はじめに
「水平社創立宣言」は西光万吉(1)によって起草された日本史上初の人権宣言といわれています。しかし近年「西光万吉起草・平野小剣加筆」説なる謬論が徘徊しています。それは西光万吉の精神史の未解明な情況を反映したものであり、そうした誤謬に終止符を打つという意味も含めて、本日は話を進めていきたいと思います。
西光万吉と水平社宣言
私は西光万吉と直接会ったことはなく、1970年3月20日に彼が亡くなったことを新聞の訃報記事で知りました。それまで水平社宣言や西光万吉など全く知らなかった私でしたが、彼の死を知ったときにそれらとの関係性を自覚したのです。
その訃報記事には彼の友人である阪本清一郎(2)の次のような弔文も添えられていました。『「全国に散在する特殊部落民よ団結せよ、長い間、虐められてきた兄弟よ…」で始まるあの格調高い文章は、西光さんのものだ。ロマン・ロランに傾倒していた君ならではの迫力あるものだった』と、水平社宣言が西光万吉によって書かれたものであることを証明する文章だったのです。
私の周りでも水平社宣言を読んだ多くの人が感動し、単なる表面的な感動にとどまらず心に根を張り拡げる文章だという感想を持つ人がたくさんいます。例えば清塚良三郎(3)氏は70年の「荊冠の友」第47号で『水平社宣言は、全部落大衆の聖典であり、しいたげられた人びとにあたえた生命の源泉でありました。あの輝かしい光に接した時、残虐のしもとに打ちひしがれて、立ちすくんでいた私たち若者に、衝撃的に能力をあたえ、不屈不撓の闘魂を誘発し、天地の公道を活歩するの確固不抜の信念を抱かしめたのであります』と評しています。なお、映画評論家の白井佳夫氏が雑誌「部落解放」(2007/5)で『「しんみり思考」の枠をぶち破って、人間に、より深く能動的にものを考えることを触発させるものがある』という表現は、まさに「水平社宣言」にあてはまります。
現在、私は関西大学の委嘱研究員ですが、人権問題の授業を担当することがあり、授業後に学生は次のような感想を寄せています。『今回はじめて宣言を読みました。文章が力強く、すごく伝わってきました。「ケモノの皮剥ぐ報酬として生々しき~人間の血は涸れずにあった」の文はとても気持ちが伝わり、胸が苦しくなりました。私はこの宣言を読むまで部落問題を少し軽く考えてしまっていたのかもしれません。この宣言を成人を越え始めて目にする事さえ問題なのかもしれないと感じました』というものです。
読む者の心をここまで揺さぶる文章を起草した西光万吉の精神史を極めたいと思い、私はこれまで研究を続けてきたのです。
人権宣言としての水平社宣言
では次に、水平社宣言そのものを見ていきたいと思いますが、まずその意義について同志社大学の住谷悦治氏は次のように述べています。『あの「水平社創立大会」で読み上げられた「水平社宣言」は、実に堂々たる「人権宣言」である。しかも、それは西光万吉さんが起草されたものである。わたくしは、アメリカの「独立宣言」を起草したジェッファーソンや、先般の「世界人権宣言」、前の第一次世界大戦後の「国際連盟」の宣言を起草したルネ・カサンが如何に苦心し、心血を注いだかを思うとき、宣言そのものの堂々とした不朽の意義と、その素晴らしいかくれた功績を讃えずにはおれないのである。西光さんの「水平社宣言」は、これらの宣言に劣らない優れたものであって、歴史的に持つ意義も大きく、その功績がつくづくと偲ばれるのである』。
このように水平社宣言は人権宣言であるとされていますが、その根拠となる水平社宣言の人権思想は次の4点になるといえるでしょう。まず宣言の中の「陋劣なる階級政策」の部分で国家の人民支配策(身分制)に対する批判をうたい、「自由、平等の渇仰者」の部分で国家権力によって拘束しえないもの(法的主体としての地位)としての承認を迫り、「人間を尊敬する事」の部分では人間の尊厳性の復権(独立自尊の覚醒)を唱え、「人間が神にかわらうとする時代」の部分では宗教の支配を越える、人間の尊厳要求を行ったことにあると私は読み取っています。
宣言の中の国家批判と融和運動批判
さらに読み深めていくと、水平社宣言の国家批判が見えてきます。つまり当時の天皇制国家は「陋劣なる階級政策の犠牲者」である部落民に対する顕在的敵対者であるとして、国家の人権政策を告発・糾弾しています。また、国家が人権の本質である自由・平等を侵害しているのに対して、水平社宣言は自由・平等の渇仰者であり実行者として、自己決定権の尊重・人間の尊厳性の平等を主張しているのです。そして、西光は宣言の中で「いたわる」という言葉を「勦(いた)わる」という人間を潰してしまうという意味の漢字で表すことによって、同情は人をダメにするという思いを込めて、当時の道徳律批判(融和運動批判)も行っていたのです。
