はじめに
人権について、法律家が難しい法律論を展開して、それが理解できていないと発言できない、発言すると批判されそうだと考えたり、人権問題について活動している人に間違ったことを言うとすぐに批判をしてくる、何かこう人権というのは難しいなあという気持ちをもたれることがありますが、これは人権というものを正しく捉えていないと思います。人権とは専門家だけがわかっていればいいという問題ではなく、常に私たちの身のまわりにある問題です。日常生活の中で誰もが理解でき、誰もが人権を守る生活をする、そして自分の人権も守ってもらえる、こういう状況が生まれないと人権の話は完結しません。人権の基本は、一人ひとりの人間を、今ある、そのまま認めあいましょうということです。どのような社会的あるいは肉体的、精神的な状況におかれていても、そのまま貴重であるということなのです。
私は、人権というものについて、前向きに明るく捉えています。ですから、私自身、能力に限界があり、失敗も数多くやってきましたし、これからもやっていくでしょう。しかしながら、それが今の自分のあるがままであり、歳をとればさらに運動神経が鈍ってきて、もの覚えも悪くなってくるが、そのことをそのまま受け止める。これが人権という考え方だと思います。
社会的地位や役職というものは、それに伴って給料や権限に違いが生じることはあるかもしれませんが、社会的な生活を営む上での便宜上つくられたひとつの地位であり、役割だけです。高い社会的地位や役職についたということは、それはそれで大事なことなのですが、人間の本質というものからしてみれば、あまり大きな意味を持っていないと思います。人間の本質というのは一人ひとりが大事な存在であり、そのこと自身が人権の基本なのだというふうに捉える必要があるのではないかと思います。
企業と人権の4段階
今日は、グローバル化時代の企業と人権ということで、とりわけ企業と人権について、このグローバル化する社会の中でどう捉えたらいいのかについて話をしますが、人権というのは誰にとっても、その人の存在を認めてくれる考え方だということが基本にあります。
私は、企業と人権の関係について、4つの段階があると思います。そして、それぞれの企業によってその到達段階に違いがあります。
[第1段階] …… 人権についてほとんど何も考えない企業
この段階では、企業のほとんどは、企業経営にとってあまり人権ということに意味があるとは考えていません。たまたま起ってくる人権問題についてはそのときに考えよう、要は事業を通じて利益を最大にすることで企業経営としての責任を果たそう、というのがここでの企業経営の考え方です。人権に対してほとんど配慮していない、無関係だと捉えているのが、第1の段階です。今日でも、こういう会社は決して少なくありません。
[第2段階] …… 対処療法的対応の企業
問題が起ってきたとき、あるいは起りそうなときに、それに対応する。これを対処療法的対応といいます。対症療法というのは、要するに熱が出て風邪の徴候が出てきたときに薬を飲んで休ませるというやり方です。だから、それが出てこなければ何もしない。つまり、人権問題を指摘されるまでわからない、そして、人権問題が出てきたときに対応できるように、一応対応部署だけは作っておく、これが第2の段階です。無関心であるより少しはましですが、これでは人権問題に十分対応しているとはいえません。
例えば、ある企業が女性に対する差別的な雇用政策をとっていて、女性から訴訟を起こされて敗訴してしまう。すると、人権問題に取り組まなければいけないと考えるようになる。同様に、女性差別だけではなく、例えば被差別部落の出身者に対する差別についてきちんと取り組まないと、社会的に批判を受けて、そのことが新聞などで取り上げられるとマイナスの広報活動になってしまう。これは企業にとってダメージだということで、人権問題で批判されたり裁判で敗訴することがないようにしなければいけない。何とか損失を少なくする対応のひとつとして、人権担当の部署をつくり、人権教育啓発活動をその部署にまかせる、あるいは採用や昇進の場合にある程度人権に配慮していく。こういうことをするのが第2の段階です。
普段、人権問題が提起されない限り問題はないという捉え方をしている。そして、問題が出てきたとき、それに対応できるように対応の部署をつくっておく。無関心であるより少しはプラスですが、これでは人権問題に充分対応しているとはいえません。
