本におけるハンセン病政策の変遷
ハンセン病患者への隔離政策が長期間にわたった原因、それによる人権侵害の実態を医学・社会・法律等の多方面から科学・歴史的に検証を行い、再発の防止に向けた提言が今年の3月1日にハンセン病問題に関する検証会議最終報告書として厚生労働大臣に提出され、公表されました。この報告書は社会的に大きな反響を呼び、国会の厚生労働委員会でもこれを巡った質疑が行われ、厚生労働大臣は報告書に書かれた9項目に及ぶ「再発防止のための提言」を誠実に実施する旨の答弁を行っています。そこで今回はその最終報告書がどのようなものであったのかを説明していきたいと思います。
まず日本におけるハンセン病政策の変遷を簡単に紹介します。そもそもハンセン病は1897年制定の「伝染病予防法」の対象疾病に含まれていませんでした。しかし伝染説が確立された第一回国際らい会議以降ハンセン病予防に関する関心が高まり、1907年に「癩予防ニ関スル件」が制定されました。ここでは財政上の理由もあって療養の道もなく、救護者のいない者のみが隔離の対象とされたのです。これは公衆衛生の面では徹底さを欠いていました。公衆衛生よりはむしろハンセン病が文明国にとって不名誉であり恥辱であるとする国辱論の影響を強く受けたものだといえるでしょう。
1916年の同法一部改正で療養所長の恣意的な懲戒検束権が条文化されたことによって療養所の救護施設としての性格は後退し、強制収容施設としての性格が顕著になっていきました。また日本の公立療養所内での男女交渉は厳しく禁止されました。それでも出産にいたることも少なくなく、男女間の交渉を認めることが療養所内の秩序維持に繋がると考えた全生病院長の光田健輔は、1915年から結婚の条件に断種手術を義務付け、妊娠した女性に対しては人工中絶手術が行われました。これが全国の療養所に広がり、日本では1948年の「優生保護法」制定までこういった優生手術が法律の規定なく実施されていたのです。これらの手術は患者や配偶者の同意を得ずに行われることも多々あり、それは「優生保護法」制定後も皆無ではありませんでした。そして21年からの10年間に内務省は初の国立療養所の設立とともに既存の5箇所の療養所を拡張する第1次増床計画を実施し、事実上全ての患者を隔離の対象としました。
徹底された隔離政策
31年に「癩予防ニ関スル件」が全面改正され「癩予防法(旧法)」が制定されましたが、内務省はその前年に癩の根絶策を発表しています。これはハンセン病に対する恐怖心や嫌悪感を煽り立て、そこに国辱論も交えることで、患者を絶対隔離しなければハンセン病の恐怖から永久に逃れられないという強迫観念を植え付けるものでした。この後国立療養所が次々と建設され、日中戦争に突入する戦時体制の中で官民一体となって患者を療養所に送り込む「無らい県」運動が高まりを見せ、全国的に患者の強制収容が徹底されていきました。この「無らい県」運動というのは文字通り放浪患者や在宅患者の一人もいない県を目指すというもので、ハンセン病への差別・偏見に非常に大きく影響したと考えられています。
なぜなら戦前から戦後に渡って行われたこの運動によってハンセン病は感染力も強く、不治であるといった誤った医学的知見が広められ、これが患者に社会的な同情の客体に甘んじることを強いた現状の差別構造の基礎を築いたからです。それは療養所入所者が控えめに暮らす限り社会は同情するが、強いられている環境に立ち上がろうとすれば理解を示さないどころか、反感や敵意を示すというものです。先日のハンセン病患者へのホテル宿泊拒否事件に関して、ホテル側の謝罪が形式的で反省が伺えないとして患者側がこれを受け入れないと発表すると、中傷の電話や手紙が殺到したことからも分かるように、こういった意識は今日も続いています。
戦後もかわらぬ患者収容の強化
戦後に入って1940年に制定された「国民優生法」は廃止され、これに変わるものとしてらい条項を含む「優生保護法」が48年に制定されました。これによって45年から96年までの間にハンセン病を理由に行われた優生手術は1400件以上で、人工中絶手術は3000件以上に上るといわれています。またハンセン病の特効薬であるプロミンの登場は患者に大きな希望を与えましたが、当初政府はプロミンを広く普及させるだけの予算措置を講じませんでした。これに対して48年に療養所内の患者の中でプロミン獲得運動が起こり、全国に波及した結果、49年に政府は患者のほぼ要求どおりの予算化を実施しました。しかし厚生省は50年に全てのハンセン病患者を入所させる方針を打ち出し、これに基づいて第2次増床計画を進めて患者収容を強化させていきました。
