講座・講演録

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2006.08.18
講座・講演録
第275回国際人権規約連続学習会
世界人権宣言大阪連絡会議ニュース288号より
中国残留邦人のおかれてる現状と人権

竹川英幸(大阪中国帰国者センター理事長)


私は孤児

  日本が敗戦した1945年8月、小学生だった私は満州(現在の中国東北地方)から引き上げる途中で孤児となりました。8月14日、私たち家族が暮していた千振の開拓団に避難命令が出されました。しかし、すでに関東軍も逃げてしまい、指令を出した警察もからっぽ、満鉄の社員もおらず汽車もない状態でした。また開拓団の男性たちは根こそぎ動員で牡丹江に応召されていたため、女、子どもだけで避難となり、私の母親も私を頭に、6人の子どもを連れて避難し、方正に到着して休憩していた時に暴徒に襲われました。

  当時開拓団が暮す中国東北部には暴徒がよく出ました。しかしそうなるのも無理もありません。なぜなら日本の開拓団が入植することで土地を奪われたのは中国の現地の人びとだったからです。彼らはいつ攻め込んでもいいようにと警戒をしますし、暴徒化して日本人を襲ったりしていました。

  休憩していた時、三八銃を手にしていた私は、その銃を振り回し抵抗しているうちに、頭を強打され、気を失って倒れました。しかし、母親は5人の子どもを連れて逃げるのがやっとだったため、仕方なく私をその場に残し立ち去ったそうです。

別離と死と逃亡

  その後、どのように彷徨い歩いたのか覚えていないのですが、私が朝鮮人の養父母によって倒れていたところを発見されたのは、勃利街道でした。その養父母に連れられ、朝鮮半島に移り住むようになりました。養父母と5年間一緒に暮らし、学校に通っていましたが、1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、当時暮していたソウルにも北朝鮮軍が入城したため、追われるように避難する中、養父と死に別れ、養母とも生き別れることになりました。

  一人ぼっちとなった私は、汽車もない中、教会を点々と泊まり歩きながら釜山へとたどり着きましたが、戦況は日増しに悪くなっていました。16歳以上の男なら誰彼かまわず兵隊に狩り出す始末でした。17歳だった私は、暗闇の中、突然、手から手へと引き渡されトラックへと乗せられ兵隊へと狩り出されました。私は戦争が嫌いです。朝鮮戦争が1953年に休戦協定となるまで戦場から3回逃亡しました。

  手榴弾に吹き飛ばされ負傷し、運ばれた陸軍病院でも逃亡しました。その後、避難している時にLSTに積み込まれた後、日本の横須賀へと搬送された時も私は逃亡しました。その時、逃亡の際に米軍キャンプで、GIバックに缶詰やチョコレート、タバコなどを詰め込んで脱走し、下関まで行く決意をしたのです。なぜなら、養父が死に際に「おまえは日本人だ」と言ったことを思い起こしたからです。どうしても本名は思い出せませんでしたが、日本で生まれ大陸へ渡ったのであれば下関からの船に乗ったに違いありません。ですから下関に行けば、何かを思い出すかもしれないと考えたのです。

  ようやく下関に到着した頃、空腹のあまり死にそうでした。ある日、港の桟橋に接岸しているアメリカ軍のLST(戦車揚陸艇)へ忍び込みました。食堂へ行くまでもなく、船倉にはぎっしりと乾パン、Cレイションの箱が積み込まれていたので、私はかぶりついて食べました。それからうとうとしているうちに眠ってしまい、気が付くと出航した後でした。祈るようにこの船が遠い未知の国へと私を運んでくれることを祈る思いでしたが、夜があけてみると釜山港に戻っていました。

