講座・講演録

部落問題・人権問題にかかわる講座情報、講演録を各カテゴリー毎にまとめました。

Home講座・講演録>本文
2007.06.04
講座・講演録

採択された「強制失踪防止条約」の意義と課題

阿部 浩己(神奈川大学法科大学院教授)


はじめに

 日本で「強制失踪」といえば朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)による拉致問題が連想されるでしょう。しかし、強制失踪の問題は世界のあちこちで起きてきました。今日は、グローバルな視点から、国際社会がこの問題とどう向き合ってきたのかについて学びたいと思います。

 

「強制失踪防止条約」の誕生

 「強制失踪防止条約」とは正式には「強制失踪からのすべての者の保護に関する国際条約」(外務省仮訳)と言い、2006年12月20日に国連総会で採択されています。日本を含む103カ国が共同提案国となっていることからも、国際社会のこの問題への関心の高さがうかがえるでしょう。

 第61回国連総会においてカリファ議長は、「強制失踪は世界的現象で、1980年以来、90以上の国において5万1千件以上あった。2005年だけでも500件以上の強制失踪が新たに報告されている。この条約は強制失踪を防止し、実行者を裁くとともに、被害者の救済をはかるものである」として採択を要請し、それに各国が応えて条約は採択されたのです。

 そして採択後に各国が自国の立場を説明したのですが、ここで北朝鮮と日本の間で答弁の応酬がありました。日本が本条約の成立を歓迎する趣旨の発言をすると、北朝鮮は日本が拉致問題を政治的に利用していると批判し、加えて第2次大戦中の日本による何十万人もの強制連行や性奴隷、1992年に日本に拉致された青年の事件について言及したのです。これに対して日本は答弁権を行使して数字は誇張で、拉致は一切していないと主張し、それに対して北朝鮮が再反論するというやりとりが繰り返されました。その情景は、記念すべき条約採択時のものとしてはいささか異様でした。

 

日本政府のねらいは

 日本の強制連行や北朝鮮の拉致がぬぐいようのない事実だとしても、その当事者である両国が強制失踪防止条約成立の最後の段階で、自国のことのみにこだわってそのようなやりとりをする様子は、「この条約の普遍的意義をどこまで踏まえているのか」という疑念を抱かせるものでした。

 また日本政府は早々とこの条約への署名を済ませていますが、まだ批准を行なっていない段階で、極めて異例なことに、条約の仮訳文を外務省のホームページに登載しました。これは条約に対する強い意欲ともとれますが、同時に政治的な思惑があるともとれるのではないでしょうか。

 その思惑とは、ある新聞で『「拉致は犯罪」という国際社会の声が明文化された意義は大きい。日本一国にとってみても「北朝鮮への圧力となり、拉致問題解決への強力な後押しとなる」(外務省)からだ。6か国協議合意を受けて今月中にも開かれる日朝関係の作業部会でも、この“条約カード”を有効に駆使し、拉致問題の進展につなげたい』と報道されているとおり、北朝鮮に圧力をかける“条約カード”、つまり政治的手法として利用しようとすることです。

 このことは、条約の趣旨にとって好ましくないのではないか、という疑問が私には残っています。

 

強制失踪の広がり

 人間の姿が消える事象は、いわゆる蒸発や戦争中あるいは自然災害での行方不明など、決して珍しいことではありません。しかし強制失踪というのは条約にもある通り、同じ「人が姿を消す」事象であっても、政府が直接・間接に関与して、ある人間を拉致し、その後の消息をつかめなくすることです。強制失踪について、私たちは日本と北朝鮮の関係だけで考えがちですが、カリファ議長も言及したように、国際的な問題となっています。

 その現代的起源は1941年12月7日にナチスドイツが出した「夜と霧」令(「ドイツの安全保障を脅かす」者を占領地域から秘密裏にドイツに移送。痕跡消失。所在情報は一切明らかにされない。)であるとされています。1960年代にグアテマラ治安部隊がそれを採用し、1970年代にはアルゼンチンやチリなどラテン・アメリカの軍事独裁政権の国々に広がり、多くの人びとが姿を消しました。さらに1980年代に入ってからもアジア、アフリカ、ヨーロッパで、そして東アジアでも事例が確認されています。

 これに対して国連は、1980年に国連強制失踪作業部会を設置して調査し、2005年11月30日までに51,236件の失踪事件を扱い、その時点で「79カ国41,128件の強制失踪事件が解明されていない」という報告が出されています。その後も年間何百件もの強制失踪が世界中で起こっており、これは日本と北朝鮮だけでは片付けられない国際的な問題なのです。

 