参議院厚生委員会にらい小委員会が設置され、51年に同委員会で3施設の園長から意見聴取が行われています。この園長発言は患者の完全収容の徹底とそのための強制権限の付与、懲戒検束権の維持・強化、無断外出への罰則規定の創設などを求めるもので、結果的に新法の内容や後のハンセン病行政に大きく影響しています。発言内容もさることながら、その表現にも患者に対する人権意識の無さや当時の療養所運営のあり方が伺うことができます。
「らい予防法」(新法)の改正運動
日本国憲法が制定されて療養所入所者の人権意識が高まる中、入所者は団結して隔離政策からの解放を求めるようになっていった。そして1951年には患者の全国組織である全国国立癩療養所患者協議会(全患協)が結成され、これを中心とした旧法の改正運動が盛んになっていきました。しかし53年に内閣から提出された「らい予防法」案が旧法とほとんど変わっていなかったことから、改正運動は予防法闘争という激しい運動になりました。しかし「らい予防法(新法)」は同年に国会に提出され、議論らしい議論もほとんど成されないまま、可決されました。これによってハンセン病患者への隔離政策は新法制定後も継続することとなり、更に患者の自治会運動を弾圧する狙いで私生活を事細かく制限する通達までも厚生省から出されていました。
これに対して全患協は療養所内での処遇改善とともに新法の改正要求を行いましたが、それが実現することはなく、96年まで国会で新法の改正についての議論さえ行われることはありませんでした。そのような状況の中、全患協は運動の挫折や入所者の高齢化などによって、運動の重点を法改正から療養所内での処遇改善に向けるようになっていきました。これによって昭和50年代以降は退所や外出制限はそれ以前の非常に厳しいものから徐々に緩和されていきますが、それらは全て療養所運営上のことであって、それらを公的に裏付けるものは存在しないどころか、厚生省は患者の人権制限の必要性を変わらず主張していました。
療養所における生活状況
また新法制定当初から非常に貧しかった療養所内の生活状況を改善するために、厚生省は新法の隔離条項の存在を最大限に活用して大蔵省から予算を確保しましたが、今となってはそれが新法の延命に大きな力を発揮したのではないかと考えられます。ただそれによって予算は取れたといっても療養所の状況は依然として厳しく、職員の人員不足が恒常化していた療養所の運営は患者に強制された患者作業に大きく依存せざるを得ない状況が続きました。この作業は治療や看護部門から給食や掃除等に至るまで多岐に渡っており、中には重労働も含まれていました。これによって後遺症を悪化させた患者も多く、日本の療養所ほど後遺症の多い療養所はないと言われる原因はここにあると指摘されているのです。
73年以降全患協の中でも福祉的措置の後退を懸念して、法律の改正に消極的な考えが現れ始めました。しかし元厚生省医務局長の大谷藤郎の新法廃止の呼びかけが契機となって厚生省医療保健局長の私的諮問機関であるらい予防法見直検討委員会が設置され、そこからの提言を受けて96年に厚生大臣の公式な謝罪と、「らい予防法」の廃止並びに「優生保護法」のらい条項の削除が実現しました。熊本地裁判決では遅くとも60年には「らい予防法」は廃止すべきだったとしているのに対して、実際に廃止されたのは1996年。これはあまりにも遅かった法廃止といわざるを得ません。
検証が明らかにしたこと
今回の検証で明らかになったことを紹介したいと思います。まず日本の絶対隔離政策で科学的根拠が示されたことは一度もなく、「救らい」事業の功績者として文化勲章にも輝いている光田らが掲げた絶対隔離のための優生学的な理由も何ら根拠のないものであったということがあげられます。そして戦後日本は新しい時代を迎えましたが、ハンセン病については医学も立法も戦前を継続し、プロミン等の革命的な薬効も隔離政策廃止に結びつきませんでした。それどころかハンセン病は不治だとする光田を初めとした療養所長らの妄信に国も反共・治安政策の観点から乗ってしまい、国際らい会議やWHOの隔離廃止の要求を日本政府は無視しました。その結果、入所者らは日本国憲法の享有者ではなく、「新しい明るい日本」の犠牲者になってしまったのです。