[第3段階] …… 問題が起こらないよう先行的な対応(proactive)をしていく企業
今日のグローバル化の時代、日本の企業もどんどん海外進出しています。すると、日本企業が外国で人権問題を起こし、訴訟になって多額の賠償金を払わなければならなくなる、そういうことも起こってきます。
アメリカで実際に起った事例ですが、日本の企業が人種差別的な雇用政策をとったということで訴えられたことがあります。アメリカ独特の裁判の方法にクラスアクション(代表訴訟)があり差別された人、この場合にはアフリカ系アメリカ人、いわゆる黒人だったのですが、これは黒人に対する差別であり黒人みんなが傷ついたということで代表訴訟になりました。結果、約50億円を支払って示談にしたという事例があります。
日本の企業も、これでは大変だということで予防的な措置をとりはじめました。企業の中に、単に人権対策の部署を作るだけではなく、例えば企業の中に法務部あるいは法務室という部署を作って、法律に詳しい人、あるいは場合によっては顧問弁護士を雇うなどをして、予防的に対応していく。この予防的な対応の中には、事前に人権教育啓発活動をおこない、可能な限り企業が人権問題で批判されない、あるいは訴えられないようにしたりしています。
企業として人権問題について、あらかじめ「こういうことはしないように」という人権侵害をしないための規則を作って、例えばセクシュアル・ハラスメントなどが起こらないよう社員に対して一定の行動規律を決めておく。つまり、問題が起こらないよう先行的な対応(proactive)をおこなう、これが第3段階です。
[第4段階] …… 人権を企業全体の組織活動に反映していく(mainstreaming)企業
今日、国連や一部の多国籍企業の中で語られていることは、その先をやらなければいけない。それは何かというと、人権を企業全体の組織活動に反映させなければいけないという考え方で、人権の主流化、英語ではmainstreamingといいます。これは、企業活動すべての面において常に人権を配慮することを自覚的におこなうということです。つまり、営業部門も製造部門も、あるいは経理部門などあらゆる部署で、各部署の社員一人ひとりがそれぞれの業務において、常に人権を尊重しなければいけないという自覚をもって企業活動をおこなうということです。
しかしながら、現在ここまで達成している企業がモデルとしてあるということではなく、この第4段階をめざさなければいけないという状況であり、本日参加しておられるみなさんもぜひこの段階をめざしていただきたいと思います。
なぜ、この第4段階が大事なのか。実は企業にとって人権というものは決して負担でもなく余計なことでもなく、むしろ人権というものは企業活動にとって必要であり、利潤追求の活動にとって味方になるものだからなのです。ですから、企業経営者は、利潤を追求するという本来の企業活動の目的を達成する上においても、人権というものを主流化、配慮していくということが理論的にも実践的にも正しい企業経営のあり方であると認識することが大事であり、とくに私のいいたいことなのです。これは、今日国連などで議論されていることであり、ではどうしてそのようなことがいえるのかということを次に話したいと思います。
ミャンマーでの体験
企業自身はなかなか自覚していませんが、人権を無視すると企業活動は成り立ちません。
私はミャンマー(ビルマ)という国の人権特別報告者を5年ほど務めました。ミャンマーは、経済発展の可能性の大いにある国で、天然資源が豊かです。また、日本よりもはるかに肥沃な土地がたくさんあります。国民は非常に勤勉で礼儀も正しく、親近感の持てる人たちです。教育レベルも高く、技術レベルも高いものがあります。しかしながらミャンマーの現状は東南アジアの地域の中でも最も貧しい国のひとつです。
