講座・講演録

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2005.07.13
講座・講演録
(第35回部落解放・人権夏期講座 全体講演 より)
(『部落解放』2005年1月増刊号(544号)「部落解放・人権入門2005」、解放出版社)
新しい非戦の論理と運動
〜「平和への結集」に向けて〜

小林正弥(千葉大学教授)

公共哲学とは?

公共哲学とは、いったいどのようなものか、私は2つの点で説明しています。<1>何らかの意味において「公共性」を世の中に実現していこうとする哲学である。<2>人々が「公共的」に知ることができ、それによって行為したり政策を考えたりすることができるような哲学である、ということです。

『地球的平和の公共哲学』(公共哲学ネットワーク編、東京大学出版会、公共哲学叢書3、2003年)に、東京大学の山脇直司先生と2人で「公共哲学宣言」を載せました。そこに、私たちの考える公共哲学の基本的なイメージが述べてあります。

その問題意識は、学問の有意性の回復ということです。

次に、私たちの追求する「公共性」が問題になります。日本の、特に戦前、戦争中に使われたスローガンは「滅私奉公」というものでした。森前首相などは「それが私のモットーだ」と言って、批判をあびました。だから、現在でも保守的な人々の中では「滅私奉公」ということを言う人もいるわけです。これは、もちろん国家のために、場合によっては戦争のために死ぬことを意味しかねないので、私たちは激しく反対しています。しかし、戦後は逆に国家を否定し「私」を強調するあまり、「滅公奉私」という状況も現れてきました。

 「滅公奉私」ということになると、「私」個人は非常に大切にし、自分の趣味とか自分の周りのことは考えるが、公の広い世界のことについては考えもしないし行動もしない、という状況が生まれてきます。これも問題であろうと思います。これは、アメリカでも非常に流行しているミーイズムや利己主義、あるいは私一元論という世界につながってしまいます。現在の世界的危機、あるいは日本における「平和」の危機というのは、そういった状況が反映している点もあるわけです。現実の大きな問題、たとえば環境、福祉、平和といったような問題を考える上では、自分1人の世界、あるいは家族とか趣味の世界だけでは不十分で、そういった大きな問題について人々が考え、声をあげることや行動することが必要になります。そうしたことを考えるためには「公」というもの、あるいは「公共性」というものを考えないわけにはいかないわけです。

そこで、私たちは「活私開公」とか「活己開公」という言葉を用いています。その主旨は、個人あるいは自己というものに原点をおきながら、それを深め高めていくことによって、個々人の1人の世界を越えた公共的な問題に向かう。それについて考え、行動することを意味しているわけです。その意味において「活私開公」あるいは「活己開公」といった方向を求めることが、私たちの公共哲学の目的であり、そういった意味における「公共性」を実現することが目的として掲げられています。

また、日本の伝統においては「公」という観念が、たとえば天皇制とか国家とかいった意味と非常に結びついていました。「公共性」の観念を、このような日本の前近代的な発想から解き放って、下から水平的に形成していくような、新しい「公共性」へ転換していこう、ということを主張しています。その意味で、人々と共に考え、共に行動する、という意味を強く含んでいます。

更に今日の時点においては、「共に考える、共に行動する」という自己のあり方を考える際に、自己のアイデンティティをどこにおくかということが問題になります。たとえば、戦前の日本は国家を中心にしていましたので「日本人」というレベルのアイデンティティが強調されました。今日、グローバルな展開が始まっていますので一番根底の部分で、「地球人」としてのアイデンティティがまずは必要になるでしょう。その上に、アジアという地域におけるアイデンティティ、日本という地域におけるアイデンティティ、ローカルな地元におけるアイデンティティ、あるいは様々な自分が所属する自発的結社におけるアイデンティティがあります。そういった複層的なアイデンティティをもつ存在としての人間は把握するべきだし、そのような自己意識をもつ必要があると考えています。