西光の精神が刻まれた水平社宣言
水平社が結成されるおよそ一年前、「中外日報」(京都の宗教新聞)で三浦大我(4)は西光万吉らの動静を伝えていますが、それらは西光が「警鐘」(大福村/三協社)に寄稿した論説や詩或いはまた水平社創立趣意書の「よき日のために」にもリンクしていることを、今回初めて発表します。
さて、当時の西光の苦悩を知る、幼馴染であり創立者の一人でもあった阪本清一郎は、当時を次のように語っています。『彼が部落民として、少年、青年時代になめた苦悩は実に深刻なものであって、そのために幾度か自殺をはかったのですが、その苦悩の中から、水平運動に立ち上がり、あの歴史的な水平社宣言が生まれたのです。あの宣言は今でも涙なくしては読めないのですが、その一言一句に西光君の精神が刻まれ、また部落民全体に通ずる願いが込められているからです』。
では、阪本清一郎が西光万吉の精神が刻まれたとする水平社宣言の精神とはどのようなものなのでしょうか。
まず何より「西光君の精神が刻まれ」という視点から、西光万吉の「精神」の軌跡がうかがえるのですが、つまり、差別体験や自己存在の意味と対峙する自殺願望も含め、自己の精神との格闘が刻まれているといえるのです。
また「部落民全体に通ずる願い」という視点では、賤称語と対峙する自尊心の覚醒や、人間権〈自由・平等・尊厳〉の奪還があげられます。その上で人間性の覚醒という人類の理想を掲げることで、宣言が被差別部落民のためだけのものではないという普遍性が打ち立てられたが故に、「水平社創立宣言」は人権宣言として再確認されるのです。
西光万吉の精神史<1>―すべてを否定し「死」を崇めた時代
ここから西光万吉の「精神世界」にふれていきたいと思います。
三浦大我(三浦参玄洞)(4)は水平社創立前の状況をその著書(「左翼戦線と宗教」)で『(略)此地拵への仕事にとりかゝつた人達の思ひ出しても身顫ひするやうな怖ろしい試練の時代であつた』と語っています。
当時の西光万吉について、『西光さんは、村人に会うことをいやがり恐れ、いくどか自殺を図った』と木村京太郎(5)は記しています。この西光の自殺願望については『(略)「生まれてくるということが、一番悪いんです。死こそが最高相の文化です。地上において、私共は果たして何を求め、何を望み得ましよう。一切は欺瞞です。不正です。不義です」と、彼は口を極めて罵つた』と三浦大我が書き留めています。更には「左翼戦線と宗教」で、『(略)兎に角寄る語る憤る、はては一切を否定し萬有を呪詛せねば已まぬといふ形式で、被虐者の哲學にはプロキユトの鉄の寝床がしよつちゆう重苦しい幻影を投げかけて居た』と西光万吉の苦悩が描かれており、三浦大我の小説「死神と人間」には、三浦と西光の会話を死神と人間の会話に置き換えて生きる意味を問うシーンも描かれています。
さらに西光はすべてを否定した『絶対避妊論』~『本能は洗練されねばならぬ、飲食も生殖も共に合理化された時本當の文化は人間の上に將來される、かく主張し來つた部落の一青年は彼の周圍が無反省に祖先以來の多産を已めないで低劣な存在を矢鱈に地上に送り出すことを憤つた、彼は遂にマルサスも新マルサスも一足飛びに飛び越ヘて直ちに絶對避妊論を高唱し出した、彼は無論出産を父の發情線に起生した偶然事と見做して居る、而して享樂が可能であれば生存の甲斐もあるが、それには物質的にも精神的にも極めて乏窮して居る彼の仲間には出産は啻に彼等自身を苦しむるのみならず生れ來つた嬰兒に對しては怖るべき罪惡を犯すことになると斷じたのである』~や、全てが死であるという精神状況にある断滅論~『彼はいふ、「飲食の本能が最洗練された頂點は斷食入定である、それと同時に生殖の本能は不生殖に達した時其最高相の雄姿に輝く」、と、而て諸般の改善運動も享樂が是れ丈け人類にとつて六ヶ敷題目になつて來ては一足飛びに斷滅の方法をとるのが最も賢い、文化の最高相は實に此斷無にありと叫ぶ』(三浦大我著より引用)~を展開しています。
つまり水平社宣言(水平社創立)以前の西光万吉はすべてを否定し、「死」こそが最高であるという精神世界に没入していたのです。
三浦大我との関係性
同時期の1921年1月、西光、阪本と共に「柏原の三青年」と呼ばれていた駒井喜作(6)は青年団弁論大会で「輝ける生」を演説し、精神の肯定を称揚していたことがうかがえます。同時期、博覧強記で地元の青年の指導的立場にあった三浦は、先に述べた「死に神と人間」で「眞實な生」への覚醒を説いています。