なぜミャンマーが貧しいのか。それは、基本的人権が保障されておらず、経済活動が活発にならないからなのです。どういうことかといいますと、例えば所有権、これが確実には認められていません。国(軍)の都合で私有財産などを取り上げることができるのです。それに対して反対すると投獄されて、何をされるかわからない。これでは、いくら私有財産を持っていてもいつ没収されるかわからず働く意欲もなくなってしまいます。農作物についても、豊作のときにはときどき軍が来て代金を払わず米を徴発していってしまいます。これでは、一所懸命働いてお米を作る意欲もなくなってしまいます。つまり、所有権というのは経済活動にとって基本的に大事なことなのです。
それから、契約の自由がありません。国(軍)が一方的に価格を決めた価格で取り引きをすると、価格が低く設定された場合、生産の意欲はなくなりますからモノは作られなくなってしまいます。逆に価格を高く設定されると、今度はモノは作られても買う人がいなくなります。これでは、不必要なものがたくさん作られたり、あるいは必要なものが全然作られなかったりしてしまい、経済活動が活発化しません。
その他、ミャンマーでは、鉄道網が非常に貧弱です。なぜかというと、軍が反政府活動が広がることを恐れ、人々の移動について許可制にしており、軍の許可がなければ地方への旅行ができないのです。下手に自由に動き回ったりすると反政府活動の疑いをもたれ、取り調べられたり投獄されたりします。これでは交通網は発達しません。これは鉄道だけでなく、バスや飛行機についてもそうです。
また、職業選択の自由もなく、自分がやりたいという職業になかなか就くことができず、人々の勤労意欲を削いでいます。それから研究の自由もありません。
法の支配や裁判による権利保障もありません。経済発展を遂げているところでは必ず契約不履行の取引に対して、裁判で損害賠償させるしくみができていますが、ミャンマーの場合には軍の介入があり司法も独立しておらず、そういう仕組みになっていないのです。とくに軍の関係者が当事者の場合、他方が一般市民であれば軍の関係者がまず勝つという偏った裁判になります。これでは公平な商取引というものが安心してできません。
出版においてはすべて検閲されます。日本では、出版業界は不況であるといわれながらも、多くの本が毎日新たに出版されています。それを購読する人たちもいて、印刷所や製紙会社、運送会社などが収入を得、ひとつの大産業になっています。映画や新聞、放送関係もそうです。表現の自由がなく、検閲制度が布かれたときにはこういった産業も育たなくなります。しかも、内容は政府(軍)にとって都合のいいことだけが書かれており、読む人もあまりいないという現状です。
制限されてはじめて感じる重要性
今日の日本では人権というものがある程度保障されており、そのもとで企業活動が自由にできます。そのこと、すなわち人権ということを経営者は意識をしていないだけのことなのです。例えば、石炭や石油を燃焼すると必ず空気中の酸素を使用しています。しかしながら酸素はタダですから、企業はそれをコストとして計算していません。同様に、人権も空気と同じように提供されているうちは企業は何も不便を感じることはありませんが、これが制限された途端に「これは大変なことだ」と思われるに違いありません。そういうものが人権です。ですから、企業活動にとって人権は基礎にある、人権が基礎になければ企業活動は成り立たないということをしっかりと認識する必要があるだろうと思います。
さらに、企業が考えなければいけないのは、本来は営業活動や新しい製品開発に知恵を絞るべきところを、人権問題にどのように対応しようかということに時間が取られると、その時間は企業にとって完全にロスになります。もうひとつ、企業のイメージダウン、すなわち人権侵害を平気でする企業だと思われた途端、企業イメージは非常に悪くなります。現代の企業にとって、企業イメージというものは大事で、そのために企業は多くの経費を費やしています。一所懸命企業イメージを上げ、企業の名前を知ってもらうと同時に製品を知ってもらって販売を広げようとしているときに、人権侵害をしている企業であるということで新聞などにとり上げられた途端、企業イメージは下がってしまいます。実際に、女性差別をする企業の製品について女性たちから製品購入をボイコットされて製品が売れなくなったということがありました。さらに、外国人差別となると、グローバル化した現在の国際社会においては、その国から「差別的だ」といわれた途端に、多くの国からその製品に対するボイコットがはじまって購入されなくなります。訴訟の費用や損害賠償については一回限りですが、企業イメージがダウンした場合これを取り戻すには相当の努力と時間をかけないと、すぐには払拭できません。
