講座・講演録

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2005.12.27
講座・講演録
第269回国際人権規約連続学習会
世界人権宣言大阪連絡会議ニュース282号より
世界の貧困をなくすために・私たちの課題

川村 暁雄(神戸女学院大学教員)


アパルトヘイトと国際社会の類似

 「世界の貧困をなくすために・私たちの課題」とは、非常に大きなテーマですが、実はこの問題は1960年からずっと国際社会で議論されてきている、決して簡単には解決しない問題です。そこで今回は現在どのようなことが世界において問題として考えられているのか、またその中で日本の方向はどのような位置にあるのを考えていきたいと思います。

 まず貧困を人権問題としての観点から考えていきたいと思います。これを考える鍵としてアパルトヘイトと比べてみるとわかりやすいです。アパルトヘイトとは、南アフリカ共和国において長く行われてきた人種隔離政策のことです。これは黒人と白人の居住地を分けたり、両者間の結婚を禁止するなど、白人が優位な秩序を作ろうとした様々な政策の総称です。 

  このアパルトヘイト政策の中に、当時あまり目立ちませんでしたが、今の社会構造を考える上で参考になる政策がありました。それはホームランド政策というもので、南アフリカ共和国の中に黒人の各部族ごとの独立国(ホームランド)を与えるという政策でした。ほとんどの主権国家は自国内の地域の独立に強く反対するのに、なぜ南アフリカ政府はこのような政策を取ったのでしょうか。実は南アフリカ政府はこれによって黒人を国家が基本的人権などに関して責任を持たなくてもいい「外国人」にしたかったからです。つまり黒人を南アフリカ共和国に出稼ぎに来る外国人労働者とすることで、低賃金や教育を与えない等の差別を正当化しようとしたのです。もちろんこれら南アフリカ政府の狙いは明らかだったため、ホームランドは国際的に独立国として認められることはありませんでした。それどころかアパルトヘイトは平和への脅威であるという国連安全保障理事会の決議などもあって、90年代にはこの体制は崩壊し、現在は黒人大統領が誕生しています。

グローバル・アパルトヘイトは人権問題

  このアパルトヘイトの下での南アフリカで、2割の人口が国の富の8割を独占していたと言われています。そして実はこの数字は現在の国際的な貧富の格差とほぼ同じです。

  現在の国際社会では豊かな1%の人の収入と57%の貧しい人の収入とが等しく、8億4000万人が栄養不良、12億人が一日1ドル未満で生活しています。その結果、2割の人びとが何の責任も負わずに8割の人びとを外国人労働者として使うか、企業の海外進出により安い人件費や資源を利用しています。この状況はまさにアパルトヘイトと同じだといえます。つまり現在の国際社会における貧困の構造は、地球という社会での人権侵害の結果であると言わざるを得ません。グローバル・アパルトヘイトとしてこの点をぜひおさえていてもらいたいと思います。

 では今日の貧困問題は世界全体が取り組むべき人権問題として、どれだけ捉えられているのでしょうか。今日の国際人権の基準となる世界人権宣言の前文では、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認する」と謳われていますが、それを実現する責務が誰にあるかはそこには書かれていません。また、それ以降の文章では、その責務は一義的に国家にあって、国際社会はそれに協力すれば良いとされています。つまり貧困問題は原理的には人権問題ですが、それを解決するのはそれぞれの国家であって、国際社会はそれに協力すれば良いというのが今日の国際的な考え方です。   

  それでもこれまで先進国は途上国支援を行ってきたわけですが、それは政治的・経済的な視点で行われてきたものでした。例えば冷戦時代の非同盟諸国の取り込みや資源確保が目的で、貧困解決や人権を確立することとは視点の異なる支援でした。

 

貧困解消のための努力

 貧困はなくさなければならないとは、言葉の面だけであったとしても、国際社会はずっと言い続けています。実際に、1961年にスタートした「国連開発の10年」も2000年まで続いてきましたし、世界銀行などの国際機関も設立されました。また先進国がGNPの1%を途上国の支援に充てるよう求めた決議が国連で何度も採択されています。最近ではこの数字も0.7%に縮小されましたが、先進国平均の実態が0.25%に止まっているので、実に大きな数字であるといえます。

  ちなみに途上国への援助の多さを自慢している日本は、確かに総額は大きいのですが、対GNP比では04年は0.19%で先進国中第20位に位置しています。一方、北欧諸国はこれが非常に高く、1位のノルウェーでは実にGNPの0.87%がODAに充てられています。

  さらに最近ではもっと具体的な目標を示すために「ミレニアム開発目標(以下MDGs)」が2000年の国連ミレニアム・サミットで採択されました。ここでは、<1>極度の貧困と飢餓の撲滅、<2>普遍的初等教育の達成、<3>男女平等及び女性の地位向上の促進、<4>幼児死亡率の削減、<5>妊産婦の健康の改善、<6>HIV/エイズ、マラリア、その他の疾病の蔓延防止、<7>環境の持続可能性の確保、<8>開発のためのグローバル・パートナーシップの推進という大きく分けて8項目を、2015年までに国際社会が達成すべき目標として掲げています。しかし具体的内容は実現が難しいほど大きなものではないにもかかわらず、既に実現は危ういと国連で言われています。このままではMDGsも今後語られはするものの実施はされない目標となる可能性も否めません。残念ながらこれが現在の世界の現実です。やはりこの背景にはグローバル・アパルトヘイトを当たり前とする、あるいは貧困は他人の問題であって豊かな人の問題ではないとする考え方があるのではないでしょうか。