もう1つ、非常に重要なことは、学問という観点からみれば「学際性」ということが強調されています。環境にせよ福祉にせよ平和にせよ、そういった大きな問題を考えるためには、たとえば私が専門に研究している政治学あるいは経済学や社会学などは、それぞれ個別の分野からでは、十分な研究をすることができないし、解決策を提示することができないのです。残念ながら、今日、特に日本において甚だしいことですが、学問においてタコツボ化現象があります。多くの専門的研究者は、自分の、さらにその中の細かな領域についてしか研究していないし、それより大きなことについては発言しない人が多くなっているのです。

たとえば、9・11米同時多発テロ以降のような展開について、専門家はどのように考えているかということに、多くの人は関心をもつわけですが、それについて発言している人は、相当少ないわけです。なぜかというと、そういった問題について専門的に研究しているわけではないから、と言うのです。ところが、こういうことをすべての学者が言うと、ある意味では学問の社会的意義が疑われる、と思います。何のために研究をしているか、という、もともとの理由があやしくなるわけです。

そこで、こういった大きな問題、あるいは様々な多様な問題に対応するために、私たちとしては個別の専門分野に閉じこもるのではなく、そういうタコツボ化の状態を打破し、学際的に、その中で対話的手法を使って、実践的で現実的な意味のある議論をし、見解を提示することを目的としています。多くの学者の有機的な協力によって、公共世界のあり方について、見解を提示したり提案するということをねらいにしています。

実際に、学際的ということを、私たち公共哲学研究会のグループは、きわめて有効な形で実現しています。私たちの公共哲学の運動は、2001年から『公共哲学』10巻シリーズを刊行し、大きなインパクトを持ちつつあります。今後、第2期シリーズ、公共哲学叢書と続々と刊行していく予定です。ある意味では学界全体に改革を迫るような、一種の学問の構造改革運動であると、私たちは考えています。そして、学問の構造改革運動を、現実の公共世界に反映させることを目的にしています。

平和公共哲学の必要性

なぜ、今日、平和運動や平和主義が、ここまで追いつめられているのでしょうか。

平和運動・平和主義は、戦後、マルクス主義に代表されるような左翼思想と連携していました。ところが、ソ連あるいは東欧圏の崩壊以来、そうした思想は非常に力を失ってきて、知的世界においても非常に弱小になってきています。まして市民運動のレベルでは、それが一般の人々に働きかける力を失っています。その意味で、今日ではその限界が明らかになっているので、その反省に立脚して、平和運動・平和主義の思想的再構成を図る必要があると思います。

政治学においては、南原繁や丸山眞男が、左翼思想とは一線を画しながら平和の思想を展開しました。今日、そういったものを、さらに発展させることが必要であると考え、公共哲学一般の中でも、平和公共哲学の必要性を訴えてきました。

今日、右派思想あるいはネオ・ナショナリズムの思想が、現実の状況をどのように批判しているのでしょうか。それは、「戦後の民主主義は、エゴイズムを肯定する思想であって市民ではなくエゴイスティックな私民であった。そのような醜悪な思想であり、現実の日本はそのような醜悪な状態になっている。道徳的に退廃し人々の間に連帯が存在せずに孤立化が進んでいる。それは戦後思想の責任なんだ」という批判です。この状況を打破するために、「やはり国家が大事なんだ。国家に献身して、場合によってはお国のために死ぬことが必要である」ということをネオ・ナショナリズムのイデオローグたちは主張しているわけです。

もちろん、そういった思想は、非常に危険なものとして、私は反対しています。しかし、こうした思想が若い世代にもアピールするところをしっかり見なければいけない、と考えています。つまり、新保守主義あるいはネオ・ナショナリズムの運動は、人々のアイデンティティの問題、生き方の問題をストレートに取り上げ、それによって国家主義を復権させようとしているわけです。確かに、この点は戦後の左翼思想あるいは戦後民主主義の1つの弱点であった、と言えると思います。実を言うと、戦後の代表的な思想家たちは、当然アイデンティティ問題、生き方の問題を含めて説いています。ところが、その部分は一般へのアピールは弱く、一般レベルではややもすれば、その点が無視された面がなきにしもあらずなのです。