強制失踪への国際的対応のはじまり

 なぜ政府は強制失踪に訴えるのでしょうか。その理由は「責任の否認」と「責任の転嫁」(情報の撹乱)にあるといえるでしょう。政府にとって不都合な人間を法の外で強制的に排除し、所在を問われても自分たちは知らないと責任を否認する、あるいは反政府組織の犯行として責任を転嫁することで、政府は自らの強圧的な政策を推し進めようとするのです。

 しかし政府は認めなくても、政府が加担したに違いないと訴えるチリやアルゼンチンの被害者家族たちの粘り強い活動で、問題が顕在化していきました。例えばアルゼンチンのNGO「5月広場の母たち」の活動が有名です。

 彼女たちは軍事政権によって強制失踪させられた被害者の母親たちで、毎週木曜日に大統領府のある宮殿の前の「5月広場」という公園で、白装束で失踪者の写真を首から下げて静かに行進するという活動を続けていました。

 政府側は最初は無視をしていたのですが、彼女たちが次第に支持を集め始めると、ネガティブキャンペーンやメンバーを強制失踪させるといった弾圧を始めました。一方でアメリカの広告代理店を使って観光キャンペーンまで行なうなど、巧みな外交戦術で国内の人権問題を国外から指摘されないようにしてしまいした。

 しかし、この後に述べる国際機関の活動や、サッカー・ワールドカップで世界中からアルゼンチンを訪れたジャーナリストによって「5月広場の母たち」の存在、そしてラテン・アメリカでの強制失踪等の人権侵害の実態が世界に広められていったのです。

国際機関の動き

 国際機関の動きでは、2つの流れがありました。

 まず1つはこの問題がラテン・アメリカで起こっていることを受けて、アメリカ大陸の地域機関であるOAS(米州機構)の米州人権委員会の先駆的活動がありました。具体的には1973年のチリのクーデター以降、明示的に強制失踪を非難し始め、1979年9月にアルゼンチン現地調査を行なって、刑務所で秘密裏に11人の女性と31人の男性が拘禁されていたという驚くべき事実を発見したのです。これを受けてOASは、1979年にチリ非難決議と各国への強制失踪対処決議を、1983年には強制失踪を「人道に対する罪」と性格づける決議を採択しました。しかしOASの活動はアメリカ大陸という地域に限定されたものでした。

 強制失踪に対する関心を世界的に高める契機となったのは、もう1つの流れである国連の働きでした。先述のとおり国連は1980年に国連人権委員会(現国連人権理事会)に強制失踪作業部会を設置していますが、この設置に至るまでには激しい政治的なやりとりがありました。

 1973年のクーデターに関心を持った人権委員会は1974年にチリの人権状況に関する作業部会を設置してチリの人権問題に取り組み始めました。その最中の1976年にアルゼンチンでもクーデターが起こり、アムネスティの報告などによってこちらにも深刻な人権問題が起きていることが明らかになりました。その後、アルゼンチン政府の抵抗もありましたが、国連は強制失踪への取り組みを進め、ついに1980年に強制失踪作業部会を設置してこの問題に対する姿勢を明らかにしました。

 しかしこの時点では、まだ強制失踪の定義やそれについての国際法のルールが不明確でした。その後、NGOのイニシアチブのもと、国連強制失踪防止宣言や米州強制失踪防止条約の作成へ向かっていったのです。

 

条約制定までの経緯

 強制失踪に対する宣言や条約の作成が本格化したのは、1981年にパリ弁護士会人権研究所が国際コロキアムを招集してからでした。ここで、後の国連強制失踪防止条約の成立にも大きな影響を与えたNGOのラテン・アメリカ被拘禁者・失踪者親族会連合(FEDEFAM)が、すでに条約の草案を提出しています。

 こういったNGOの動きはラテン・アメリカでさらに活発化し、それに応える形で国連でも1988年にパリ・コロキアムの報告者でもあったルイ・ジョアネ(フランス)が国連人権小委員会に宣言案を提出します。それがNGOの協力もあって、1992年に「強制失踪からのすべての者の保護に関する宣言」として結実しました。しかし宣言には法的拘束力がなかったこともあり、その効果は不十分なものでした。

 そしてOASが1994年に「人の強制失踪に関する米州条約」を採択した流れも受けて、国連でも1996年からいよいよ条約作りが始まりました。

 具体的には、1996年に人権小委員会の要請によりルイ・ジョアネが強制失踪防止条約案を提出し、それをNGOと協力して人権小委員会条約案にまとめ、1998年に人権委員会へ送付しました。これを受けて人権委員会は、2003年に草案作成のための作業部会をスタートさせます。この作業部会における5回の会期を経て起草作業は終了しましたが、自由参加であったこの作業部会には、さまざまな思惑を持った政府が多数参加して作業が進められました。

