そうすれば、部落・周辺地域ともに共通する課題と独自の課題が見えてくるのではないかと考えます。部落固有の課題として解決を図るのではなくて、部落を拠点に周辺に向かって共通する課題を解決するための政策をうっていきます。この視点と戦略でまちづくりや福祉の問題などに取り組んでいきたいと考えています。
また、部落にはたくさんの公共施設があります。もちろん有効に地域住民に利用されているところもありますが、一方でただ施設を貸すだけでのところもあります。これをもっと活かす方法はないでしょうか。同盟員からは、隣保館を一般施策だといって開放していくのはどうしたものかと言われますが、私はこのように答えています。「朝起きたら、隣保館が引っ越していたのだったら、腹も立つでしょう。でも、隣保館はずっと皆さんの地域にあります。その隣保館に周辺地域からもたくさん人が来てくれる。どうして腹が立つでしょう」と。
今までは部落の低位性というか、部落外との格差を訴えてきたわけですが、それはやはり1つの条件整備でしかないのであって新たな部落解放の展望を考えると運動についてもっと議論をしながら進めていく必要があると痛感しています。そういう意味では、NPOを立ち上げたり地域福祉計画を策定したりしながら模索しているところです。
私のところの支部でも十数年前から「まちづくり運動」をしています。きっかけになったのは子ども会活動です。作文で「50年後のムラ」をテーマに書いてもらったり、地域の模型を作ったりしました。地域の中を見てまわり紙粘土で作っていきます。そうすると、「公園をどこに作ろう」「こんな建物があったらいいな」などの意見が出てきました。それらの意見を支部に問題提起して、自治会に呼びかける形でまちづくりがスタートしました。
支部の中では「古いものは古いままでいい」「狭いものは狭いままでいい」という声が聞かれます。ずっと子どもや孫たちと自分たちの地域の川や山で遊んだ話をしていきたい、難しい話ではなくてそうした願いがまちづくり、ムラづくりの中心になってくるべきだと考え進めています。2003年、子どもたちと「50年前のムラ」というフィールドワークをしました。昔は、ムラの中にたくさんの遊ぶ場所がありました。それが50年経つとほとんどなくなっています。それを探すというフィールドワークです。
今、周辺地域と一緒に夏祭りもします。数年前にはアイヌのウタリ協会との交流を地元でやった際に、公園にゴザを敷き、かがり火を焚いての交流会をしました。ムラの祭りや遊びを真剣に、しかしおもしろさも追求しながら話し合っていく中で、ムラの将来を語り合えるような取り組みをしています。こうした取り組みは周辺地域へも波及していくので、県や市、周辺の自治会もまちづくりに加わっています。
一例を申しましたが、これまでの取り組みの上にどのような部落解放に向けた運動を展開していくのか、試行錯誤をしながら取り組んでいることをお話して終わりたいと思います。