また三浦は西光に、『如何程低劣な個性でも自ら選んだ魂にとつて無意義な存在は一つもない、それはそれぞれ自らに價して居るのだ、個々の魂はその選んだ存在から苦悩を正受することによつて學ばねばならぬ喫緊事を把持して居る、其喫緊事を完全に果遂さす所に眞面目な人間の文化がある』や、『要するに絶対避妊論は洪水を待つ殘虐性の魔語だ、それは遂に殺人道徳論にまで破裂する、君が所謂文化の最高相は最暴惡な修羅の巷であらねばならぬ事になる、落ち着け!そのまゝでよい、そのまゝ與へられたる地位より一歩を動かさずしてひたふるに自らを掘下げて行け、そこにこそ文化の最高相はある』という薫陶を与えています。
西光の精神史<2>―否定の否定=肯定への転換
このような三浦の存在によって、西光の精神世界は「否定の否定は肯定」という弁証法的な心的転換が図られます。つまり、彼の生命を全否定した思想は超臨界点に達したことで、対極である「輝ける生」との統一がめざされ、完遂し、水平社の結成へ向かい得る精神的基盤が構築されたのです。
その転換の象徴といえるのが、西光の殉教者観にふれた、『あらゆる苦難のある鬪爭の方が所謂美しい死よりもよいではないか、それに吾々が何等潑溂な自發的社會運動を起し得ないのは、社會生活に無感覺である爲か。無感覺は死の假面だ、それなれば、一切黙ってゐるがいゝ、ゴーリキイがいつてゐる―呟いたり不平を云つたりして、それが何になる、破れるまで、仆れるまで、生きて生きて生き續けよ、そして既に破れてゐるのならば、黙つて死を待つてゐろ、全世界の智識は只之れ丈だ、解つたかね。吾々の運命は生きねばならぬ運命だ』(「水平社創立趣意書」)という文章ではないでしょうか。
つまり西光の精神世界は自らの出生への呪いから自殺賛美や絶対避妊論という究極の全否定に至り、そうした自己の罪深さからの魂の救済を求めることとの精神的格闘でありました。そして彼はそれを「否定の否定」という弁証法の止揚から『人世の事實をあるがまゝに見、それを愛すること』という宗教的覚醒を経て、「自殺賛美論者」の止揚としての「殉教者」という自己のイメージを確立していったと思われます。同時に、彼の思想世界では出自(身分)による桎梏と自由・平等を希求することとの思想的格闘があり、それらが結実したのが「水平社創立宣言」なのです。
表現主義的な水平社宣言
西光万吉を知る堺利彦(7)は西光像を『水平運動は種々なる新語を作り出した。恐らくこれは、水平運動の創始者と認められている西光氏の造語だろうと思う。西光氏は僧侶であり、画家である。宗教的アナキスト、芸術的アナキストという傾向もあるかと思う。兎もかく理想家であり、理想主義者である。「佳き日」という言葉の択び方にも、其の趣味傾向が窺われる』と語っています。
ここにもある通り、彼は画家ですが、芸術における印象主義と表現主義の誕生を対立の観点から弁証法的に導き出し、融和主義(改善運動)から水平社結成の必然性を以下のように理解したのです。それは彼の『インプレッショニズムを改善の藝術とし、エクスプレショニズムのそれを解放の藝術といひ度ひ。印象主義が存在するが故に表出主義が無くてはならないといふ言葉を吾々の問題にもち來って、私は改善運動が存在するが故に解放運動がなくてはならないと言ひ度ひ』という文章から読み取ることができるでしょう。
ところで、1921年初めから西欧芸術の動向が盛んに紹介され始め、エクスプレショニズムつまりドイツ表現主義に関する論説が雑誌等で盛んに紹介され出したのです。その思想はブルジョア的あるいは思考停止的な文化(芸術)を打破し、人間精神を触発することを意図したようです。したがって、表現主義とは印象主義のように客観的に感覚的印象を受容するのではなく、主観的・能動的にはたらきかけ、自我感情の昂揚、精神的人格性の価値の自覚を推進しようとすることにあります。それは水平社宣言の表現性と合い通じるものがあります。中でも『資本主義の現実のなかで、現実過程そのものによって疎外され、差別され、抑圧されている人間たちの生活そのものから自己の表現を変革するインパクトを受けとり、この人間たちの声や表情となって現実を告発し、告発の実践を通じてさらに表現と視線とを変えていったということのなかにこそ、存在する』とする表現主義の主張に、宣言起草の背景と相通じるものが感得されるのではないでしょうか。なお、宣言の芸術性は『いかに光りと熱との饒かなるかを見よ。そは人間の描けるあらゆる文献を通じて最も悲痛な氣氳を藏し、單なる社會運動の記録といはんには餘りに藝術的光芒に燃えてゐる』と吉井浩存(8)は評価していたのです。
おわりに
三・一五事件(昭和初期における社会主義者、共産主義者への弾圧事件)で投獄された西光が奈良刑務所で描いた絵が私の家にあります。その絵には金持ち(ブルジョア)の被差別者(プロレタリア)への人間蔑視あるいは哀れみの様子、そして卑屈になった被差別者の姿が描かれています。西光はこの絵の状況をたいへん嫌ったといわれ、形見として慰問に行った祖父の勝造に手渡したのです。この絵は現代の格差社会に対する告発としても通じるように思われます。