差別雇用の問題点
より直接的に日本で人権問題が企業との関係で議論されるようになってきたのは、差別の問題です。被差別部落に対する差別、その出身者を雇用や昇進の面で差別するということや女性に対する差別、あるいは学歴による差別など、いろいろな差別があります。差別とはどういうことかというと、本来ならばその職務に対する能力を基準に採用すべきところを、能力以外の基準によって排除したりすることです。例えば、能力があると判断されたのに被差別部落出身だということがわかったので採用しないということです。これは経営学のイロハに反しています。適材適所とか能力中心で人を採るといっておきながら実は採っていないのです。
これは女性差別についても当てはまり、今日でも、女性に対する差別的な雇用政策をおこなっている企業はわりあい多くあります。女性差別撤廃条約を批准し、それに伴って雇用機会均等法をつくり、雇用における男女の差別をしてはいけないということになっているにもかかわらず、雇用上の差別が現におこなわれている、これはほとんど真実だと思います。
こういった差別雇用は、間違っており、利潤を追求するという企業本来の目的からいっておかしいのです。なぜならば、能力のある人を採用して、その能力を十分に発揮してもらうのが企業の本来の雇用政策であるべきところを、能力以外の基準で排除しているわけで決して合理的な政策ではありません。
企業内の差別文化
問題はそれだけにとどまりません。企業が差別的な雇用政策をとっているということは、おそらく企業内にも差別的な文化がそこにはあるはずです。そこでは、差別をしていても「何が悪いんだ」という人たちがおり、結局その差別文化で相手を見ることになります。そして、例えばモノを買う場合、「一流の大学」の出身者が経営しているところから買うという基準がつくられてくる。これもまた極めて不合理な選択です。最も価格が安くて、最も品質のいいものを納期を守って提供してくれる企業から調達すべきで、それが経営学で教わる基本です。当然、そういうことをわかっていながら、そうしていない企業が多い。なぜかというと、そういうことが許される企業文化ができてしまっているからなのです。企業文化そのものが人権を尊重し、差別をしないという方針ならば、1人や2人、例外の間違った政策をとっても、それはすぐに修正されます。ところが、トップが差別的でいると、「何で悪いんだ」ということで、いつまでたっても責任をクリアにしようとせず、もたつく。そのうちに次々と問題点が出てきて、ますます窮地に立たされてしまう。最近でも日本の1、2の企業が批判されていますが、それはまさにこの縮図であるという気がします。
エリート主義の弊害
1960年代の半ばごろ、日本の一流企業のほとんどが指定校制度をおこなっていました。「一流の大学」といわれる20校ぐらいの指定された大学の卒業生しか採らないという企業がかなりあったのです。私の行った大学は、私の入学時、まだ創立から8年目の小さな大学で、あまり名前も知られていませんでした。ですから、同級生が会社訪問をしたとき、ほとんど相手にされなかったようです。私たちにも多少のプライドというものがありましたので、そんな会社に行ってやるかということで、エリート主義の指定校制度をとっている企業を私たちの方からボイコットしました。今考えてみますとその指定校制度が誤りであったということは、明白です。なぜならば、私の知るかぎり、指定校制度をおこなっていた企業で今日、若者が行きたいと希望する企業はほとんどありません。そして、当時トップだった企業の中には倒産した企業がたくさんあります。逆に、私が学生の頃に指定校制度をすることなく、どこからでもいい人が欲しいという企業は、今日若者に人気のある企業に多くあります。銀行も当時、「一流の大学」しか採用しませんでしたが、その銀行が、バブル崩壊後いかに悲惨な状況にあるかということはみなさんもご存知のとおりです。その原因のひとつに、銀行経営の中に一種のエリート主義という、「一流の大学」の成績優秀な者だけを採るというような、多少高慢な採用政策があったと思います。むしろ、本当に銀行が必要としている人を採っていたら、もっと良くなっていたのではないかという気がします。