戦後は医療・福祉などの保障が強制隔離の口実でしたが、療養所にあったのは患者を実験台のように扱いその病状や後遺症を重症化させるような非医療・福祉ないし反医療・福祉で、これらは政府の治安政策の支えなくして成り立たないものだったといえます。また国がハンセン病患者に断種・堕胎を強い、命を選別しました。このような非人道的な行為が日本国憲法の元で逆に「優生保護法」の制定によって合法化されており、入所者やその近親者の自殺もかなりの数であったと推測されています。こういった命の選別は人間の尊厳を冒涜する以外の何者でもなく、入所者が今もなお最も辛い思いをしている部分でもあります。このような国の誤った政策は療養所内の医療従事者から良心を奪い、悪魔的な精神の下に追いやってしまったといえるでしょう。
「新しい明るい」日本の犠牲者
こういった現象は他の分野にも認められます。例えば戦後になって信教の自由を認められた宗教界は自らの判断で患者・家族ではなく、国の側の立場を選びました。教育界では患者の子ども達の人権に高い配慮を求めた国際的な流れも日本に浸透せず、療養所内での教育も良き入所者になるための園内通用学力を身につけさせるものでしかありませんでした。福祉界は隔離政策に依存しながらそこで働く人びとを美化するだけで、問題の深刻さを十分に認識することはありませんでした。また、法曹界も隔離政策による人権侵害を放置し、菊池事件(1951年に熊本県菊池郡で起きたダイナマイト事件及び殺人事件で逮捕された藤本松夫氏がハンセン病患者であったことから、司法の差別・偏見によって法律で定められた権利も無視されたまま不当に有罪とされ、62年に死刑が執行された事件)に象徴される予防法からも逸脱したハンセン病患者への司法の差別的対応は、憲法が司法に期待した人権擁護の役割とは正反対のものだったといえます。
結局、ハンセン病対策も精神疾患対策と同様に病者を苦しみから救うためでなく、いずれも諸外国に対する日本の体面から始められており、隔離収容は国民の両疾患に対する偏見を固定化して差別を助長してきたということが、私たち検証会議が行った国際的にも例を見ない大規模な被害実態調査によって明らかにされました。そして最も重要なのは被害、差別が今も続いていて、心の傷はますます深まっているということです。
マスメディアの果たした役割
以上のように検証会議では各界の役割を検証してきましたが、もう一つマスメディアの果たした役割も紹介しておきたいと思います。まず世論との関係では、メディアによるハンセン病報道は1965年、特に79年以降はおおむね世論の半歩先を歩んでいたと肯定的な評価ができます。しかし問題は入所者や家族などの立場から見てその報道がどうであったかということです。全患協や自治会は強制隔離による人権侵害の実態を国民に伝えるようメディアにメッセージを送り続けたが、その思いが通じることはありませんでした。その結果、国民は予防法闘争の存在さえ知らず、それが運動の挫折の大きな要因となりました。なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。それはメディアに期待される社会に対して、問題提起するという機能が、ハンセン病問題に関しては全く働かなかったことが原因だといえるでしょう。
皮膚感覚で進行する差別や偏見への正しい認識を社会に伝えることがメディアの重要な課題の一つであるにもかかわらず、記者がハンセン病に対して不勉強で、療養所に足を踏み入れることもなかったためにそれが達成できなかったのであれば、これはメディアの取材と報道の本質に関わる構造的課題といわざるを得ません。
国、社会へと引き継ぐバトン
今回の被害調査を通じて調査が遅すぎたことと、患者や家族への差別・偏見を放置したままでの被害調査はありえないということを私は痛感しました。調査が遅すぎたために最も過酷な被害を受けたであろう人びとの多くは既にそれ訴えることもできない状況にあり、多くの事実が歴史の闇に葬り去られたといえます。そして更に今日も残る差別や偏見が被害者に被害を語れない状況を生み出しているということです。差別・偏見の厚い壁は今も崩れておらず、療養所の納骨堂には引き取り手のない16000名弱の遺骨が今日も安置されています。こういった状況から被害調査と差別・偏見の打破は車の両輪だと私は思います。
私たち検証会議は、2005年3月末を持って全ての任務を終了し、ハンセン病問題解決に向けた役割を最終報告書というバトンを通じて国、そして広く社会へと引き継いだのです。このバトンを国内のみならず国際的にも活用して頂き、世界中の強制隔離政策が一日も早く廃止され、そして二度とこのような過ちが再発しないようにしていくことを心から願っています
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