そこで、今日、そうした批判点を自覚しながら、問題に対応するような新しい思想を考えていく必要があると思います。それを、私たちは新世紀における公共哲学として展開しようとしています。そのために、自己という問題、アイデンティティという問題から、話を進めていく必要があると思うわけです。

これは、政治哲学や公共哲学の最大の課題ですので、話し始めるときりがないです。ごく要点のところを取り上げますと、たとえば、個人主義というものは近代の原理であり、きわめて重要なものです。しかし、「個人」というものは、誤解されるとエゴイズムを肯定する意味にとられる危険性があります。「個が重要」という意味が「エゴが重要」となって、自分の私利私欲を満たしていい、ということになっていくわけです。しかし、これは公共性という観点からすれば、非常に問題のある発想です。あるいは、共同性の観点からみると、若い人の間では、引きこもり、コミュニケーションの困難、孤立、そういう問題がアイデンティティの問題として、今日、社会問題として浮上しています。そういった問題に対しては、個人主義の原理だけでは対応できません。逆に言えば、そうした状況を深める危険すら含んでいるのです。

かつての左翼思想においては、たとえばコミュニズムはコミュナルな思想です。日本語では、コミュニズムは共産主義となりますが、「共」という字が入っています。私は、財産の共有や国有化というのは失敗した思想であり、思想的には間違えていると思っています。しかし、「人々が連帯する、共に考え共に行動する、あるいはお互いのために行動する」ということは、非常に重要だと考えています。そこで、このコミュナルな要素を左翼思想とは別のかたちで復権させる必要があると考えるのです。アメリカあるいはヨーロッパで、コミュニタリアリズムという思想が1980年代以来説かれています。私はそういった思想を紹介しながら、新しい思想を発展させようとしています。

コミュニタリアリズムとは、言葉としては「コミュニティ」です。コミュニティにおける自己の発展、人格形成を強調しながら、コミュニティにおける連帯、コミュニティにおける相互扶助を新しい次元で再構成しようとする思想です。日本語で、これを「共同体主義」と訳してしまうと、悪い意味で前近代的な封建的な共同体思想である、あるいは家父長的な共同体の復権であるというふうに、誤解される危険があります。そういう誤解を避けるために、たとえばコミュナリズムという言い方をしたり、日本語で共同性主義と訳したりしています。あるいは、ネオ・パプリカリズムと言ったり、それを訳して、新公共主義という言葉を使ったりしています。いずれにしても、現在の地平において、新しいコミュナルな人間関係、連帯というものを復権させようということを意味しています。

こういった思想からみると、「人権」と「責任」という両方の要素が必要になります。人権という言葉は、英語ではライツ(rights)です。ライツのもともとの意味は、利益を達成するというエゴイスティックな権利の実現ではなく、倫理的な意味での正義を実現するものがライト(正)=ライツ(人権)である、ということです。同時に、一人ひとりの権利を実現するとともに、コミュニティにおいては他者に対する「責任」があります。その意味で、ライツ(権利)と、責任あるいは義務、この両方を達成することがコミュニティにとって正しいあり方であると主張しています。それを日本の中で、より新しい形で発展させようと考えているわけです。

こういった観点から、公共哲学を再構成し、新しい今日の世界において必要なことをめざしていこうと思います。その中で特に平和という領域における展開が、平和公共哲学です。

危機的状況

現実的に、今日の平和運動は大きな危機にあります。戦後、日本の平和運動は、安保運動を中心に考えられてきました。ところが1990年代以降、周辺事態法、新ガイドライン、対テロ特措法、さらには9・11米同時多発テロ以降、有事立法、イラク特措法と、かつてタブーであったことが次々と行われています。更には、二大政党化の傾向の中で、現在、集団的自衛権を認めるか認めないかという問題、その後には改憲を行うか行わないかという問題が、具体的な政治日程として浮上してきています。