企業の社会的責任(Corporate Social Responsibility、CSR)
企業活動にとって人権は基礎であり、利潤を追求するという企業目的からいっても人権を尊重するということが大事であるということがわかっていただけると思いますが、さらに、私がいいたいことは、企業とは社会の中にあってこそ企業として存在させてもらっているということです。企業は社会に多くを依存しているということです。そのことが自覚できたら、企業は社会に対して責任が出てきます。これが、今日いわれている企業の社会的責任、すなわちコーポレート・ソーシャル・リスポンシビリティ(Corporate Social Responsibility、CSR)です。
例えば、法秩序について、今日これが維持されていますが維持するためには大変なコストがかかっています。法律を制定して、実施していく、問題が生じた場合には裁判所に訴える、このことすべてにいろいろな人が関わっています。裁判官を雇うだけでも大変な経費がかかっており、実はこれらを前提として企業は存在しているのです。また、本来は企業が責任を負うべき駐車場について、公道を一時的に駐車場としている企業があります。例えば、トラックがモノを届けたけれどもまだ取引先の工場が開いてないという場合、工場の手前の行動で待っていたりする光景をよく見かけます。つまり、公のお金で作られた道路を企業が一時的な避難場所として使っているのです。本当はコスト意識を持たなければいけません。これがコーポレート・ソーシャル・リスポンシビリティという意味で、社会の一員として当然担うべき負担をお互いに負っていこうという意識です。
このように、本来負担すべきコストを負担することなく社会に依存したまま経営が成り立っているという場合が多くあります。企業が正確に利益計算をするならば、本当はこういったコストも計算に入れた上で企業活動が成り立つところまでいかないといけないのですが、そういう考え方を持つと、企業としての社会の一員としての責任を持つ必要があるのです。そして、その社会の一員としての責任の中に守るべきルールのひとつに人権があるのです。環境の保全に貢献することもそうですし、文化の発展に貢献するということもあると思います。
例えば、企業は当然のように技術を持っている人やコンピュータの使える人など、いろいろな人を採用しますが、実は社会がその前の段階での読み書きや計算、コンピュータの操作などの教育を保障しています。つまり、企業は社会が育ててくれた人の中から採用しているわけです。そのことを自覚すれば、企業は儲けた利潤の一部を教育や文化の発展に使ってもらい、そのことによって日本あるいは世界の市民全体の教育水準や文化水準が上がり、今度は企業がより質の高い社員を雇えることになる。そういったところからでも、私は企業というものは社会的責任について、しっかりと踏まえた企業経営をしていくべきではないかと思います。
グローバル化時代の人権と企業の関係
グローバル化とは、企業活動が国境を越えて拡がっていくということです。例えば、日本の企業が中国やタイ、あるいはアメリカ、ヨーロッパなどに工場などをつくるという場合もありますし、日本で作ったものを輸出して購買者が海外にいるという場合もあります。また、日本国内では、海外から労働者が入ってくる、工場で働いている人の中に日本国籍以外の国籍を持っている人が増えてきているというようなこともあります。さらに、日本国内の消費者の中にも外国人、外国籍の人が増えてきているという状況もあります。これらもグローバル化ということの意味なのですが、その場合に人権問題がどういうふうに現れてくるのか。ひとつは、企業の中に国籍が異なる人が働いているということですから、それに伴って国籍による差別ということはできなくなる。また、差別すれば働く人たちの志気に影響してきます。さらに、女性差別ということも出てきます。私の知人のアメリカの企業経営者の話ですが、彼・彼女らが非常に不思議に思っていることがあります。それは、交渉のために来日したとき、自分たちの企業の代表が例えば5人だとすると、そのうちに必ず女性が2人はいる。ところが、どこの日本の企業側でも交渉相手は男性ばかりだというのです。「それはどうしてなのか」とよく私に尋ねます。日本人は気がついていませんが、日本の企業が外国の企業と交渉する際に女性が少ないということは、国際的にみたら異様な光景である、現在はそういう時代なのです。そして、そのことが日本では女性が差別されているというイメージが固定化されていくことになっています。
