世界の障害者の現状
日本の障害者人口は2002年の推計では身体障害351万人、知的障害45万人、精神障害258万人の合計655万人で、全人口の約5%に当たります。そしてアメリカは1990年に制定されたADA法の前文に4300万人の障害者がいると明記しています。たしかにアメリカの人口は日本の倍以上ですが、比率で考えればいかに多いかが理解できます。一方中国には5000万人の障害者がいるといわれ、人口を13億人だとすると中国の障害者は4%にも満たないのです。また世界人口の推計では6億5000万人が障害者で、世界人口の約10%弱にあたります。
なぜ国によってこれだけのばらつきがあるのでしょうか。その問題を解く1つの要因として「時代の進歩によって障害者は減るのか」という問題があります。たとえば障害の発生原因となる労災や交通事故等は時代が進んでも起こり続けています。しかしこれらの被害者の中で昔なら亡くなっていたような人も、医療の発達によって重い障害が残ったとしても生存することができるようになりました。また乳幼児死亡率の逓減によって障害を持って生き続ける子どもも増えています。つまり文明が発達しても障害者が減ることはなく、むしろ増えているのです。
しかし社会がさらに進歩して、障害の有無を個性として、当たり前のこととして捉え、すべてにおいて差別も不自由もなくなれば、「障害者」として特別視する必要すらなくなるかもしれません。時代の発展は障害者を増やすことと減らすことの両方の可能性があると私は考えています。
障害の概念
またもう1つの大きな要因として、「そもそも障害とは何か」という問題があります。例えば私はなぜ障害者なのでしょうか。この問いに対して多くの人が「足が動かないから」「階段が登れないから」などと答えるでしょう。なぜなら彼らが「それが障害者だ」と思っているからです。何をもって『障害』と考えるかについてはメディカルモデル(障害=身体的、知的、精神的な機能障害)と、ソーシャルモデル(障害=社会が個人の能力や機能に関して、一定の基準に達することを、個人に要求することによって生じる社会的障壁や態度)と言う2つの概念があります。前述の答えは極めてメディカルモデルに偏った考え方です。つまり「機能障害があるから障害者だ」というのですが、果たしてそれだけで私は障害者なのでしょうか。
たとえばこの建物にはエレベーターがありました。ですから私はこの2階にある会場まで来ることができましたが、もしエレベーターがなければ今回のような社会参加はできなかったでしょう。その場合、参加できない原因は私の足が動かないからでしょうか、エレベーターがないからでしょうか。仮にここが高層ビルの100階ならば、皆さんもエレベーターがなければ参加は難しかったはずです。だが高層ビルには必ずエレベーターがあるように、皆さんの基準でできないことに対しては社会が何らかの手立てを打っています。しかし障害者に対してはそういった手立てを用意することなく、「できないのは足が動かないから」と原因を個人の問題へすり替えているのです。障害者の蒙る社会的不利益は、社会のあり方に起因する。これがソーシャルモデルの捉え方です。
このように障害の根本的な概念には対立する2つの考え方があります。そしてこの概念のいずれを選ぶかによって『障害者』を位置づける幅が大きく変わってきます。なぜなら前者では明確な機能障害を有する人だけが障害者となりますが、後者では機能的に障害があると言えなくても、例えばユニークフェイスの人達のように身体的特徴を理由に差別される人も対象とすることができるからです。こういったことが国によって障害者の比率がばらつく原因なのではないでしょうか。
国際的にもWHOが同様に2つのモデルを提唱しています。1つは1980年に示された国際障害分類の障害構造モデル(ICIDH)です。これでは疾患が機能障害を引き起こし、その機能障害が走れない等といった生活上の能力障害となって、他人と同じように行動できない、就職できない等といった社会的不利を被るに至ると定義づけています。その結果、社会的には機能障害を教育や訓練で一般に近づけることで不利益を軽減しようとする方向に進んでいったのです。
これに対してもう1つ国際生活機能分類の生活機能構造モデル(ICF)が2001年に示されています。ここでは先のような直線ではなく構造的に因果関係を捉え、障害の発生には個人的因子だけではなく社会・環境的因子も関係しているとした点がICIDHとの大きな違いです。前述の両モデルの間に位置する考え方が、今回の条約にも反映されている考え方といえます。