権利に基づく開発アプローチ

  これまでのような先進国政府や世界銀行などが途上国政府やNGOに金を単純に流し、インフラ整備を通じて経済支援をするようなシステムではうまくいきませんでした。アメリカの保守派に見られる援助ではなく、市場経済の力で解決すれば良いという議論もありますが、国内状況を見れば分かるようにいくら市場経済が発達してもそれだけで問題は解決していません。日本国内であれば自由経済といえども最低賃金などの労働者を保護する規制がありますが、世界規模でのそういった規制は存在しません。

  もちろん規制が存在する国内においても貧富の格差は拡大していますが、規制のない世界市場では国家間の競争が激化して、そのしわ寄せが全て労働者に行ってしまいます。その結果、一部の貧困はより深刻化するという、市場経済にはそういう一面もあります。

  これ以外に、これまで人道支援、BHN(Basic Human Needs)支援や人間の安全保障という言葉の下で様々な援助が行われてきました。しかし結局、問題解決には至りませんでした。そこで最近になって援助のあり方そのものを考え直す議論が登場してきています。それが権利実現支援(権利に基づく開発アプローチ)を中心に置くという考え方です。今後はこれが国内外で重要な考え方になるでしょう。

 これはそもそもこれまでの反省から、「貧困」とは単に物が足りないのではなく、人びとに自由や力がないために生じるのではないかという考え方から始まっています。これは日本の部落解放運動と照らし合わせれば分かりやすいと思います。   

  被差別部落の人びとが貧困状態にある時に物を与えられて問題が解決したかといえば、決してそうではありません。やはりここではなぜ貧困になるのかを考えなければなりません。被差別部落の場合、差別の結果社会から排除されて教育が受けられていません。教育が受けられないから就職できずに貧困化するといったように、差別の構造の中で貧困に陥ってしまっているのです。従って部落解放運動では人権が確立すれば地域がよくなるという議論が行われてきたわけですが、今日国際的にもこういった視点が議論されるようになってきました。

  差別の要因はそれぞれ異なりますが、「貧困」とは国内あるいは国際的にも力のある者と力を奪われている者との権力関係の問題、つまりは差別の問題ではないかというのがこの権利実現支援の考え方の中心です。そしてそれを解決して人権の基本に戻るためにその担い手としての政府が「責務実現能力」を強くして、人びとに対して責任を持てるようにしていくというのが権利実現支援の考え方です。

住民の視点に立った権利アプローチ

  権利実現の支援についての一例として、「セーブ・ザ・チルドレン」という世界中で活動しているNGOのスタッフから聞いた話を取り上げたいと思います。この団体はネパールの就学率を上げるために貧しい地域で識字活動を実施していましたが、就学率は一向に上がらなかったそうです。そこで支援の方法を子どもの権利実現のために社会を変えていくように働きかけていく方向に変えました。そしてすでにある学校をしっかり機能させるため、教員・親・子どもとの対話を重ねて問題解決を図っていきました。すると就学率は3年で大きく上がりました。

  要するに「何かを与える」とか「代わりに何かを行う」ということでは問題は解決しません。まず権利をそれぞれが認識して、それを担う責任を各自が果たすように支援することが重要です。つまり単に政府を強くするわけでも、NGOに政府の代わりをさせるわけでもなく、人びとの権利を要求する力を強めると同時に、それに責任を持って応えられるように政府も強くすることです。これが今後重要になってくる支援のあり方です。

  この考え方に立つならば、私たち援助する側のあり方も変えなければいけません。日本の社会保障を考えれば分かりやすいですが、これは私たちに認められた権利であるからこそ一定の条件を満たせばいかなる場合でも給付を受けることができます。しかし、もしそれが誰かの慈善事業だとしたらその慈善家の眼に止まった人だけが給付を受け、それ以外は要求さえできないでしょう。援助にも同じことが言えます。これまでのような援助する側が慈善的な自由意志で援助を行っていれば、受ける側の自己決定権を奪ってしまいます。ですから権利実現支援の観点ではあくまでも住民中心の視点が重視されます。   

  住民が権利実現のために必要とする支援を私たち、あるいは援助国政府が慈善事業としてではなく、人権実現のための責務や国際社会の義務として行っていかなければなりません。実際、国際的にはユニセフなどが少しずつこの方向に向かっていて、日本でも活動している「ほっとけないキャンペーン」等の権利に基づく活動に取り組むNGOの動きも出てきています。

日本の援助政策の問題点

 これに対して現在の日本の国際協力はどういう状況にあるかといいと、確かに外務省やJICAが「人間の安全保障」という言葉を使い始めたという良い面もいくつかあります。これは個人の尊厳を大事にする考え方であって、これ自体は良いことなのですが、彼らの議論にはなぜか「人権」の視点が欠けてしまっています。要するに日本が主張している「人間の安全保障」とは突き詰めると「弱い人間を守る」ということであって、国際社会で求められているような人間を弱くしている悪い要素を取り除いてその人自身の強さを出していこうとする人権に基づくアプローチとは全く異なっています。

  もう一つ気になるのは外務省から「援助は国益のために行う」という言葉がしばしば聞かれる点です。確かに世界全体が幸せになれば私たちも暮らしやすくなるので、広い意味では私もその通りだと思います。ただそれだけではなく、国際社会での日本の面子や一部の企業活動の保護などを意味した非常に狭い意味での国益が語られていることも多いのではないでしょうか。しかしそういった考え方は国際社会を歪めるものであって、永い目で見れば国益にはなりません。私たちが暮すこの社会は相互依存しているのため、本当の意味での国益は世界平和でなければなりません。そしてそれを実現するためにも権利に根ざした本当に必要な支援を行っていかなければなりません。

  そして何よりも重要なのは日本国内でもっと世界の貧困問題に関心を持つということです。人類の一員として全ての人権を確保するという視点で、一人でも多くの人がこの問題について考え、そして行動することが問題解決につながっていくと私は考えています。

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