 この間の特徴としては、フランスが中心的に条約採択を推進し、アルゼンチンとチリが過去の反省からそれを支えていた点があげられます。また当事者の声を国連に届け、抽象的になりがちな議論を条約の必要性という現実に引き戻したという意味で、FEDEFAMの存在は大きかったといえるでしょう。一方、日本政府はどうだったかというと、当初はさしたる関心もなかったようでしたが、北朝鮮が拉致を公式に認めた後からその姿勢に変化が見られるようになりました。しかし他の人権条約の制定過程と同様に、全体を積極的にリードすることは最後までありませんでした。

 

条約制定までの議論の中身

 議論の中身で注目すべき点は、まず2条の強制失踪の定義です。本条約では「直接的・間接的な国の機関による自由を剥奪する行為」「自由の剥奪を認めないこと」「失踪者の消息・所在を隠蔽すること」「失踪者を法の保護の外に置くこと」を強制失踪の構成要件としていますが、「法の保護の外に置くこと」を含むかどうかがかなり議論されました。英国や日本などはこれを構成要件の不可欠の一部と主張しましたが、ラテン・アメリカ諸国は強制失踪の「結果」に過ぎないと主張。結局は議長の判断で、両方の解釈ができるような内容に落ち着きました。外務省の仮訳を見ると、この部分について、日本政府の認識を上手に反映させる訳語が用いられていることが分かります。

 これ以外でも非国家行為体の取扱い(3条)や真実を知る権利(20条1項)が議論されましたが、最も集中したのは条約の形態と履行監視機関についてでした。

 そもそも強制失踪の問題については、新しい条約を作るのではなく、既存の自由権規約に強制失踪に関する選択議定書を設けて、自由権規約委員会の主導の下で取り組めばよいという意見が、起草段階では多数でした。これに対してラテン・アメリカ諸国や議長、あるいはFEDEFAMの粘り強い主張によって条約とその委員会が新設されることになったのです。

 しかしここにも妥協点があり、発効から数年後の締約国会議で強制失踪委員会を自由権規約委員会に吸収させるかを判断する、という内容が条約に盛り込まれています。なお履行監視機関の機能としては政府報告審査、現地訪問(当該国の同意必要)、個人通報(選択的)、緊急行動の4つが規定されています。緊急行動はきわめて特徴的なものです。また、国連事務総長を通じ国連総会に注意を喚起することもできます。

 

おわりに

 「強制失踪防止条約」ができたことによって強制失踪がなくなるかどうかはわかりません。なぜなら、「どうして強制失踪が起こるのか」という構造的な部分が議論されないままになっているからです。

 しかしこの条約は被害者の声、それを受け止めた専門家、過去を反省して問題に立ち向かおうとする政府などの連帯によって生まれました。確かに条約成立以前の事件には適用しないといった制限も条文で明記されていますが、「強制失踪を許さない」ということが再確認できただけでも、これまでの被害者に対する大きなメッセージになると思います。また、9・11以降、アメリカが対テロ戦争で行なっている不正規移送という新たな強制失踪にも効果を発揮することが期待されます。


質疑応答

Q,この条約は例えば従軍慰安婦問題の裁判に効果はあるのでしょうか。

A,直接に適用はできませんが、間接的に利用できるのではないでしょうか。

 条約の効果を過去に遡及させてほしいと被害者は思うでしょうが、それは国家・政府の利益に反するので、あえてその点は明文で否定されています。しかし「過去を克服しなければならない」ということはラテン・アメリカだけでなく、世界的にも当然の流れになってきています。従って、条約の発効以前の被害者であっても相応の被害を受けたのであれば、条約で保護される被害者と同等の処遇を受けなければ公正さを欠く、という議論はできるのはないでしょうか。

Q,アムネスティでは人権侵害を犯した者を免責しない運動を行なっています。また、人道法でも人権侵害には時効を設けないと規定しています。その点はどう考えられますか。

A,現在、重大な犯罪に対して処罰を求めることが世界的な流れになっており、「不処罰の連鎖」がまかり通っていた時代と決別するためにも、それが必要であることを私も認めます。しかし、そこに問題がないわけではありません。

 犯罪者を処罰することは、その人を社会の中で自立した「個人」としてとらえ、その「個人」の責任を追及することです。しかし人間というのは、「社会的構造」の中で動いている側面も強いのです。犯罪の背後には、犯罪行為を導く「構造的要因」があることを忘れてはなりません。そう考えると、「個人」をいくら処罰しても、「構造的要因」がそのままであれば本質的な解決にはならないのではないでしょうか。

 強制失踪や戦争犯罪がなくならないのはまさにそのためでもあるのです。確かに処罰は必要ですが、それですべてが解決するという発想で議論を終えてしまってはならないということです。

著書