またこのような考え方をもとに福祉施策の分野でも2つのモデルが提唱されています。1つは福祉サービスモデルというメディカルモデルを前提とした考え方で、障害問題は個人の問題であって社会の余力の範囲で慈善的に障害者を援助する考え方です。もう1つはソーシャルモデルを前提とした権利保障モデルで、障害問題は個人の問題ではなく社会のあり方の問題であって、障害者の権利保障と差別の禁止を実現しようとする考え方です。
権利条約の目的
スウェーデンでさえ労働に関して差別禁止法が作られたように、日本や北欧のように福祉サービスを充実させても差別はなくなりません。またアメリカのような人権保障的アプローチを取る国では、所得や介護といった福祉サービスが不十分という問題を抱えています。つまりどこの国に生まれるかによって障害者の生活は大きく変わってしまうのです。しかしこれは先進国の話であって、どちらもない途上国の障害者は生きるか死ぬか、生きるとしても極貧の生活しかないのです。こうした状況を受けて「世界のどこに住んでいても最低限の権利は保障されなければならない」というのが今回の条約制定の最大の目的です。従って今回の条約をクリアするのも容易ではありませんが、これは最高の状況を生み出すのではなく最低限の内容なのです。
日本の現状
日本の障害者支援は施設処遇と在宅支援の二極分化にあります。日本に住む障害者のうち約10%の66万人が施設で、それも大半が一生にわたる長い期間を過ごしています。私も中学生の時に施設に入ったことがありますが、障害が軽度だったために短期間でそこを出て、その後は社会で他の同世代の人と同じように様々な経験をして現在に至っています。しかし同時期に施設にいた重度の障害者は職員の都合で決められた単調な生活スケジュールの中で365日過ごし、現在に至っていると思います。
たしかに施設は虐待でもない限り、命は保障してくれます。しかし彼らは命の保障を担保に何を失ったのでしょう。それは人生そのものだと思います。皆さんはこれまで自分の意思でそれぞれの人生を歩んでこられたでしょう。しかし施設の中には何の選択肢もないまま生きている人が66万人いるのです。人生の前半は養護学校で後半は施設、といった生きる時間と空間の分離による差別は絶対にあってはいけません。アメリカでは黒人と白人の分離は差別だとしたブラウン判決がありますが、日本のこうした状況は法的に入所が強制されていなくとも現実的には制度的な差別だといわざるを得ません。
一方在宅障害者の状況はどうかというと、一般の有業者割合が60%であるのに対して障害者は12%しかありません。これは障害者に対する就労差別、社会参加の障壁の存在を示す数字です。たしかに働くことだけが社会参加のすべてではありませんが、働きたいのに働けない差別の実態をこの数字は表しています。つまり日本では制度にすら差別が存在しているのですから、個別にはもっと多くの差別があるでしょう。それに対する支援策は自立支援法しかありません。しかしこの法律は自立を支援するどころか、自立させないための法律のようなもので、実際に全国で悲鳴が上がっています。こうした慈善的地域生活支援や施設収容の問題が根本的な課題なのです。
障害者の権利条約の必要性
条約は12月か1月に国連総会で批准される予定で、現在最終チェックの段階です。条約審議のプロセスにおいて障害者及び関連団体はNGOとして参加し発言する事が認められ、また、政府代表団に障害者自身を参加させる国も多数ありました。NGOは一貫して“Nothing about us, Without us(私達を抜きにして、私たちのことを決めるな)と主張し、障害当事者の意見がかなり反映されたことは、大きな成果でした。
そもそもなぜ障害者に特化した人権条約が必要なのでしょうか。それは既存の人権条約が障害者問題にあまり役立たなかったためです。これまでの条約は障害者を権利主体と認めてはいましたが、子どもの権利条約以外では障害を理由とする差別について明文化されることはありませんでした。日本国憲法や国際人権B規約(自由権規約)も同様です。憲法学者は「憲法第14条は障害を理由とした場合にも適用される」と言いますがが、なぜ直接規定しなかったのでしょう。
それは、それらの制定当時には国連の人権部局でさえメディカルモデルが障害の捉え方の基礎にあって、障害者が他と違う扱いを受けてもそれを差別だと捉える発想がなかったのでしょう。つまり障害者は保護の客体でしかなく、自由権の対象からはずされていたのです。
また差別の概念の狭さも指摘できます。たとえば車椅子利用者が混雑している時に切符を買って改札を通ろうとした時、駅員に「忙しいときに来ないで欲しい」と追い返された事件がありました。この場合は不合理に違う取扱を受けて不利益を受けたのだから、従来の概念でも差別として認められていました。しかし改札は通すけれど他の乗客にサポートしないのと同様に、車椅子利用者にも手を貸さないといった場合はどうでしょう。従来の概念では同じ取扱である以上、差別とすることは難しかったのですが、実際に障害者はこれによって不利益を被るので、同じ取扱でも合理的配慮を欠いた場合は差別であるとする概念が重要です。