ご存知のように、日本の平和主義の一番の骨格には、平和憲法、特に9条があります。この改正が行われるということは、戦後の日本の平和主義が終焉を迎えることを意味します。その意味で、決定的な危機を迎えているのです。

平和憲法の非戦解釈

現在、タカ派がなぜ平和憲法を改正しようとしているかを、よく見る必要があると思います。自衛隊を海外に派遣し、場合によっては戦闘に参加させたいからなのです。だから、現在の改憲論の目的は、海外派遣をおこなうための改憲です。これをしてしまった場合、日本は湾岸戦争やアフガン・イラク戦争に、はじめから戦闘行為に参加できることになってしまいます。しかも、日本はアメリカの指示に従う随従国家ですから、そういうことになる危険性はきわめて高いわけです。当然、犠牲者はでます。そういう国家の状態に突入していくことになります。

 今、問題になっているのは、そういう国家のかたちにしていくのか、それとも「自衛隊は持っていて、攻められた時の守りはするけれど、海外にまで派兵しない」という平和主義を堅持するかどうか。これが、政治的な分水嶺だと思うわけです。まさに、これが問題だからこそ、憲法9条を改正しようとしているわけです。

私は、現在の国民意識、世界情勢を考えれば、憲法9条の解釈を非武装論から変更する必要があると考えています。

実は、日本国憲法は制定過程で、アメリカ側と日本側の両方がほとんど独自に「自衛力のための武力は持てる」という工夫を行っているのです。当然ながら、その憲法制定過程の意識はテキストに反映しています。一見すると「一切の武力を認めない」ように書いていますが、工夫によって「自衛のための武力」までは読めるように書いてあります。政府解釈は、これまで自衛隊を合憲であると擁護してきました。それに非武装派は反対してきました。

私は、テキスト解釈において、政府解釈とは若干違うのですが、自衛隊、つまり自衛のための武力までは持てると解釈できると考えています。9条2項では、戦争を否定し、交戦権を否定しています。この部分が、非常に大事です。なぜ日本国憲法が他の国に比べ、非常に先進的な平和主義の憲法であるかと言えば、9条2項で交戦権を否定しているからです。したがって、交戦権を行使するような否定しています。これは国内の自衛戦争、自衛戦闘の場合ではなく、特に海外における交戦の場合に徹底的に適用されます。ですから、日本国憲法の特有の個性というのは、「海外に対して自衛隊の武力を行使できない。それからそういった戦争に加担できない」というところにあります。これが、「戦力を持たない。交戦権を持たない。戦争をしない」ということである、と理解できると思います。

ですから、私は、守るための武力は許されているが攻撃はしないということが、日本国憲法の真価であると考えています。

今、このことが改めて重要になっているのは、まさにアメリカのブッシュ政権が先制攻撃論をとって戦争をしたからです。国連憲章においても、これは許されていないことですが、アメリカの先制攻撃を防ぐ工夫というものが制度的には十分には存在しないので、ブレーキをかけることが世界的にできません。ある意味では、日本国憲法の原理に基づけば、アメリカの先制攻撃論ともっとも対立する憲法であるがゆえに、日本こそそれに反対する立場にあったと思います。逆に言えば、海外派兵をしない、そういう侵略戦争を批判することが、日本国憲法の最も重要なモメントでした。ですから、日本国憲法は形骸化しているのではなく、現在の事態を批判する、それをストップすることができるところに日本国憲法の真価があると言えます。

平和への結集

私は「平和への結集」というものを提唱しています。平和運動の大きな問題点として、研究者と市民、市民と市民の間に、さまざまな分断が存在しています。しかし、この危機的状況を打開していくためには、バラバラにやっていてはどうにもならないのです。だから、大きな結集をする必要があるだろうということです。

危機に追い込まれた時に、結集をして状況を逆転した例は、日本史においては薩長同盟のような幕末の段階があります。中国では、国共合作という例もあります。危機的状況においては、ドラスティックな転換があって、はじめて状況を打開できるのです。日本の平和運動そして政治レベルでも「平和への結集」が必要だと考えています。

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