生きるための選択

  釜山港に上陸すると、戦争は終わりかけていました。戦勝ムードのためかソウルまでの船が出ていると聞いて、私もソウルに帰れば生き別れた養母に会えるかもしれないし、今自分に帰るところがあるとすれば、それはソウルしかないような気がしたのです。しかし、養父母と一緒に暮していた漢江大橋の南岸の橋のたもとにあった家は、跡形もなく潰されていて、養母の消息も不明でした。

  1951年1月4日にまたソウルに避難命令が出されました。戦況が不利となると、逃亡兵狩りをはじめましたが、うまい具合に憲兵学校が生徒募集の広告を貼りだしていたため、私は入ることを決意しました。なぜなら自分から進んで軍隊に入れば、一番安全ではないかと思ったからです。憲兵は軍隊の警察であり、学校というからにはそれなりの教育期間があるはずです。つまりその期間は生命の安全が保障されると考えたわけです。

  40日間の訓練で兵長になったものの、同期が戦死するなど、私もいつ殺されるかわからない状況でした。私が憲兵になったのは生きるためです。その後、陸軍歩兵学校の幹部候補生コースに入り、陸軍少尉になりました。その後、休戦協定が調印されたことで、もう死ぬ心配がなくなりました。もう戦死の心配もなく兵隊が余っていたので申請すれば除隊が歓迎される時代になっていたため、私の足掛け8年の長い軍隊生活が終わり、気がつけば25歳になっていました。

信州での肉親探し

  1958年5月5日、退役の送別金を持って釜山へ行き、小型貨物船に絹の原糸を積み込んで日本へ戻りました。それを日本で売りさばき、帰りに化粧品雑貨を積んで戻ると、約20倍になる計算でした。

  ある日、宿泊先の旅館で私の話す日本語が信州なまりだと言われました。この話を聞き、信州へ行けば、肉親のことで何かの手がかりをつかめるのかもしれないという気がしました。その時、積荷の売却交渉や、化粧品の購入については船長に任せていたので、3日だけ休みをもらい、信州の長野へと向かいました。しかし、信州とは長野市だけと思っていましたので、長野駅に到着し、道行く人に聞いてまわり、そこで初めて肉親を探すには広すぎるとあ然としてしまいました。意気消沈して東京まで戻ったのですが、あらたな試練が私を待ち構えていました。

  なんと道を歩いていると、お金をすられていることに気がづいたのです。私はその時は唯一持っていたカメラを売れば何とかなるだろうと思っていました。しかし、どこの町でもカメラが売れません。ようやく大阪まで来て売れた頃には3日で戻るはずが5日も経っており、10日後に下関に戻った時には船は出た後でした。

  よその街ではカメラを買ってくれなかったのに、大阪では買ってくれたということから、私は大阪へ舞い戻り工事現場などで働きながら、夏は信州で肉親探しをすることにしました。しかし、これまでに私は2回の自殺未遂をし、大変辛い日々でした。

30年目の夏に

  景気がよく、私も多くの工事量を消化していたので、今年は家の1軒も建つのじゃないかと思っていました。しかし、石油ショックのためしばらく仕事を辞めることにし、時間があったので新聞を隅から隅まで読んでいた時です。新聞記事に中国残留日本人孤児が、わずかな情報を手がかりに見事に父親を探し当てたという記事の中に「中国残留日本人孤児問題の解決を見ない限り、日本の戦後は終わらない」という日中友好手をつなぐ会の山本慈昭会長の談話を見つけたのです。

  私は、山本会長へ自分が孤児になってから今日までのことを手紙に書いたものの、投函する勇気がありませんでした。それがしばらくたった頃、郵送した覚えのない山本会長から万年筆で走り書きされた手紙が届いたのです。当時、私は慶應義塾大学の通信教育を受けていたため、そのレポートと一緒に妻が間違えて出してしまった手紙への返事でした。

  「私も勃利では苦労しました」の言葉を読んだ瞬間、私の全身に電流が走りました。山本会長は私が拾われた場所で教師をしていたのですが、ソ連に連れて行かれて抑留されたために教え子や妻子が行方不明になってしまったのです。つまり会長は現地のことを全部知っていました。