企業内における人権尊重、差別をしないということが、国際的に企業活動を展開していく上で非常に重要です。アメリカへの海外進出の場合、現地で日本人を優遇したり、人種などによって差別をしますと、すぐに訴訟になります。もし、アメリカではなくても訴訟にまでならなくても現地の人から批判を受けて企業としてはマイナスのイメージを持たれてしまいます。
私の場合、直接企業と深く関わっていませんので、いろいろな人と話していますと、日本の企業は来る企業、来る企業みんな男性で、同じようなものの考え方をしていて、現地の人をバカにしている、ということをとくに発展途上国の人からよく言われます。もともと日本にいるときからそういう差別文化ができてしまっているのです。人権を優先する企業になっていれば、どこに海外進出しようが企業としてすべての人を相手にうまくやっていけると思います。グローバル化すると、日本の企業も人権尊重という位置づけで活動していかないとダメな時代である。それが国際化時代、グローバル化時代の企業の人権に対する対応ではないかと思います。
国内にも存在しているグローバル化
ところで、日本国内だけの小さな企業だから、人権なんてあまり関係がないと思われることがあるかもしれませんが、実はそうではありません。
3年ほど前になりますが、静岡県浜松市内の老夫婦が経営する小さな宝石店で事件が起こりました。その店にブラジル人の女性ジャーナリストが入ってきて、最初ご主人と話をしていたのですが、「あなたどこから来ましたか」と聞かれてそのジャーナリストは「ブラジルから来ました」と答えました。当時、浜松のあたりでは日系ブラジル人がたくさん住んでおり、バブル崩壊後、リストラのため生活困難者が数多く、とくに子どもたちの犯罪が多かったのです。もちろん全員がそうではありませんが、その宝石店の老夫婦は高齢という不安もあり、この女性自身を危険とは思わなかったのですが、ブラジル人と聞いた途端に、それは自分たちを油断させるためで、後でもっと若い人が武器を持って入ってくるのではないかと考えたのです。そして、大急ぎでジャーナリストを追い出して店を閉めようとしました。この宝石店は、人種差別撤廃条約違反だということで訴えられ、100万円ほどの賠償金を払わされることになりました。
北海道小樽市では、銭湯にロシア人船員が入ってくることが多いのですが、酒を飲んでいたり、しかもうるさく、乱暴で、浴槽の中でも石鹸を使ったりして、これではとても一緒に入っていられないということで、日本人の客が来なくなってしまいました。これでは商売にならないということで、「外国人お断り」という貼り紙をして外国人の入浴を断ったという事件が起こりました。これも人種差別撤廃条約違反ということで訴えられ、銭湯が敗訴、賠償金を支払わされました。
これまでならば、日本国内の小さな店に外国人が来店してくるということなどあまりなかったことなのですが、グローバル化時代とは、こういうことが起こりうる時代なのだということです。そして、グローバル化時代とは、小さな宝石店や銭湯でさえも国際的な問題に関わり、差別的な行為をすると問題として訴えられる、そういうこともグローバル化時代の人権と企業の関係であろうかと思います。
公正採用から企業の人権の主流化へ
では、こういう状況の中で企業はどうしたらいいのか、やはり企業は日常的に人権というものを、企業のあらゆる活動において反映させなければいけないと思います。そのためにはまず、雇用面において公正で差別のない人事政策をおこなうという方針を明確にし、それを実践していくということです。公正な人事採用、労働者の権利の尊重、職場環境の整備、安全性の確保、障害者に対する法定雇用率の遵守、などを実践していくことは、非常に大事なことです。
また、企業が人権について一所懸命配慮していても十分でないことは、いくらでもあることです。ただ、そのような事態になったとき、すぐに企業がその事実を把握して、改善に結びつけていかななければなりません。そのためには苦情があった場合、その苦情をすぐにトップまで伝える、そういうしくみをつくっておく必要があるだろうと思います。