今回の条約の基本的コンセプトは、障害を持たない人の有する以上の新たな権利や特別の権利を創造するものではありませんが、実質的平等を確保するために例えば、合理的配慮をするという新しい概念を創出しなければならないという点にあったのです。
権利条約の内容
条約の中身について、問題になったのが障害の定義でした。草案の作成当初は前述した2つのモデルの間での定義づけが非常に難航し、定義づけを行なわない方向で議論が進んでいました。しかしそれではいけないということで結局は前文と1条に「障害とは機能障害だけでなく、物理的環境や人々の態度といった社会の障壁との相互作用によって生じる」といった、両モデルの中間的なポイントを入れ込むことでまとめました。
次に2条の差別の定義について、ここでは障害に基づくあらゆる区別・排除・制限が差別であって、それを成す明確な目的及び結果的にそれにつながる効果を持つものを障害に基づく差別だと位置づけています。つまり意図的な差別だけでなく、差別する意図はなくても客観的に差別につながるものはすべて差別だとしています。日本ではあからさまな差別よりも問題行為者の無知や偏見が生み出す差別、間接差別が多いので、この点が規定されたのは大きな意味があります。
また前述の通りあらゆる形態の差別の中で、合理的配慮の否定も差別に含むことが明確に記されたことも非常に重要です。ここで言う合理的配慮とは、「特定の場合において必要とされる、障害のある人が他の人との平等を基礎として、すべての人権及び基本的自由を享有しまたは行使することを確保するための、必要かつ適当な変更及び調整であり、不釣合いな、または過度な負担を課さないもの」を意味しています。これが含まれたことで差別の定義は大きく変わります。特に労働や教育等の場面では非常に大きな意義を持つことになるでしょう。
今後は一定の範囲内で障害者支援のために必要な配慮が必要となり、障害を理由にした解雇や分離教育の現状に大きな変化が期待できます。例えば現在、多くの会社の就業規則には労働者が「心身の故障により職務に堪えざる時には解雇できる」という規定がありますが、条約では必要な配慮を行い、働きつづけられることを求めています。学校現場においてもインクルーシブ教育を進めるように規定されました。この件については、日本政府は当初真っ向から反対していました。途中で姿勢を変え、賛同しました。分離から統合へ大きく梶を切った意義は歴史に残るものといえますが、しかし、実際にどれだけインクルーシブ教育が進んで行くかは、今後の活動にかかっています。また、手話が言語として認められ、口話中心のろう教育は手話による教育に改めなければならなくなりました。ろう者の手話言語獲得にはろう者集団の確保が必要不可欠となりますので、この意味では、手話を言語として教育を受ける権利を保障するための分離教育は質を高める形で残ることになります。
このような変化が期待できるからといっても楽観視はできません。特にこの条約の批准が子どもの権利条約のように、国内法制にあまり影響しないままで終わらせてはなりません。お飾りのために作った条約ではないのですから、むしろ大変なのはこれからです。従ってこの条約をいかに国内法制に反映させていくかということが、自立支援法の問題と並ぶ今後の当事者運動の最大の課題なのです。
さいごに
皆さんは今日、この場にいらっしゃるのに誰かの支援を受けてきましたか。「いいえ」という方が多いでしょう。しかし、多くの方が公共交通機関を使い、様々な建物を利用していらっしゃったはずです。それらのものはこれまで膨大な時間、人的資源、税金をかけて創りあげてきたものです。それが利用できる人、できない人の格差があります。
情報格差という問題もあります。機能障害があっても情報にアクセスできるようなシステムを作ることはそれほど難しくないはずです。
その他、労働、日常生活、いろんな場面で格差がありますが、障害者はこのような中で生活することを強いられています。合理的配慮やアクセス権の保障は、このような格差社会を前提に、これらの格差をなくすことを求めるものです。
しかし、これらの要求はなにも、障害者だけのためではないのです。人の能力や個性は千差万別であって、標準的な人というのは居ないはずです。障害者の視点に立って社会を変革することは、ひいては、一人一人の有様に対応できる社会に変えていくことになります。障害者に住みやすい社会は、皆さんにとっても住みやすい社会です。そのような社会を創っていきましょう。