  手紙には「あなたの場合、親がいなくても戸籍はつくれると思うから、戸籍をつくって3人の子どもを私生児のままではなく、自分の子どもとして立派に育ててあげなさい、うちはお寺だから宿ぐらいは貸しますからいつでも安心して相談に来なさい」と書かれていました。それで1975年9月17日に初めて会長宅を訪問しました。聞かれるままに自分の知っていることを全部話しました。その時、私はもし両親が生きて戻っているなら、同じ長野県で肉親探しをしている会長のところにいけば何らかの情報が得られると思っていたのですが、結局それはありませんでした。

  翌朝大阪に帰る前に朝食を頂いていると山本会長から、「ここを自分の家だと思っていつでも帰っておいで」と言われました。私は縁あって今の妻とはずっと一緒に暮していますが、12歳の時に日本が敗戦となり孤児になり、その後また17歳のときに朝鮮戦争で孤児になり、それまでの42年間帰る場所などありませんでした。そんな私に会長はいつでも帰ってきていいと言ってくれたのです。これで私にも帰るところができたと思うと嬉しくてありがたくて、帰り道を歩きながら涙がこぼれて仕方がありませんでした。

生きていた父母

  忘れもしない1975年9月27日、山本会長から両親が見つかったと電話がありました。私が18年間捜し歩いても見つからなかった親が、山本会長と出会い1週間で見つかったのです。両親は生きていました。5年前に親父が脳卒中で倒れて半身不随になったために旅ができないということで、私と会長が千歳まで行くことになりました。その30年ぶりの親子の再会は同年10月18日。

  その前日に会長は他の会員と私のために一席設けてくれました。その席で会長は「明日いよいよ30年ぶりの親子対面となったわけだが、感想を聞かせて貰えないだろうか?」と聞いてきました。まだ実際に会ったわけでもないので感想も言いようもありませんでしたが、ただ一つ自信を持って言えることがありました。それは現在1億2千万人以上いるといわれる日本人の中で私ほど惨めな半生を送った人はいないということです。それを言うと、突然山本会長は怒鳴り声を上げました。

  「お前は今までたった一人でずいぶん苦労してきたことだろう。だがよく考えてごらん、お前にとって弟や妹ぐらいの年代の中国残留孤児は何千、何万人いるかさえも分からない。お前は12歳で孤児になって苦労したとはいえ、両親が生きている間に再会できるじゃないか。それに比べて今も中国には自分の名前も忘れ、親が誰か分からず、いつ日本に帰れるかも分からない孤児がたくさんいる。その彼らに比べてお前は本当に自分が一番惨めだと言えるのか」といいました。

  戦争が終わって30年が過ぎた中国大陸に自分と同じ境遇の孤児がどれだけいるのか知らなかった私は、会長からそう言われると何も言えなくなって、下を向いたまま頭を上げられませんでした。すると会長は、『大阪には会の支部もない。だから支部を作り、その肉親探し運動を手伝ってくれないか?お前も孤児だったのだから、孤児の気持ちは誰よりもお前が一番よく知ってるんじゃないか』と言いました。これがきっかけになり私はこれまでずっと中国残留孤児問題に取り組んでいます。

戸籍について

  これまで一番腹が立ったのは、戸籍問題です。私には3人の子どもがいますが、私に戸籍がないために子ども達を妻の戸籍に入れるしかありませんでした。そのことが子どもの成長と共に重荷になっていました。そこで私が住んでいる都島区選出の国会議員に相談に行き、また人権週間に人権擁護委員による相談窓口へも行ってみましたが、両親が生死不明である以上、今の日本の法制度ではあなたには戸籍はできないといわれました。