公正採用に際しては、社会的弱者やマイノリティの人などを積極的に採用していくことは非常に大事なことだと思います。そのことによって、企業の人権に対する取り組みも随分と変わってきますし、人権を主流化した企業になっていくひとつのきっかけになると思います。あわせて、日常的に人権教育・啓発活動を企業のトップから末端まで、すべてのレベルにおいて人権教育を徹底して、人権を主流化していくことが理想であり、それを実現するということは容易ではありませんが、企業の目標として実践していくことは非常に大きな意味があります。
企業の中の人権尊重
企業の中の人権尊重について、企業が外部と接点を持った場合には企業が販売する製品、これは不特定多数の人に買われることになりますから、その安全性について十分に配慮する必要があります。広報活動においても、なるべく多くの人に買ってもらいたいわけですから、どんな人もその企業は排除しないという姿勢を示す必要があります。企業の広報紙、広報紙といっても株主総会に対する報告書もありますし、一般向けのパンフレットもあり、新卒者に対する新規採用のためのパンフレットもあるかと思いますが、そういう文書の内容について考える場合も、人権についての配慮をする必要があります。
例えば、ある企業の宣伝紙にカラー刷りできれいなものがあったのですが、あるページをめくると女性の水着の写真が出ていました。その写真が、その企業の製品や企業のサービス、企業の特色に結びついていれば問題はないのですが、そうではなくて男性のアイキャッチングだったのです。これは明らかに女性からすれば不愉快なページです。そして、そこから女性にその企業のイメージをマイナスにみられてしまうきっかけになります。
また、新製品について、とくにアフリカに新しい市場を開拓しようとした場合、その企業のパンフレットに、働いているアフリカ系の人が入っていたり、女性が入っていたりすると、そこからその企業の姿勢が見えてきたりします。まあ、多少宣伝かもしれませんけども、とにかくそれだけでアフリカの人たちは、ほっとして「日本の企業だけれども、自分たちの存在を意識しているんだ」とわかってもらえるわけです。これだけでも宣伝効果というのはものすごく大きく、そういう意味で、企業の広報活動における人権への配慮ということも、重要な意味を持っていると思います。
企業がすべての面で人権に配慮するというのは、障害者も、障害者の家族も、アフリカの人もイスラムの人も、ラテンアメリカの人もアジア人も、そしてヨーロッパ人もみんな我が社の製品のお客さんですよという意識で広報誌を作ったり、経営をやっていけば、世界中で受け入れられる製品になっていくわけです。それが、特定の人たちを排除するような体質の企業だとすれば、当然企業の方で排除しているのですから相手は受け入れてくれるはずがありません。そう考えると、人権を主流化した企業経営は非常に重要だと思います。
おわりに
現在、国連ではグローバルコンパクトといって、人権、環境、それから労働者の権利、そして汚職、こういう問題について前向きに取り組みますという協定を企業と結んでいます。企業にとっては、国連のグローバルコンパクトに参加しているというステータスシンボルが与えられ、社会的評価が高まります。このように、企業が人権を主流とした経営をしているのかどうか国際的に注目される時代になってきています。
繰り返しになりますが、人権とは非常に難しい問題のように思われるかもしれませんが、基本は、人を差別しない、そして障がいのある人も、女性も、誰に対しても一個の人間として尊厳あるものとして接するということなのです。そういう企業にならないと、新しい発想は出てきません。さきほど第1段階から第4段階を紹介しましたが、是非人権を主流化するような第4段階をめざした企業経営をおこなっていただきたいと思います。決して人権は、企業活動にとって負担でもマイナスでもない。むしろ逆で、企業にとって基礎になっているものであり、企業の味方になるものだととらえて、人権を中心に考えてみると意外と新しい製品がつくれる可能性もでてきます。また、新しい市場も開拓できる可能性もでてきます。そういう前向きな姿勢で人権というものを考えていただければうれしく思います。