  死ぬ思いで自分の国に帰ってきたのに、戸籍が認められないとは、そんなばかげた話はありません。ところが山本会長は親が見つからなくても戸籍はできると言いました。本当はできるのです。今大阪では2670世帯で約8000人の帰国者が暮らしていますが、その半分以上の人には戸籍がありません。これまで帰国者センターで勉強した何人もの人たちの戸籍をつくってあげています。一方で法律の専門家である弁護士は両親の生死が不明の場合は戸籍は作れないと言うのは、あまりに不勉強で信用しない方がいいのではないかと思います。

養父母への感謝と日中友好

  私は今まで生きてきた中で、自分が努力したとは思っていません。これまで本を2冊書いてきて、1冊目の『帰り道は遠かった』と言う本を書いているときに私は色々な人たちに助けられなければ自分は生きていなかったということに気がつきました。そこで自分はまず何をしなければならないかを考えた結果、養父母に恩返しをしなければならないと思いました。

  ところが調べてみると既に養父母の90%は亡くなっています。それならばその分を何らかの形で中国社会に返していこうということにしました。まずは中国の農村部の学校では教科書が不足しているというので、外務省を通じて中国政府の許可を取り、年間6万冊の教科書配布を3回行いました。その後、教科書の配布よりも費用が掛からないということもあって、学校が不足している地域で学校建設を行い、これまでに6校建ててきました。

  中国の瀋陽に「918歴史記念館」という建物があります。この記念館は1931年9月18日に列車を爆破、満州事変が始まった場所に中国政府が建てたもので、日本軍が行なってきた歴史的な記録が展示されています。その記念館の一番最後の部屋に孤児が養父母を見上げる等身大のブロンズ像が展示されています。

  この記念館に展示されている日本軍が行なってきたひどい行為の資料を見ていると、心ある人ならば嫌な気持ちになるでしょう。しかし、それらが展示されている部屋を過ぎて、最後の部屋に養父母への感謝の気持ちを表すこの像が展示されている事には非常に深い意味があるといえます。実際、中国政府関係者からもそう評価されています。過去の歴史は暗く変えることはできませんが、これからの日中関係は養父母のおかげで築かれた本当の友好関係であり続けなければならなりません。もし皆さんも瀋陽を訪れることがあれば、ぜひこの「918歴史記念館」にも足を運んでください。

*質疑応答*
Q,私は奈良で中国残留孤児の方々と関わっているのですが、最近では孤児の高齢化が進んで介護保険の受給対象となる人も増えています。
  しかし日本語が不自由なために制度の内容や手続などが分からず、悩みを抱えています。そこで中国語で書かれた介護保険の解説書などがあれば教えてください。

A,東京にある孤児援護基金という団体がそういった取り組みを重点的に行なっています。あるいはその下部組織で大阪にもある支援センターに聞いてみてください。

  この支援センターでは介護保険関係の取り組みを行なっていて、いずれはセンターの教育の中でケアーマネージャーの資格が取れるように準備を進めているそうです。だから今現在そのような資料がないとしても、いずれ作られるはずです。

  中国帰国者のための老人ホームについてですが、実は3年前に厚生労働省の担当局長から帰国者のための老人ホームを作る話があり、私も中央省庁の人と一緒に大阪府への働きかけを行なってきました。でも残念ながら現在も実現していません。

Q,中国にいる養父母への支援はどうなっているのですか?

A,中国残留孤児援護基金が養父母一人に対して扶養費として日本円で60万円を送っています。基金は財団法人で、民間からの寄付で集められた5億円と国庫からの5億円の合計10億円の財源によって運営している団体です。

  そこから中国の紅十字会を通じて養父母に扶養費が支払われているのですが、60万円が一度に支払われるわけではありません。中国の農村部では月収が人民元で200元程度なので60万円は相当な大金になってしまうため、何度かに分けて支払われています。

※ 「私生児」という表現は差別的であるため、現在では「婚外子」と呼ばれていますが、引用文のため原文のままにしました。
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